第七話:居残りの教室と、泣き虫な方程式
爺ちゃんの指輪がもたらす奇妙な日常にも、随分と慣れてきた。
図書室での白石との秘密の約束や、新田のギプスが取れた後のデートの約束。身の回りの世界は確実に優しく、そして少しばかり騒がしく変わり始めていた。だが、この指輪の力は学校の中だけで留まってくれるわけじゃない。
十月の上旬。夜の九時を回り、静まり返った個別指導塾の自習室。
俺は睡魔と戦いながら、終わりのチャイムが鳴るのを待っていた。いつもなら、この時間でも「はい、ここテストに出るよー!」と元気な声を響かせているはずの、お気に入りの先生がいた。
藤沢美咲先生。都内の有名大学に通う、お洒落で綺麗な女子大生講師だ。
いつも明るく、教え方も丁寧で、男子生徒たちの間では密かにアイドル扱いされている。俺も彼女の担当生徒の一人で、他愛ない世間話を交わすくらいの「一応の顔見知り」だった。
だが、今日の藤沢先生は明らかに様子がおかしかった。
髪は少し乱れ、いつも絶やさない笑顔が消えている。虚ろな目でホワイトボードを見つめ、チョークを持つ手が微かに震えていた。
授業終了を告げるチャイムが鳴り、他の生徒や講師たちがそそくさと帰路につく。俺が荷物をまとめて自習室を出ようとした、その時だった。
誰もいなくなったブースの片隅で、片付けをしていた藤沢先生の後ろを通りかかる。
その瞬間、俺の左手の小指にある指輪が、これまでにないほどドクドクと、激しく脈打った。心臓を直接掴まれたような、息が詰まるほどの冷たさ。
頭の中に流れ込んできたのは、絶望に濁りきった、今にも消え入りそうな声だった。
――なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないの……?
その声の生々しさに、俺は思わず足を止めた。
――サークルのみんなも、結局はあの子の味方なんだ。親友だと思って、何でも相談してたのに。私の彼氏を寝取っておいて、『奪うつもりはなかった、二人が本気になっちゃったから応援してほしい』なんて、よくそんな嘘が吐けるよ。みんなも『お似合いだから仕方ない』って……。私の居場所なんて、最初からどこにもなかったんだ。
ホワイトボードを消す藤沢先生の背中が、ひどく小さく見えた。彼女の心は、血を流すように泣いていた。
――もう嫌だ。大学に行くのも、東京にいるのも、全部。この塾のバイトも辞めて、明日、アパートを引き払って実家に帰ろう。あんな田舎に戻ったら親になんて言われるか分からないけど……ここにいたら、本当に頭がおかしくなっちゃう。
裏切り、失恋、そして孤独。
いつも完璧な笑顔を見せていたお姉さんの、誰にも言えない切実な本音だった。
ここで生徒の俺が踏み込むのは、お節介がすぎるかもしれない。そう自分に言い聞かせて歩き出そうとしたが、指輪が指に食い込むように冷たさを増す。
――助けて。誰でもいいから、私が悪くないって言ってよ……。
足が止まった。
こんな本音を聴かされて、無視して帰れるほど、俺は大人になりきれていなかった。
ふと、世界中を飛び回って修羅場をくぐり抜けてきたという、爺ちゃんの言葉がリフレインする。
『なぁ航平。女が一番傷つくのはな、裏切られた時じゃない。裏切られた結果、「自分が悪かったんじゃないか」って、自分を疑い始めちまった時だ。そこから救い出せるのは、いつだって利害関係のない、真っ直ぐな他人の言葉だけなんだよ』
「……まったく、クソジジイの言う通りだな」
俺は小さく息を吐いた。カバンから、さっき自販機で買ったばかりの、未開封の温かい緑茶のペットボトルを取り出す。
わざとノートを大きく閉じる音を立てて、彼女のいるブースへと近づいた。
「藤沢先生」
「えっ……? あ、渡辺くん。びっくりした、まだ残ってたのね」
藤沢先生はハッとして振り返り、素早く目元を拭った。いつもの明るい「先生の顔」を作ろうとしているが、その瞳はひどく赤く潤んでいた。
「これ、まだ開けてないんで。喉、カラカラに見えたから」
俺は温かい緑茶を机の上に、コト、と置いた。彼女は怪訝そうにそれを見つめ、「ありがとう。でも、先生は大丈夫よ? 早く帰らないと、お母さんが心配するわよ」と、いつものように子供扱いしてあしらおうとした。
「先生、今日、授業の解説いつもより雑だったぞ」
「え……?」
「数Ⅱの公式、一箇所書き間違えてたし。いつもなら絶対にしないミスじゃん。……先生さ、なんか世界中で自分だけが悪いみたいに、めちゃくちゃ自分を責めてる顔してる」
藤沢先生は息を呑み、目を見開いて俺を見た。「そんなこと……」と言いかけて、言葉を詰まらせる。
「詳しい事情なんて、生徒の俺には分かんないよ。でもさ、本当に綺麗で真っ直ぐな人ほど、誰かに泥水をかけられた時に、『自分が汚い人間なんじゃないか』って勘違いしちゃうんだってさ。俺の爺ちゃんの受け売りだけど。……先生、いつも俺たちのために一生懸命で、すげえ優しいじゃん。だから、その優しさに甘えたバカな奴らに、都合よく利用されただけなんじゃないの?」
「渡辺くん……」
「俺の勝手な想像だけどさ、そいつらが今頃のうのうと笑ってるのに、被害者の先生が苦しんでるなんて、そんなの不公平すぎるじゃん。悔しくないのかよ」
彼女の身体が、小刻みに震え始めた。
指輪から伝わってくる感情が、焦燥から、激しい悔しさと、堰を切ったような悲しみへと変わっていく。
「悔しい、よ……。悔しいに決まってるじゃん!」
藤沢先生はついに耐えきれなくなり、机に突っ伏して声をあげて泣き崩れた。
生徒の前だというプライドも、年上としての体裁も、すべてが崩壊していた。でも、誰もいない居残りの教室だからこそ、溜め込んでいた感情をようやく外へと吐き出せたのだろう。
俺は何も言わず、ただ彼女の隣に立って、泣き声が静まるのを待った。夜の教室に、彼女の嗚咽だけが響いていた。
やがて、少しだけ落ち着きを取り戻した彼女は、机の緑茶を手に取り、冷えた手で包み込むようにして一口飲んだ。
「……最低ね、私。生徒の前で大泣きするなんて、先生失格だわ」
涙で濡れた目で、彼女は自嘲気味に、けれど少しだけすっきりした顔で微笑んだ。
「失格じゃないって。先生だって人間だし。でもさ、もし他の人のために自分の未来を捨てるなんてこと考えてるんなら、それこそ最大の損じゃん」
「……言うのは簡単だけどさ。一人は、寂しいよ」
「一人じゃないだろ。先生の価値をちゃんと分かってくれる奴は絶対にいる。……例えば、ほら、ここにいる俺とかさ。先生が大学やめないで東京にいてくれたら、俺、次の模試で絶対に数学の点数上げるから」
最後のは、少しお調子者がすぎただろうか。顔が熱くなるのを感じながら、俺はカバンを肩にかけ直した。
「じゃ、お茶代の代わりに、次の授業もよろしく。頑張れよ、美咲お姉さん」
あえて「先生」ではなく「お姉さん」と呼び、俺は足早に教室を後にした。振り返らずに手を振って応えたのは、これ以上いたら恥ずかしさで顔が爆発しそうだったからだ。
胸の奥が温かい。指輪を見つめると、小指を優しく包み込むような心地よい熱を放っていた。
◆
それから一ヶ月後。
塾のシフトの関係もあり、俺はしばらく藤沢先生の授業を受けられずにいた。白石との放課後や、新田との他愛ないお喋りで、俺の高校生活は相変わらず充実していたが、どこかで先生のことが気にかかっていた。
そんなある土曜日。塾の自習室に向かうため、受付を通ろうとした時のことだった。
「あ、渡辺くん!」
声をかけられ振り返ると、そこには見違えるほど綺麗にメイクをし、自信に満ちた笑みを浮かべた藤沢先生が立っていた。あの夜の、泣き虫なお姉さんの面影はどこにもない。
「先生……元気でたみたいだね」
「ええ。あなたの言う通り、あいつらのために私の人生を諦めるなんて馬鹿馬鹿しいって思ってね。サークルは辞めたし、あの二人とは完全に縁を切ったわ。今は勉強に集中して、もっと上を目指すって決めたの。……あの日、あなたに『価値がある』って言ってもらえなかったら、私、本当に逃げ出してた」
彼女は一歩近づき、周囲に他の人がいないのを確かめると、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、教師としてではなく、恋を知った一人の女の子特有の、キラキラとした輝きを帯びている。
「次の模試、数学の点数上げるって約束、忘れてないわよね? 今日はね、居残りの特別授業。……先生じゃなくて、一人の女の子として、あなたに勉強を教えてあげる。だからさ、今日の塾が終わったら――お礼に、美味しいパンケーキ、ご馳走させて。もちろん、二人きりでね?」
悪戯っぽく笑う彼女の心の声が、指輪を通じて、津波のように押し寄せてきた。
――やっとシフトが合った……! この一ヶ月、早くあなたに会いたくて仕方がなかったんだから。高校生相手にこんなにドキドキするなんて思わなかったけど……もう絶対に離さないんだからね!
表向きの「からかってくる頼れるお姉さん」の態度と、内面の「恋する乙女」の激しいギャップに、今度は俺の心臓が爆発しそうになる。年上の女性からのストレートな好意は、刺激が強すぎた。
小指の指輪が、秋のひんやりとした空気の中で、これまでで一番熱く、誇らしげにジリジリと輝いていた。
「……まったく、爺ちゃんの言う通りだ。女は何歳になっても、お姫様なんだな」
俺は覚悟を決めて苦笑し、「喜んで、美咲さん」と、彼女の誘いに頷いた。どうやら俺の高校生活は、年上の女子大生講師まで巻き込んで、さらにとんでもない修羅場へと突入していくらしい。
読者様へのお詫び
大変申し訳ありません。前回の話で主人公の名前に誤記載がありました。名前を執筆中に変更したのですが、修正が漏れていました。謹んでお詫び申し上げます。




