第十六話:俺の労働と、爺ちゃんの契約書
翌日の土曜日。九条家の広大な屋敷の応接室には、重苦しい空気が立ち込めていた。
「さあ、麗奈。叔母さんの認知機能の低下は専門医の診断書もあるぞ。このままでは九条家の財産が渡辺などという詐欺師の家系に毟り取られるだけだ。ここにサインをして、後見人を私に委ねなさい」
高級なスーツを着た麗奈の叔父・九条厳一郎が、不敵な笑みを浮かべながら後見人を拒否する書類を突きつけていた。隣に座る祖母は静かに目を閉じ、麗奈は悔しさに唇を噛み締めながら、今にもサインさせられそうな書類を見つめていた。叔父の後ろには、威圧感のある恰幅のいい弁護士まで控えている。
「私は騙されてなどいないわ。これは渡辺宗次郎さんの孫である航平さんに、我が家の正当な労働の対価として、二千万円を前払いしただけです。彼は毎週しっかり働いて返済しています」
婆さんが凛とした声で反論するが、厳一郎は鼻で笑った。
「ふん、言い訳にもなっていない! 高校生の庭掃除や窓拭きごときに、二千万円の価値があるわけがないでしょう! 一般的な時給で計算したら、何百年かかると思っているんだ! やはり認知症の証明だ、さあサインを――」
「おいおっさん。そこの床、俺が今朝ワックス掛けたばっかりだからさ。汚い革靴で踏まないでくれる?」
ガラララッ!! と豪快な音を立てて応接室のドアが開いた。
現れたのは、いつも通りヨレヨレのジャージを着て、バケツと雑巾を持った俺だった。
「なんだお前は……! 渡辺の孫か! 部外者はすっこんでいろ!」
厳一郎が激昂して立ち上がる。だが、俺は動じずに応接室の真ん中へと歩み進め、ポケットから一枚の、古い書類を取り出した。
「部外者じゃないよ。今、その二千万円の価値について話してたよな? じいちゃんの遺品整理をしてたらさ、面白いものが見つかったんだわ。これ、九条家の先代、婆ちゃんのお父さんと、俺のじいちゃん・渡辺宗次郎が交わした、正式な『清掃契約書』だ」
俺がそれをテーブルに叩きつけると、厳一郎の後ろの弁護士が顔色を変えてそれを凝視した。
「な、なんだそれは……!」
「この書状にはな、『渡辺宗次郎並びにその代理人が、施す九条家への【清掃】の対価は、一回につき百万円とする』って明確に書いてあんだよな。で、その契約は代々引き継がれることになってる」
俺は厳一郎を指差した。
「九条家の家訓や契約上、渡辺家が行う『掃除』の価格は、元々一回で百万円なんだよ。だから、俺が毎週ここで掃除すれば、二千万円なんて20回で相殺されることになるんだわ。九条のお婆さんは先代からの約束を守って大得をしてるってわけ。ボケてんのは、九条家の歴史も知らねえでお金むしり取ろうとしてるあんたの方だろ」
「くっ……! 掃除一回に百万円だなんて、そんなバカな話があるか! 弁護士、こんな紙切れ無効だろう!?」
厳一郎が慌てて後ろの弁護士を振り返るが、弁護士は冷や汗を流しながら首を横に振った。
「い、いえ……九条家の先代の直筆のサインと花押が確認できます。法的な効力は極めて高いです。これを無視して『認知症による財産毟り取り』と主張するのは……完全に不利です」
「な……なんだと……っ!?」
完全に逃げ場をなくし、顔を真っ赤にして固まる厳一郎。
おばあさんは上品に微笑み、「それでは厳一郎、お引き取りくださいな」と告げた。面目を失った叔父は、弁護士共々、ほうほうの体で九条家から帰っていった。
◆
「ちゃんと契約書あっただろ?」
九条のお婆さんが笑いながら俺に聞いた。
「はい。こんな契約あったんですね」
「宗次郎さんは、九条家からお金受け取らなかったからね。でも私と結婚した夫が、九条家の事業を大いに発展させてねえ。父が結婚を反対していたのを反省してね。宗次郎さんにいつか恩を返せるようにって、そういう契約にしたのさ。宗次郎さんがもしお金に困ったら、うちを掃除してくれれば、その都度に百万円渡せるようにね。でも結局宗次郎さんは一回も掃除に来なかったけど」
「それで俺に掃除をさせてたんですね」
「ふふふ。まあ、それだけじゃないけどね」
麗奈は呆然と立ち尽くしていた。
「あ、あり得ないわ……。私があんなに苦しんでいたのに、あなた、こんな書類一枚で……」
「だから言ったろ。高校生の世界は狭いかもしれないけど、じいちゃんが遺してくれた因縁も、俺がここで働く覚悟も、お前のおっさんが持ってる金なんかより、遥かに強くて固いんだよ」
麗奈の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。今度は屈辱の涙じゃない。張り詰めていた緊張が解け、救われた安心の涙だ。
「……バカ」
麗奈は顔を真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
その瞬間、俺の小指の指輪が、これまでにないほど心地よい、極上の【熱量】を帯びてドクンと跳ねた。
『なによこいつ……ジャージ姿のくせに、ちょっと格好いいじゃない……。……ううん、認めないわ。でも、私を助けてくれたのは……嬉しかった……っ』
ツンデレ全開の激甘な本音が、指輪を通じて脳内にダイレクトに流れ込んでくる。
脳内で指輪の精が、これまでで一番盛大にゲラゲラと笑っていた。
『大勝利だな、航平! 絶世のお嬢様のデレは極上だろ? さあ、これからも毎週の庭掃除、今度はお姫様も一緒だぞ!』
俺の小指の銀の指輪は、これからもまだまだ、俺の平穏な高校生活をブチ壊し続けるつもりのようだった。




