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第六話:雨上がりのリンドウと、ジジイの勲章

 爺ちゃんが亡くなって、初めての初盆が近づく蒸し暑い日の午後だった。


 渡辺家のリビングには、ピリピリとした奇妙な緊張感が漂っていた。

 理由は一つ。つい先ほど「生前の渡辺(わたなべ)宗次郎(そうじろう)さんにお世話になりました」と、我が家を訪ねてきた一人の女性の存在だ。


 彼女の名前は九条(くじょう)麗子(れいこ)さん。仕立ての良い紺色のワンピースに身を包んだ、モデルかと思うほど洗練された美しい大人の女性だった。

 年齢は四十代半ばだろうか。気品ある佇まいは、下町の平屋である我が家の中で完全に浮いていた。


「まさか、あのクソ親父が......」


 キッチンで麦茶を準備する母親の背中から、激しい動揺と『警戒』の感情が伝わってくる。

 無理もない。

 爺ちゃんは生前、絵に描いたような偏屈で不器用な職人だった。家族にはろくに優しい言葉もかけず、酒を飲んではくだらない文句ばかり言っていた男だ。


 そんなジジイの生前の知人が、こんな目も眩むような美女だなんて、家族の誰もが「まさか生前に不倫でもしていたんじゃ......」と最悪の想像を巡らせていた。


 俺は左手の小指にある指輪にそっと触れた。

 ジジイの形見であるこの指輪は、女性の本音を聴かせる力がある。リビングのソファに静かに座る九条さんを見つめながら、俺は神経を集中させた。


 すると、彼女の胸の奥から、冷たい雨のような深い悲しみと、張り裂けそうな感謝の念が流れ込んできた。


 ――宗次郎さん、ようやくお線香をあげに来られました。あの時、あなたが私のすべてを救ってくれなければ、今の私はありません。本当に、本当にありがとうございました......――。


(......不倫なんかじゃない)


 確信した俺は、母親から麦茶のトレイを受け取り、リビングへ運んだ。

「どうぞ、九条さん。大したおもてなしもできなくてすみません」

「いいえ、お気遣いありがとう、航平くん。宗次郎さんから聞いていた通り、優しい目をした男の子ね」


 九条さんは穏やかに微笑み、仏壇の前へと進んだ。丁寧な仕草でお線香をあげ、静かに手を合わせる。その後ろ姿を、母親と、ちょうど仕事から帰ってきた親父が、まだどこか硬い表情で見守っていた。


 親父が意を決したように口を開く。

「あの、九条さん。不躾ですが、不器用極まりなかった私の父と、一体どこで知り合われたのですか?」


 九条さんはゆっくりと振り返り、どこか懐かしむような目で仏壇の遺影を見つめた。


「もう二十年以上も前のことです。当時、私は夫の酷い暴力と借金に怯え、幼い娘を連れて着の身着のままで逃げ出しました。実家にも見放され、行くあてもなく、絶望してこの街の夜の雨の中に立ち尽くしていたんです。本当に、もう娘と一緒に消えてしまおうかと、線路を見つめていました」


 リビングの空気が凍りつく。母親が息を呑む音が聞こえた。


「そんな私を、怒鳴りつけるような大声で引き留めたのが、宗次郎さんでした。『何バカなこと考えてやがる! 死ぬ気がありゃ何でもできるだろ!』って。宗次郎さんは私と娘を自分の古い作業場に匿い、ずぶ濡れの私たちに温かい湯豆腐を振る舞ってくれました」


 九条さんは愛おしそうに、自分の右手の薬指に視線を落とした。そこには、古びているが、どこか見覚えのある細工の銀の指輪がはめられていた。


「夫が刃物を持って作業場に怒鳴り込んできた時も、宗次郎さんは一歩も引かずに私の前に立ちはだかってくれました。『この手を離したら、男が廃るんだよ!』って、殴られて血を流しながらも、警察が来るまで私たちを守り抜いてくれたんです。その後、弁護士さんを紹介して離婚手続きまで手伝ってくれて......。


 その時に、宗次郎さんが私に作ってくれたのが、この『魔除けの指輪』でした」


 九条さんの指輪から、当時の記憶が鮮明な感情となって俺の指輪へと響いてくる。――怖くて震える私の手を、宗次郎さんのゴツゴツとした職人の手がしっかりと握りしめてくれた。あの手の温かさが、私に生きる勇気をくれた――。


「宗次郎さんは、私が何度お礼のお金を持っていっても、『俺は職人だ、余計な銭はいらねえ。お前が娘と幸せに暮らすのが、俺の作品の完成だ』って、絶対に受け取ってくれませんでした。だから私、せめて娘を立派に育て上げて、幸せになった姿を見せることだけを目標に生きてきたんです。おかげさまで娘も無事に大学を卒業し、ようやく落ち着いたので、こうしてお礼に伺いました」


 九条さんはそう言うと、持参した風呂敷から、美しいリンドウの花束と、一本の高級な日本酒を取り出した。

「宗次郎さんが大好きだったお酒です。あの時、作業場で『いつかお前が幸せになったら、一番高い酒を持って線香をあげにこい』って、笑いながら約束してくれたから」


 沈黙が流れた。親父は眼鏡を外して目元を強く押さえ、母親はエプロンの裾で何度も涙を拭っていた。

「父が、そんなことを......。私たちは何も知らず、ただの頑固親父だとばかり......」親父の声が震えている。


「宗次郎さんは、本当に素晴らしい、格好いい方でした。家族の皆さんの前では照れくさくて言えなかったのでしょうけれど、いつも『自慢の息子と、おこがましいほど出来た嫁だ』って、嬉しそうにお酒を飲んでお話しされていましたよ」


 その言葉を聞いた瞬間、我が家のリビングを包んでいた警戒心は完全に消え去り、そこには言葉にできないほどの温かい光が満ち溢れていた。家族全員の心が、亡き爺ちゃんの不器用な愛によって、一つに溶け合っていくのがわかった。


 ◆


 九条さんが「また命日にお伺いしますね」と、晴れやかな笑顔で去っていった後。夕方の涼しい風がリビングの窓から吹き込んできた。仏壇の前には、鮮やかな紫色のリンドウの花と、爺ちゃんが愛した日本酒が供えられている。


 遺影の中のジジイは、心なしかいつもより少しだけ得意げな顔をしているように見えた。


「航平、ちょっとお父さんとお母さんにお酒を注いでくれないか。今夜は、爺ちゃんの思い出話をしよう」

「うん、わかった」


 親父と母親の顔には、これまでにない穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。ジジイが遺したものは、ただの古びた家や道具だけじゃない。誰かの人生を本気で救い、家族を陰ながら愛し続けたという、職人としての誇りと、目に見えない無数の勲章だったのだ。


 俺は小指の指輪をそっと見つめた。トクトクと、まるで爺ちゃんの心臓がまだ生きているかのような、力強くも温かい鼓動が伝わってくる。


(クソジジイ。お前、思った以上に大悪党で、思った以上に大バカ野郎の......最高に格好いいヒーローだったんだな)


 俺もいつか、誰かの絶望を遮るような、そんな強い手を差し伸べられる男になれるだろうか。


 指輪から伝わる温もりは、まるで「お前ならやれるさ」と、不器用な声で俺の背中を押してくれているようだった。


挿絵(By みてみん)

すみません。主人公の名前を間違えているという大失態を犯してしまいました。修正をしました。

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