第三話:鏡のなかの溜息と、夜のアップルパイ
爺ちゃんの指輪のおかげで、図書委員の白石や、陸上部の新田の本音を知り、彼女たちを陰ながら助けることができた。二人が俺に向ける視線が、最近明らかに甘酸っぱいものに変わってきているのを感じる。男子高校生としては、鼻高々と言いたいところだった。
......だが、この指輪は容赦がない。ある夜、俺は聴くべきではない「最愛の女性」の悲痛な本音を拾ってしまった。
「はぁ......」
夜の十一時を回ったリビング。お茶を飲みに部屋を出た俺は、洗面台の鏡の前で立ち尽くす母ちゃんの姿を見かけた。パートと家事に追われ、いつも元気で口うるさい、俺にとっての「完璧な母親」だ。しかし、薄暗い洗面所で自分の顔をじっと見つめる彼女の背中は、ひどく小さく見えた。
その時、俺の左手の小指にある指輪が、ずんと重く、冷たい鈍痛を放った。
頭の中に流れ込んできたのは、いつもの女子高生たちの悩みとは一線を画す、生々しく、切実な溜息だった。
――またシワが増えたな。白髪も、いくら染めてもすぐ生えてくる。......私、どんどんお婆ちゃんになっていくんだな。もう誰も、私のことなんて一人の女性として見てくれない。お父さんにとってはただの『家政婦』で、息子にとってはただの『飯炊き係』。私は、ただ歳をとって消えていくだけの存在なのかな......。
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。全身に冷や汗が流れる。 十六歳の男子高校生にとって、母親の「老いへの恐怖」や「女性として見られなくなる寂しさ」なんて、一番知りたくない、そしてどう扱っていいか分からない種類の本音だった。親は親のままでいてほしい。ずっと強くて、お小遣いをケチる元気な母ちゃんでいてほしかった。一人の脆い人間としての母ちゃんの姿なんて、見たくなかった。
気まずさに耐えかねて部屋に戻ろうとした時、ふと脳裏に、あの女癖の悪かった爺ちゃんの言葉が蘇った。
『なぁ、航平。男ってのはな、何歳になってもガキだが、女ってのはな、何歳になってもお姫様なんだよ。そこを忘れちまった男から、女は離れていくんだ。母親だって、ばあちゃんだって同じだぞ』
あの時は「何言ってんだクソジジイ」と聞き流していたが、今ならその言葉の重みがわかる。母ちゃんは、誰かに「一人の人間」として、大切に扱われたがっているのだ。
翌々日の土曜日。俺は珍しくリビングで新聞を読んでいる親父の前に座った。
親父は典型的な昭和気質のサラリーマンで、家では寡黙だ。母ちゃんが料理を運んできても、スマホを見たまま「ああ」と生返事をするだけ。指輪の言う通り、親父は完全に母ちゃんを空気扱いしていた。
「なぁ、親父」
「ん、なんだ?」
「来週の結婚記念日、何か予定あんの?」
親父は一瞬きょとんとして、「いや、特にないが......それがどうした」と新聞に目を戻した。
俺は小さく溜息をついた。
「母ちゃん、最近パートが忙しいみたいでさ、結構疲れてるっぽいんだよ。たまには二人で、昔行った美味い店にでも飯食いに行ってきたら? ほら、駅前に新しくできたフレンチの店とかさ。俺の晩飯なら、適当にコンビニで買うから心配いらないし」
親父は驚いたように新聞を下げ、俺の顔を凝視した。息子からそんな小生意気な提案をされるとは思っていなかったのだろう。少し気まずそうに、けれどどこか反省したように、親父はふいっと目をそらした。
「......お前がそこまで言うなら、考えておく」
よし、まずは外堀を埋めた。次は内側だ。
その日の夜、アルバイトの給料日だった俺は、駅前にある少し高級な洋菓子店に立ち寄った。母ちゃんが昔から「ここのは絶品なのよ」と言っていた、人気のアップルパイを買うためだ。高校生の財布には少し痛い出費だったが、背に腹は変えられない。
夜、キッチンで一人、翌日の仕込みをしている母ちゃんの机の上に、俺はぶっきらぼうにその箱を置いた。
「はい、これ」
「あら、何これ? ......えっ、これ、マダム・ルージュのアップルパイじゃない!どうしたのこれ」
母ちゃんは目を輝かせた。
俺は照れくささを隠すように、そっぽを向いてカバンを肩にかけ直した。
「バイト代入ったからさ。いつも飯作ってもらってるし、その......ありがとな。あとさ、母ちゃん、最近なんか綺麗になったんじゃない? クラスの奴らが、こないだの三者面談でお前のこと『綺麗な母ちゃんで羨ましい』って言ってたぞ」
もちろん、そんなの真っ赤な嘘だ。だが、言葉にして伝えることに意味があると思った。
「ちょっと、何言ってんのよ、バカ言わないで」
母ちゃんは呆れたように笑ったが、その頬はほんのりと赤くなっていた。その瞬間、小指の指輪がジワリと、まるでお風呂に浸かった時のような、信じられないほど優しく温かい熱を帯びた。頭の中に、泣き出しそうなほど幸せな本音が流れ込んでくる。
――この子、私のこと見ててくれたんだ。家政婦なんかじゃない、ちゃんと一人の人間として、母親として感謝してくれてる......。それに、綺麗だなんて。お世辞でも、世界で一番嬉しいわ。明日からまた、頑張れちゃうな......。
彼女の心から、老いへの恐怖や孤独感が、一瞬で消え去っていくのがわかった。俺は何も言わず、「じゃ、風呂入るわ」とリビングを後にした。耳まで熱くなっていたが、胸の奥がじんわりと温かかった。
一週間後の結婚記念日の夜。親父は柄にもなくスーツを着て、母ちゃんを連れて出かけていった。
母ちゃんは、最近新しく買ったというワンピースを着て、心なしかいつもより少しお化粧を念入りにしていた。出かける間際、親父の袖を少し嬉しそうにつまむ母ちゃんの姿は、確かに『お姫様』のようだった。
二人を見送り、静かになったリビングで一人、コンビニ弁当を食べていると、テーブルの上に小さな封筒が置いてあるのに気づいた。中には、少し多めの今月のお小遣いと、小さなメモ用紙が入っていた。綺麗な文字で、こう書かれていた。
『航平へ。アップルパイ、本当に美味しかったわ。ありがとう。 航平が気づかせてくれたおかげで、お父さん、久しぶりにデートに誘ってくれたのよ。 あなたの優しさに、お母さんはいつも救われています。お母さんの子供に生まれてきてくれて、本当にありがとう。自慢の息子です。』
「......感謝すんのは、俺のほうだっての」
俺はポツリと呟き、メモを大切に引き出しにしまった。
指輪のおかげで、俺の周りの世界は少しずつ優しく変わっていく。高校の美少女たちにモテるのも悪くないが、身近な大切な人を笑顔にできるこの力は、やっぱり悪くない。
小指の指輪を見つめると、それはまるで爺ちゃんがニカッと笑っているかのように、月明かりの下で誇らしげにキラリと輝いた。




