第五話:罪のあとに残る赤と、本当のヒーロー
爺ちゃんの指輪は、俺に女の子たちの様々な本音を聴かせてくれた。恋心、焦り、嫉妬、家族への想い。だが、時にその本音は、誰にも言えない冷たい絶望の形をして、俺の心に重くのしかかる。
十月のよく晴れた日の放課後。駅前の百円ショップのコスメコーナーで、俺はこれまでの人生で最も悲痛な女の子の悲鳴を、その指輪を通じて聴くことになった。
「......っ、......っ、」
棚に並んだ安価なリップクリームを前に、小さく肩を震わせている女子がいた。
同じクラスの瀬尾ひなた。いつも怯えたように周囲の顔色を伺っている、お世辞にも目立つとは言えない大人しい女の子だ。彼女の細い指先が、一本の赤色のリップに伸びていた。しかしその手は、まるで冷たい氷にでも触れるかのように激しく震えている。
その瞬間、俺の左手の小指にある指輪が、皮膚を引きちぎるような、鋭い痛みを放った。頭の中に流れ込んできたのは、息が詰まるほどの恐怖と、張り裂けそうな絶望の叫びだった。
――怖い。見つかったら警察に捕まる。私の人生は終わりだ。でも......でも、明日までにこれを盗んでいかないと、またあのグループに『裏アカウントで酷い噂を流す』って脅される。もう嫌だ。誰か、誰かお願いだから助けて......!
俺は全身の血が引いていくのを感じた。万引き。それは紛れもない犯罪だ。
しかし、瀬尾が自分の意思でやろうとしていないことは、指輪が伝える絶望の深さからすぐに分かった。いじめの命令で、彼女は犯罪の片棒を担がされようとしていたのだ。
瀬尾が、震える手でリップを制服のポケットにねじ込もうとしたその時、背後から店員が怪訝そうな顔でこちらに歩いてくるのが見えた。このままでは、彼女は本当に破滅してしまう。
「おい、瀬尾!」
俺はわざと大きな声を出し、店員と瀬尾の間に割って入った。瀬尾がビクッと飛び跳ね、怯えた瞳で俺を見上げる。俺は彼女の手からリップをひったくると、そのままレジへと向かった。財布から百十円を出し、支払いを済ませる。
店員の疑いの視線が消えるのを見届けてから、俺は瀬尾の腕を掴んで店を出た。
◆
駅前の小さな公園。夕暮れのベンチに座り、瀬尾は膝の上で拳を強く握りしめていた。大粒の涙が、彼女の制服のスカートにポツポツと黒い染みを作っていく。
「なんで......なんで邪魔するのよ、渡辺くん。私が捕まればよかったのに。そうすれば、もう学校にも行かなくて済んだのに......っ」
「馬鹿なこと言うな」
俺はさっき買ったリップを彼女の目の前に突きつけた。
「これを盗んで渡したところで、明日はもっと高いものを盗んでこいって言われるだけだ。そんなの解決じゃねえだろ」
瀬尾はハッと息を呑み、涙に濡れた顔を上げた。
「なんで......知ってるの......?」
「なんとなく、お前を見てればわかるよ。裏アカで脅されてんだろ。誰にやられてるか、教えてくれ」
最初は頑なに拒んでいた瀬尾だったが、俺が「お前を絶対に一人にしない」と何度も伝えると、ようやく重い口を開いた。
主犯格は、クラスの別の女子グループ。ネットの匿名アカウントを使い、瀬尾の捏造した淫らな噂を流すと脅し、小遣いを巻き上げ、ついには万引きまで強要するようになったという。
「......わかった。明日、決着をつけよう」
俺はそう言い残し、すぐにスマートフォンを取り出した。
ここでただ万引きを止めるだけでは、彼女の地獄は終わらない。いじめっ子たちの退路を完全に断つために、俺には強力な『相棒』が必要だった。俺が連絡を向けたのは、第一話で救った、クラスの裏事情に一番詳しい図書委員の白石だった。
事情を話すと、白石の指輪からかつて聴こえたあの冷たい本音が、今度は俺の味方として頼もしく響いた。
――瀬尾さんをそんな目に遭わせてる奴ら、絶対に許さない。徹底的にネットの証拠、集めてあげる――。白石は一晩かけて、いじめっ子たちが瀬尾に送った脅迫メッセージや、裏アカのIPアドレス、投稿履歴を完全に言い逃れできない『証拠』として保全してくれた。
◆
翌日の放課後。誰もいなくなった理科準備室。いじめっ子グループの三人が、瀬尾を壁際に追い詰めていた。
「ねえ、昨日のアレ、どうしたわけ? 早く出しなよ」
怯える瀬尾の前に、俺と白石が静かにドアを開けて入っていった。
「なんだよお前、渡辺? 関係ない奴は引っ込んでろよ」
リーダー格の女子が不快そうに眉をひそめる。
俺は何も言わず、白石から受け取った数枚のプリント用紙を、彼女たちの目の前に突きつけた。
「これ、お前らが瀬尾に送った脅迫メッセージの魚拓な。あと、お前らが使ってる裏アカのログイン履歴と、昨日お前らの命令で瀬尾が万引きさせられそうになった時の百円ショップのレシート。全部揃ってる」
いじめっ子たちの顔から、一瞬で血の気が引いていくのがわかった。
「な、何これ、ただの冗談じゃん......!」
「冗談で済むかよ。今からこれを、学校の職員室と、お前らの親、それから警察に持ってく。強要罪と恐喝罪、それに窃盗の教唆だ。高校生でも普通に鑑別所行き、最悪は退学処分だな。どうする? 今すぐここで瀬尾に土下座して二度と近づかないと誓うか、それともこのまま人生終わらせるか、選べよ」
俺のたたみかけな言葉に、いじめっ子たちはガタガタと震えだし、ついにその場に泣き崩れて瀬尾に謝罪した。
二度と彼女に近づかないという念書を書かせ、白石が「次やったら即送信ね」と微笑むと、彼女たちは逃げるように走り去っていった。
◆
静かになった理科準備室。
夕日が窓から差し込み、室内をオレンジ色に染めていた。瀬尾はその場にへたり込み、声をあげて大泣きした。今度は恐怖の涙ではない。すべての重荷から解放された、安堵の涙だった。
「私、本当に怖かった......っ。もうおしまいだって思ってた......。渡辺くん、白石さん、ありがとう......ありがとう......!」
その時、俺の小指の指輪が、これまでにないほど激しく、ドクンドクンと熱い拍動を刻み始めた。瀬尾の心から流れ込んできたのは、涙で濡れた、けれど太陽のように眩しい純度百パーセントの恋心だった。
――暗闇の中で、ずっとこの手が誰かに掴んでほしかった。もうダメだって諦めてたのに、王子様みたいに助けてくれた。渡辺くんは、私の、世界でたった一人の本当のヒーローだ......っ。
俺は照れくささを隠すように頭を掻き、ポケットから昨日買い取った百均のリップを取り出して、彼女の手のひらにそっと乗せた。
「これは泥棒したやつじゃなくて、俺がちゃんと買ったやつだから。次からはさ、誰かに脅されて怯えるためじゃなくて、お前が本当に可愛くなるために使いなよ」
瀬尾は涙を拭い、リップを大切そうに胸に抱きしめると、夕日の中で、これまでのどんなヒロインよりもひたむきで、美しい笑顔を見せてくれた。
「うん......! 私、もっと可愛くなるね、渡辺くん」
指輪が繋ぐ絆は、時にはこんな風に、誰かの人生のどん底を救う盾にもなる。
小指に伝わる温かい鼓動を感じながら、俺は、このクソジジイの形見が少しだけ好きになっている自分に苦笑した。




