↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/30

第一話:雨の日の図書室と、彼女の秘密

 爺ちゃんが死んだ。


 爺ちゃんは家族全員から嫌われていた。それは女癖が悪かったからだ。でも俺は爺ちゃんが好きだった。なぜなら爺ちゃんは俺によくいろんな話をしてくれたからだ。世界中を飛び回って、あちこちで女にモテた話を俺に聞かせてくれた。嘘ばっかりと思って聞いていたが、じいちゃんの話はクソ面白かった。殺されかけた話もいっぱいあった。


 そんな爺ちゃんが、十六の夏に呆気なく逝った。葬式は驚くほど静かで、親戚たちは悲しむというより「やれやれ、やっと片付いた」という顔をしていた。遺品整理の際、誰も見向きもしなかった安物の桐箱を、俺は形見として譲り受けた。中に入っていたのは、くすんだ銀色の指輪が一つだけだった。内側には、読めない古い文字のようなものが刻まれている。


 なんとなく左手の小指に嵌めてみると、サイズは驚くほどぴったりだった。磨いてみると、鈍い光を放ち始める。それが、すべての始まりだった。


 ◆


 夏休みが明け、二学期が始まった。小指に指輪を嵌めたまま登校した俺は、教室に入った瞬間、奇妙な感覚に襲われた。耳鳴りのような、あるいは誰かの囁き声のようなものが、頭の中に直接流れ込んできたのだ。


 ――あー、今日の体育、憂鬱だな。日焼けしたくない。


 ――昨日のお母さんとの喧嘩、まだ引きずってる......。


 最初は気のせいかと思った。だが、声の主を目で追うと、それはクラスの女子たちの顔と完全に一致していた。彼女たちの口は動いていない。つまり、俺は彼女たちの「心の声」を聴いているのだ。正確には、女の子が心の奥底に抱える「悩み」や「本音」だけが、この指輪を通じて俺に伝わってくるらしかった。


「マジかよ......爺ちゃんの話、嘘じゃなかったんだ」


 世界を飛び回り、無数の修羅場をくぐり抜けてモテ続けたという爺ちゃん。あのモテっぷりは、この指輪の力、いや、この力を使って女の子の心に寄り添ってきたからなのか。俺はとんでもない形見を貰ってしまったと、背中に冷や汗が流れるのを感じた。


 数日後。激しいゲリラ豪雨が学校を襲った放課後のことだった。俺は忘れた参考書を取りに、静まり返った図書室へ向かった。雨音だけが窓を叩く薄暗い部屋の片隅に、一人の女子生徒が座っていた。


 クラスの図書委員であり、学年一の優等生として知られる白石葵だった。


 いつも黒髪をきっちりと結び、誰に対しても礼儀正しく、少し距離を置いた態度を取る彼女。男子たちの間では「高嶺の花」というより「鉄の処女」なんて冷やかし混じりに呼ばれることもある、どこか冷淡な印象の女の子だ。彼女は机に突っ伏して、微かに肩を震わせていた。


 そっと近づこうとしたその時、俺の小指の指輪が、ドクンと熱を持った。頭の中に、酷く冷え切った、今にも泣き出しそうな声が響く。


 ――どうして、誰も私そのものを見てくれないの? お父さんも、お母さんも、先生たちも......。私が百点を取っても、それは『白石家の娘』として当然のことで、私が頑張ったことなんて、誰も見てない。もう、全部投げ出して消えちゃいたい......。


 それは、普段の完璧な彼女からは想像もつかない、深い孤独と絶望の叫びだった。テストの点数や家柄という「看板」ばかりを見られ、自分という人間を誰にも理解してもらえない苦しみ。他人には決して言えない、そして普通の高校生には理解されにくい、贅沢な、けれど本人にとっては死ぬほど切実な悩みだった。


 俺は足を止めた。ここで声をかければ、不審に思われるかもしれない。何より、心の声を盗み聞きしたようなものだ。しかし、突っ伏したままの彼女の小さな背中を見ていると、どうしても放っておけなかった。


 爺ちゃんならどうする? きっと、スマートに手を差し伸べるはずだ。


 俺はわざと大きめの足音を立てて、彼女のいる席へと近づいた。白石はハッと顔を上げ、素早く目元を拭った。その瞳は少し赤くなっていたが、すぐにいつもの冷ややかな優等生の表情を取り繕った。


「......渡辺くん? 何か用かしら。図書室はもう閉館時間よ」


「あ、いや、参考書を忘れてさ。それより白石、ずいぶん酷い雨だな」


 俺は窓の外を指差した。白石はふんと鼻を鳴らし、視線を落とした。「そうね。でも、雨なんてそのうち止むわ。用が無いなら帰ってくれない?」


 明確な拒絶。しかし、指輪から伝わってくる彼女の心は、――行かないで、誰でもいいから、私を見つけて――と激しく泣き叫んでいた。表向きの言葉と、本音のギャップが痛いほど伝わってくる。


 俺はカバンから、一本の缶コーヒーを取り出した。自販機で買ったばかりの、温かいやつだ。それを彼女の机の上に、コト、と置いた。


「白石ってさ、いつも凄いよな」


「......何が?嫌味ならやめて」


「嫌味じゃないって。こないだの実力テストも学年一位だろ? みんな『さすが白石』って簡単に言うけどさ、俺は知ってるよ。お前が毎日、誰もいない図書室で、最後まで残ってボロボロになるまで参考書めくってるの。あれ、誰にでもできることじゃないよな。お前自身がめちゃくちゃ努力してるからだよ。本当に、格好いいと思う」


 白石が息を飲む気配がした。目を見開き、俺を凝視している。


 周囲の人々は彼女の結果(一位であること、白石家の娘であること)しか見ない。だから俺は、彼女の「プロセス(白石葵自身の努力)」を言葉にして肯定した。それは指輪が教えてくれた、彼女が一番欲していた「私自身を見てほしい」という願いに対する、俺なりの答えだった。


「渡辺、くん......。あなた、何を言って......」


「あ、ごめん、お節介だったな。でもさ、たまには息抜きもしろよ。百点じゃなくたって、白石が毎日頑張ってるのは、俺がちゃんと見てるから。......じゃあな、風邪ひくなよ」


 それだけを言い残し、俺は荷物をまとめて足早に図書室を後にした。これ以上踏み込むのは野暮だし、何より顔が熱くなっていた。ガラじゃないことを言ってしまったという気恥ずかしさでいっぱいだったが、指輪を通じて伝わってきた彼女の心が、じんわりと温かい感情で満たされていくのを感じて、胸を撫で下ろした。


 ◆


 翌日から、俺はいつも通りの退屈な高校生活に戻った。白石に話しかけることもなかったし、彼女も相変わらず優等生として振る舞っていた。ただ、彼女が時折、図書室の窓際の席で、あの空の缶コーヒーをじっと見つめているのを、俺は遠くから目撃していた。


 そして一週間後。放課後のクラスで、俺は自分の机の引き出しに、一通の小さな封筒が入っているのを見つけた。差出人の名前は書かれていない。中には、端正な文字でこう書かれていた。


『渡辺くんへ。

 あの日の言葉、本当に救われました。誰も見てくれていないと思っていた私を、見つけてくれてありがとう。あなたが私の努力を見ていてくれたから、私はもう少し、私として頑張れそうです。......今度、図書室でのお喋りに付き合ってくれませんか? 二人だけの秘密として。 白石葵』


 手紙を読み終えた瞬間、教室の入り口の方から視線を感じた。振り返ると、そこには白石が立っていた。彼女は俺と目が合うと、普段の冷徹な表情をふっと緩め、頬を林檎のように真っ赤に染めながら、小さく、けれど確かに悪戯っぽく微笑んでみせたのだ。その笑顔は、学年一位の優等生ではなく、恋を隠せない一人の等身大の女の子のものだった。


 それと同時に、俺の小指の指輪が、これまでにないほど優しく、心地よく脈打った。


「......やるじゃん、爺ちゃん」


 俺は引き出しの手紙をそっとポケットにしまい、彼女に向けて小さく頷いた。どうやら、爺ちゃんの「あちこちで女にモテた話」は、本当に嘘じゃなかったらしい。そして俺の高校生活も、この不思議な形見のせいで、とんでもなく忙しくなりそうな予感がしていた。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。