第四話:嘘つきな鏡と、秘密のステップ
爺ちゃんの指輪を嵌めてから、俺の周りには少しずつ変化が起きていた。図書室の白石、陸上部の新田、そしてうちの母ちゃん。彼女たちの誰にも言えない本音に寄り添ってきた結果、俺の評価は「ただの地味な男子高校生」から、なぜか「妙に女子の気持ちがわかる奴」へと変わりつつあった。
だが、十月に開催される文化祭の準備期間中、俺はこれまでで最も複雑な、ある女の子の叫びを聴くことになる。
「じゃあ、文化祭の有志ステージのダンス、うちらのグループで出るから! みんな応援よろしくね!」
ホームルームの時間、クラスのいわゆる一軍女子グループのリーダー格が華やかに宣言し、教室がワッと沸いた。誰もが納得する、クラスで一番可愛い、華のある女子たちだ。
そんな喧騒のなか、教室の最前列の隅で、じっと下を向いて消しゴムのクズをこねている女子がいた。
椎名紬。いつも分厚い前髪で顔を隠し、度の強い眼鏡をかけた、お世辞にも目立つとは言えない地味な同級生だ。彼女の周りだけ、まるで時間が止まったように暗い。
その時、俺の小指の指輪が、皮膚を焦がすような熱を帯びた。頭の中に流れ込んできたのは、ドロドロとした黒い嫉妬と、それに矛盾するような、眩しすぎる夢の叫びだった。
――いいな、可愛い子は。生まれつき顔が良いだけで、何をやってもチヤホヤされて、スポットライトを浴びて。神様は本当に不公平だ。どうせ私はブスだし、あんな風に笑えるわけない......。
そこまでは、よくあるコンプレックスの吐露だった。だが、指輪から伝わる本音は、そこから急激に熱量を増していった。
――でも、本当は。本当は、私もあの中に混ざりたい! 可愛い衣装を着て、ステージの上でキラキラ輝いて、みんなに私を見てほしい! アイドルになって、世界を変えてみたい......! バカみたい。地味でブスな私が、そんな夢持っちゃいけないのに......っ。
俺は思わず息を呑んだ。可愛い子への激しい嫉妬。その裏にあったのは、誰にも言えない「アイドルになりたい」という猛烈な憧れだった。自分には資格がないと諦め、醜い嫉妬で蓋をしながらも、彼女の心は誰よりも強く、ステージを求めて泣いていた。
◆
文化祭前の一週間。俺は指輪の微かな共鳴を頼りに、放課後の旧校舎へと足を運んだ。今は使われていない薄暗い多目的室。その窓ガラスを鏡代わりに、一人で猛烈に踊っている女子の姿があった。椎名紬だった。
眼鏡を外し、前髪をピンで留めた彼女の動きに、俺は言葉を失った。 キレのあるステップ、指先まで神経の通ったしなやかな表現力。一軍女子たちの楽しげなダンスとは、明らかに次元が違っていた。彼女は家や誰もいない場所で、血の滲むような努力を重ねて、そのスキルを磨き上げてきたのだ。
パチ、パチ、パチ。
俺が静かに拍手を送ると、紬は悲鳴を上げて飛び退いた。慌てて眼鏡をかけ、前髪を引きずり下ろす。
「わ、渡辺くん......!? なんで、ここに......」
「新田に、使われてない多目的室に忘れ物したから見てきてって頼まれてさ。......それより椎名。お前、ダンスめちゃくちゃ上手いな。アイドルのオーディションとかに出ても、一発で通るレベルだろ」
「な、何言ってるの......!」
紬の顔が羞恥で真っ赤に染まる。指輪からは、――見られた、死にたい、バカにされる――というパニックの声が届く。
俺は一歩近づき、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「バカにしてない。本気だ。顔が可愛いだけの奴なんて世の中にいくらでもいるけど、これだけ人を惹きつけるダンスができる奴は、そうそういない。椎名、本当はステージに立ちたいんだろ? 可愛い奴らに嫉妬して、自分の殻に閉じこもって、ここで一人で踊ってるだけで満足なのかよ」
「渡辺くんに何がわかるの......!」
紬は涙をためて叫んだ。
「私が、自分の顔をどれだけ嫌いか知らないくせに! あんな可愛い子たちの隣に並んだら、私が引き立て役にしかならないことくらい、自分が一番よくわかってるの! 私なんか、一生裏方がお似合いなんだよ......!」
「じゃあ、引き立て役にならないくらい、お前を一番可愛くしてやるよ」
「え......?」
「有志ステージのソロ枠、まだ一日だけ空きがある。俺が推薦枠で仕込んどいてやる。衣装は図書委員の白石が家庭科部とツテがあるし、メイクは新田の姉貴が美容学生だから完璧に変身させてくれる。お前はただ、その圧倒的なダンスを全校生徒に見せつければいい。......自分で自分をブスって決めつけて、大好きな夢から逃げんなよ」
紬は呆然と俺を見つめた。指輪からは、――怖い、でも、信じてみたい。私の夢を、この人が笑わずに引っ張り出してくれた――という、微かな、けれど確かな光を帯びた本音が聴こえた。
◆
文化祭当日。体育館のボルテージは最高潮に達していた。
一軍女子たちのダンスが終わり、大きな拍手が巻き起こる。
その直後、司会の声が響いた。
「次のエントリーは、クラス推薦の特別枠......椎名紬さんです!」
ざわざわと困惑が広がる。
「誰?」
「あの地味な椎名?」
しかし、ステージの幕が上がり、イントロの重低音が響いた瞬間、体育館の空気が一変した。
そこに立っていたのは、分厚い眼鏡を外し、白石たちの手によってプロのアイドルのような眩しい衣装をまとった、一人の美しい少女だった。
新田の姉による完璧なメイクは、彼女の鋭くも切ない瞳の魅力を最大限に引き出していた。
紬が動く。その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。
圧倒的なキレ、観客の視線を釘付けにする表現力。一軍女子たちのダンスが霞むほどの、本物の「ステージ」がそこにあった。
彼女は嫉妬も、不安も、すべてをエネルギーに変えるように、泥臭く、けれど最高に美しく輝いていた。もはや彼女を地味だと笑う者は誰もいなかった。誰もが、その眩しさに目を奪われていた。
ステージ終了後。騒がしい舞台裏の片隅で、息を切らせた紬が俺を待っていた。
衣装のまま、まだ興奮で体を震わせている。俺が近づくと、彼女はきらきらとした瞳で俺を見上げた。
「渡辺くん......私、輝けてた......? みんな、私を見てくれてたかな......?」
「ああ、見てたよ」
俺は微笑んだ。
「クラスのどの女子よりも、いや、世界中のどのアイドルよりも、今日の椎名が一番可愛かったよ」
その瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。と同時に、俺の小指の指輪が、破裂しそうなほどの熱い拍動を刻み始めた。頭の中に流れ込んできたのは、嫉妬なんて一滴も残っていない、純度百パーセントの、あまりにもピュアな恋の叫びだった。
――あ、ダメ。みんなに見てほしかったはずなのに、今は、渡辺くんだけに見てほしい。アイドルの私じゃなくて、ただの私が......この人のこと、好きになっちゃった......っ。
「ふふ、ありがとう。......でも、私のファン第第一号は、渡辺くんだからね。責任、とってよね?」
眼鏡のない彼女が、悪戯っぽく、けれど恋心を隠せない顔で真っ赤になって微笑む。
どうやら爺ちゃんの指輪は、女の子の醜い感情すらも、極上の「可愛い」に変えてしまう魔法のアイテムだったらしい。
俺の小指は、彼女の熱い本音に同調するように、いつまでも心地よく脈打っていた。




