第二話:タスキの重さと、夕焼けのグラウンド
爺ちゃんの指輪を左手の小指に嵌めてから、俺の日常は世界の裏側を覗き見るような奇妙なものに変わっていた。街を歩けば、すれ違う女子高生の「前髪決まらない」「ダイエットしなきゃ」という些細な呟きが流れ込んでくる。
だが、その中に時折、深く重い本音が混ざっていることを、俺は知ってしまった。
九月中旬。まだ夏の残暑が厳しい放課後のグラウンド。俺は体育の居残りで用具の片付けをしながら、陸上部の練習を眺めていた。ひときわ目を引くのは、四人一組の400メートルリレーの練習に励む女子たちの姿だ。
その中心にいるのが、クラスメイトの新田遥だった。ショートカットがよく似合うボーイッシュなスポーツ少女で、いつも男子顔負けの大きな声で部活を引っ張っている。クラスでもムードメーカーで、彼女の周りにはいつも笑顔が絶えない。
「よし、次ラスト一本! 結衣、最高のバトン頼んだよ!」
遥はそう言って、同じリレーメンバーであり、小学校からの大親友だという結衣の肩をパチンと叩いた。結衣も「任せといて!」と笑顔で応じる。二人でインターハイに行くのが夢だと、いつか教室で熱く語っていたのを思い出す。
しかし、遥がスタートラインに立つために踵を返した、その瞬間だった。俺の小指の指輪が、きゅうっと締め付けられるように冷たくなった。頭の中に流れ込んできたのは、グラウンドの熱気を一瞬で凍りつかせるような、悲痛な悲鳴だった。
――痛い。痛い痛い痛い、もう限界だよ......。右足が、走るたびに骨が削れるみたいに痛い。本当はもう、一歩も走りたくない。部活なんてやめたい......。
俺は思わず息を呑んだ。遥の顔を見る。彼女はいつも通りの、自信に満ちたエースの表情のまま、前方を鋭く見据えていた。しかし、彼女の心は泣き叫んでいた。
――でも、言えない。私が抜ければリレーは失格になる。結衣の、みんなのインターハイの夢を、私が壊すわけにはいかない。今さらやめたいなんて言ったら、みんなを裏切ることになる。裏切り者になって、大好きな友達を失うくらいなら、足なんて壊れたっていい......。
それが、明るいスポーツ少女が心の奥底にひた隠しにしていた、誰にも言えない本音だった。疲労骨折か、それに近い重い怪我。やめたいほどの激痛に耐えながら、彼女は「友情」と「裏切り」の狭間でボロボロになるまで自分を追い詰めていたのだ。
「新田、これ」
練習が終わり、すっかり夕闇に包まれた昇降口。部室から一人で遅れて出てきた遥の前に、俺は立ちはだかった。
彼女は驚いたように丸い目をして、「え、渡辺? どうしたの、こんな時間に」と首を傾げた。
俺は無言で、購買で買っておいた冷却スプレーと、スポーツドクターが書いた『疲労骨折の初期症状とケア』についての医療コラムを印刷した紙を突き出した。
遥は一瞬、何のことか分からないという顔をしたが、コラムのタイトルに目を落とした瞬間、その顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。
「......な、何これ。私、怪我なんてしてないよ? 毎日ピンピンして――」
「右足の着地、ほんの少し外側に逃げてるぞ。走る時だけじゃない。今だって、左足に重心をかけて立ってる」
俺の言葉に、遥は言葉を詰まらせた。
もちろん、素人の俺がそんな微細なフォームの崩れを見抜けるわけがない。すべて指輪が教えてくれた確信をもとに、ハッタリを交えて話しているだけだ。だが、遥にとっては十分すぎるほどの衝撃だったらしい。
「渡辺には、関係ないじゃん......」
遥の声が、いつもより低く、震えていた。
指輪からは、――どうして気づくの、隠さなきゃ、みんなにバレたら裏切り者になっちゃう――という焦燥感がトゲのように刺さってくる。
「関係はあるよ。クラスメイトだからな」
俺は努めて穏やかに言った。
「新田さ、友達を裏切りたくないからって、自分を裏切るなよ」
「......え?」
「お前がそこまでボロボロになって、もし大会の本番で倒れて走れなくなったら、結衣って子はなんて言うと思う? 『裏切られた』って怒るか? 違うだろ。『どうして気づいてあげられなかったんだろう』って、一生自分を責めるはずだ。お前が友達を大切に思うのと同じくらい、あいつもお前を大切に思ってる。
本当の裏切りってのは、大怪我して一生走れなくなるまで、大切な相棒に隠し事をし続けることなんじゃないのか」
遥の目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
彼女は唇を噛み締め、声を殺して泣き始めた。張り詰めていた糸が、ようやく切れたようだった。
「やめたい」という本音を、そして「友達を傷つけたくない」
という優しさを、誰かに肯定してほしかったのだろう。
「私、怖かったの......。走れない私は、もうみんなの友達じゃない気がして......」
「バカ言え。走らなくたって、新田は新田だろ。一回ちゃんと休め。結衣には、俺からそれとなく言っておくから」
俺は彼女の頭を少し乱暴に小突くと、「じゃあな」と背を向けて歩き出した。女の子の泣き顔を見るのは、やっぱり少し苦手だった。
翌日、俺は昼休みに結衣を廊下に呼び出した。
もちろん、遥が怪我をしていることを直接チクるような無粋な真似はしない。ただ、こう伝えただけだ。
「新田のやつ、最近リレーのことで相当プレッシャー感じてるみたいだぞ。あいつ、責任感強いからさ。
お前が『たまには一緒にサボろうぜ』って、ブレーキを踏んでやらないと、あいつどこまでも暴走して壊れちゃう気がするんだ。相棒のお前にしか、あいつのブレーキはかけられないだろ」
結衣はハッとした顔をして、それから深く頷いた。
「......ありがとう、渡辺くん。私、遥の明るさに甘えて、あの子の異変に全然気づけてなかったかも」
その日の放課後、遥は結衣に連れられて病院へ行き、軽度の疲労骨折と診断され、一時的にリレーのメンバーを外れて休職(治療)に入ることになった。
結衣は「あんたの分まで走って、絶対にインターハイの切符をキープするから、大人しく待ってなさい!」と笑って、遥の背中を押したという。
裏切り者になるどころか、二人の絆は前よりも強くなったようだった。
それから二週間後。
足をギプスで固定した遥が、放課後の教室で一人、松葉杖をつきながら帰る準備をしていた。俺がカバンを持って通り過ぎようとすると、「あ、渡辺」と引き止められた。
「結衣から聞いたよ。あの日、結衣にアドバイスしてくれたの、渡辺なんだってね」
遥は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに俺を見て言った。いつものボーイッシュな雰囲気の中に、どこか小さく愛らしい、女の子らしい恥じらいが混ざっている。
「私さ、走ることしか取り柄がないと思ってた。でも、渡辺が『走らなくたって新田は新田だ』って言ってくれて、本当に救われたんだ。私のこと、ちゃんと見ててくれてありがとう」
彼女は松葉杖をつきながら、俺に一歩近づいた。夕焼けの赤い光が、彼女の少し赤くなった頬を照らしている。
「ねえ、足が治ったらさ、今度はリレーじゃなくて、二人でどっか遊びに行かない? ......その、デート、とかさ」
いたずらっぽく笑う彼女の心の声は、――心臓が破裂しそう! 断られたらどうしよう!――と、走っている時よりも激しく脈打っていた。
表向きの強気な態度と、内面のピュアな乙女心のギャップに、俺の心臓までドクンと跳ね上がる。
小指の指輪が、グラウンドの夕焼けよりも熱く、心地よい温度でジリジリと輝いていた。




