第十二話:銀の指環と、甘すぎるチョコレート
「これ、お前が好きだったやつ。食うか?」
公園の隅。ブランコが小さく軋むだけの薄暗い静寂のなか、俺は美沙の隣に立ち、コンビニの袋から不格好な板チョコを取り出した。
美沙は膝を抱え、ベンチに座って小さく丸まっていた。夕暮れ時の冷たい風に、あいつの細い肩がかすかに震えている。
「……航平?」
ゆっくりと顔を上げた美咲の目は、赤く腫れ上がっていた。いつも学校で見せる、あのお転婆で周囲を笑わせるような笑顔の影すらない。ただの、今にも壊れてしまいそうな一人の女の子がそこにいた。
「別に、お前を待ち伏せしてたわけじゃないからな。ただ……なんか、お前の家の方から、やたら嫌な予感がしたっていうか」
嘘だ。本当は、俺の左手の小指に嵌まったこの銀の輪っかが、肉を抉るような熱さで悲鳴を受信したからだ。『早く行け、この馬鹿者。女の子が泣いてるぞ』と、脳内でいつものふてぶてしい声がうるさく響いていたからだ。
「結衣ちゃんのこと……だろ。最近、病院に入院したって聞いたけど」
俺が隣に腰を下ろすと、美沙はしばらく黙っていたが、やがて堰を切ったように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「うん……。結衣ね、心臓の病気が悪化しちゃって。このままだと、もっと危ない状態になるかもしれないの」
「そっか。……でも、今の医学なら、なんとかなるんだろ? 手術とかさ」
俺がそう言うと、美沙はさらに深く首をうなだれ、自分の爪をじっと見つめた。
「手術はできるよ。できるの。海外の専門の先生がちょうど日本に来てて、その先生に手術をお願いできれば、結衣は絶対に助かるって。でも……」
美沙の声が震え、涙がベンチの足元にポタポタと落ちた。
「お金が、足りないの。お父さんもお母さんも、あちこちからお金を借りようとしたけど、もうこれ以上は無理だって。二千万円もかかるんだよ……? そんなの、うちらの家じゃ、逆立ちしたって払えるわけない。お父さんもお母さんも、もう夜、リビングで頭を抱えて、静かに泣くことしかできなくて……。家族みんなで、もう、結衣を諦めるしかないのかなって……。そんなの、嫌だよ……っ」
美沙は顔を覆って号泣した。
俺の小指が、じりじりと焼けるように熱くなる。美沙の絶望、妹を救えない悔しさ、家族がバラバラになっていく恐怖。それらがドロドロとした黒い波になって、俺の脳内に直接流れ込んでくる。
二千万円。
あまりにも非現実的な数字に、俺の背中に冷たい汗が流れた。
「……わかった。ちょっと、考えてみる」
俺は美沙の肩を軽く叩くことしかできなかった。手渡したチョコレートは、あいつの手の中で、開封されないまま冷たくなっていた。
◆
「二千万円だなんて、そんなの、お前が首を突っ込む話じゃない」
夜、自宅のダイニングテーブル。
真剣な顔で相談した俺に対し、父親は夕食の箸を止め、冷静な声でそう言った。
「気持ちはわかるよ。美沙ちゃんも結衣ちゃんも、お前の幼馴染だ。気の毒だと思うし、俺だって何か力になってやりたいとは思う。だがな、航平。それは向こうの家の問題だ。うちだって、お前の学費やこれからの生活設計でギリギリなんだよ。そんな大金を融通できるような蓄えなんて、うちにはない」
隣で台所に立つ母親も、困ったような顔でため息をついた。
「そうよ、航平。冷たい言い方かもしれないけど、病気のことはお医者様や、向こうのご家族がどうにかするしかないの。あなたが悩んだところで、どうにもならないわ」
両親の言うことは、ぐうの音も出ないほど正論だった。
これが現実だ。高校生の俺がいくら心を痛めたところで、口座にない金は湧き出てこないし、医者でもない俺に病気を治す力なんてない。世界はあまりにも理不尽で、あまりにも動かしがたい現実のルールで満ちていた。
自室に戻った俺は、ベッドに倒れ込み、左手の小指を見つめた。
じわじわと痛む銀の指輪。
俺は頭の中で、指輪の精を呼び出した。
「おい……聞いてたろ。金がないと、どうしようもないんだよ! 俺がいくら美沙のために走り回ったって、二千万もの大金を高校生が用意できるわけないだろ!」
俺はシーツに顔を押し付け、悔しさで声を殺して泣いた。
「できることなんて、何一つないんだよ! なのに、なんでお前はこんなに指を締め付けるんだよ! 諦めるしかないじゃんか! 美沙は……美沙の家は、このまま絶望するしかないのかよ!」
脳裏に、すっと冷ややかな、けれどどこか楽しげな声が響いた。
『相変わらず諦めの早いガキだな、航平。いいか、お前自身の財布には、確かに一銭も入ってない。だがな……』
指輪の精の気配が、脳内でニヤリと笑う。
『お前のじいちゃん――渡辺の爺ちゃんが、現役の時代にどれだけの「お姫様」を救ってきたと思っている。そして、その裏で、どれだけの大金持ちに恩を売ってきたと思っているんだ?』
「え……?」
『いいか。一つだけ、美沙の妹を救う解決方法がある。……明日、学校をサボる準備をしな』
◆
翌朝。俺は仮病を使って学校を欠席し、指輪に指示されるがままに電車を乗り継いだ。
たどり着いたのは、東京の郊外にある、絵に描いたような高級住宅街だった。高い塀が連なり、どの家も敷地が広すぎて門から玄関が見えない。
「おい、本当にここでいいのかよ……?」
おどおどと辺りを見回す俺に、小指から鋭いノックのような痛みが走る。
『ビビるな。その角を曲がった先にある、一番奥の洋館だ。黒塗りの重厚な門があるだろ。そこのインターホンを押せ』
言われるがままに歩くと、城のような佇まいの邸宅が現れた。表札には「九条」と書かれている。
俺はゴクリと唾を飲み込み、震える指先でインターホンのボタンを押した。
「はい、どなた様でしょうか」
スピーカーから聞こえてきたのは、上品で、しかし少し耳の遠そうな高齢の女性の声だった。
「あの……渡辺、と言います。渡辺の……孫です。渡辺の爺ちゃん……渡辺宗次郎の、孫の航平です」
じいちゃんの名前を出した瞬間、インターホンの向こうで、かすかに息を呑む音が聞こえた。
「宗次郎さんの……お孫さん?」
数分後。重い電子音が響き、大きな門がゆっくりと開いた。
案内されたのは、眩しいほどのシャンデリアが輝く、クラシックな応接間だった。革張りのソファーに座らされた俺の前に、白髪を綺麗に整えた、上品な老婦人が現れた。彼女は俺の左手の小指に嵌まる銀の指輪を見た瞬間、懐かしそうに、そして愛おしそうに目を細めた。
「まあ……本当に、あの人の指輪ね。あの方は、私の命の恩人であり、私の人生を救ってくれた王子様でしたのよ」
老婦人――九条さんは、お茶を淹れてくれながら、穏やかに語り始めた。かつて、親が決めた意に沿わぬ結婚から逃げ出そうとしていた彼女を、じいちゃんがこの指輪の導きによって連れ出し、本当に愛する人と添い遂げられるよう手助けしてくれたのだという。
「それで……宗次郎さんのお孫さんが、我が家を訪ねてくださるなんて。何か、困りごとでもおありですか?」
俺は膝の上で拳を強く握りしめた。
こんなことを頼むのが、どれほど恥知らずで、常識外れなことか分かっている。だけど、美沙のあの涙を、結衣ちゃんの命を救うには、これしかない。
「……お金が、必要なんです。俺の幼馴染の女の子の、妹が重い心臓病で……。日本に来ている海外の先生に手術してもらうのに、二千万もの大金が必要なんです。その子の家は、もうお金がなくて諦めかけていて……。お願いします! お金を貸してください……! 俺にできることなら、何でもしますから!」
俺はソファーからずり落ち、床に額を擦り付けた。土下座なんて人生で初めてだった。心臓がうるさいほど脈打ち、冷や汗が全身から噴き出す。
九条さんは、長い沈黙の後、小さく上品に笑った。
「顔を上げてください、航平さん」
促されて恐る恐る顔を上げると、彼女は穏やかに、しかし迷いのない瞳で俺を見ていた。
「いいでしょう。そのお金、私がすべてお出しいたします」
「え……!? 本当、ですか……?」
「ええ。宗次郎さんからいただいたご恩に比べれば、お金で解決できることなど、些細なことです。何より、あの人の指輪が、あなたをここへ導いたのでしょう? ならば、私はあの人の意志を継ぐ者を信じます」
九条さんは微笑み、それから少し悪戯っぽく目を細めた。
「ただし――。私は『施し』をするつもりはありません。これはあくまで、あなたへの『労働の対価』としてお渡しするものです」
「労働……?」
「はい。我が家は広くて、庭の掃除や、屋敷の窓拭きが年寄り二人では行き届かなくて困っておりましたの。航平さん。これから毎週土曜日、我が家に来て、お掃除を手伝っていただけますか? 結衣さんの治療費の、返済の代わりとして」
「掃除……。はい! 喜んでやります! 何でも言ってください!」
俺は何度も頭を下げた。涙が溢れて、視界が滲んだ。
小指の指輪が、心地よい温泉のような温かさで、トクトクと静かに脈打っていた。
◆
それから数日後。
病院から「渡辺さんのおかげで、手術の枠が確保できました!」と、美沙の両親から涙ながらの電話があったと、俺の両親から聞かされた。
両親は「お前、一体何をしたんだ……?」と呆然としていたが、俺は「じいちゃんの、ちょっとした人脈」とだけ言って、誤魔化した。
そして迎えた、最初の土曜日。
「よいしょ、っと……」
俺は九条家の広大な庭で、竹箒を手に、黙々と落ち葉を掃いていた。手のひらにはマメができ、腰はすでに悲鳴を上げている。窓拭きも、雑巾掛けも、まだまだ山のように残っている。
「ははっ、本当に毎週掃除することになるとはな。じいちゃんのツケを、俺が体で払ってる気分だ」
俺がぼやくと、小指の指輪から、いつものふてぶてしい声が楽しそうに響いた。
『何を言ってる。お金を出してもらっただけで解決じゃ、男が廃るだろ? 自分の体を張って、汗を流して、初めて「お前が救った」と言えるんだよ。ほら、そこ、まだ落ち葉が残ってるぞ。しっかり掃きな!』
「わかってるよ、クソ指輪!」
文句を言いながらも、俺の心は驚くほど軽かった。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、美沙からのメッセージだった。
『結衣の手術、来月に決まったよ! 本当に、本当にありがとう、航平。私、航平が幼馴染で、本当に良かった』
メッセージの最後には、笑顔の絵文字がこれでもかと並んでいた。
「……まぁ、悪くないか」
俺は小さく笑い、再び竹箒を強く握りしめた。
じいちゃんの指輪は、ただの「お助け」を強制するだけじゃない。
それは、どうしようもない現実の壁をぶち破り、女の子たちの涙を、何よりも眩しい笑顔に変えてしまう、世界で一番お節介な魔法なのだと、俺は少しだけ誇らしく思い始めていた。




