5
胃の痛みが、もはや日常の一部になりつつあった。
朝起きて胃が重いのはリィネの健気な顔を思い出すから。
昼に胃が痛むのは、彼女がまた庭の隅で雑草と格闘しているのではないかと案じるから。
そして夜に胃が焼けるのは、彼女にかけた冷たい言葉を反芻して後悔するからだ。
「……セバス、例のものは用意したか?」
俺は昨夜ほとんど手付かずだった最高級のステーキ(冷めて脂が浮いているのが、今の俺の胃の惨状によく似ている)を横目に、背後のセバスに問いかけた。
「は。旦那様のご命令通り。王都中の商人を呼び寄せ、最高級の品々を揃えさせました。……ただ、旦那様。これほどの量を一度に『冷遇の道具』として説明するのは、少々無理があるかと」
「そうだな。だが俺が冷遇だと言えば冷遇なんだ」
俺は立ち上がり廊下へ出る。
向かう先はリィネの部屋。……いや、今はまだ「北側の物置同然の部屋」だ。
────
ドアをノックする。
「……リィネ、いるか?」
「あ、閣下! はい、どうぞ!」
中に入ると、そこには昨日の泥だらけの格好とは打って変わって、支給した紺色のドレスを大切そうに着たリィネがいた。彼女は部屋の真ん中で、俺が昨日投げ与えた皮膚再生軟膏の容器を、まるで聖遺物でも扱うかのように両手で包み込んでいた。
「……そんなものを拝んでどうする。さっさと塗れと言っただろう」
「もったいなくて……。これ、閣下が作ってくださった特別な薬なんですよね? 香りを嗅ぐだけで、閣下の優しさが胸に染み渡るようで、それだけで傷が治ってしまいそうです」
「……いいから塗れ、今すぐ。俺の目の前でだ。……いや、それより話がある」
俺は一歩踏み出し、わざと威圧的な態度で彼女を見下ろした。
部屋の隅には、セバスが手配した数人の商人と、山積みになった革張りのトランクや木箱が控えている。
「リィネ、君に新たな罰を与える。……この家に来てから、君の態度はあまりに我が儘が過ぎる」
「えっ……。す、すみません、私、何か失礼を……?」
リィネが不安げに眉を寄せ、大きな瞳を潤ませる。その表情だけで、俺の胃壁がキリキリと音を立てる。だが、ここで折れては「冷遇」が成立しない。
「そうだ。君は、ヴァレンシュタイン家の妻としての『義務』を怠っている。この屋敷には頻繁に高貴な客が来る。その際、君がそんな質素な格好をしていては、俺の審美眼が疑われる。……よって、今日から君には、これらの品を『装着』し続ける苦行を強いる」
俺はセバスに合図を送った。
商人が来て、一斉に箱を開ける。中から溢れ出したのは、王都の流行をすべて詰め込んだような、最高級のシルクとレースのドレス。そして、眩いばかりの宝石たちだった。
「これらはすべて、重いし、着るのにも時間がかかる不自由な代物だ。歩くたびに宝石の重みで肩が凝るだろう。ドレスの裾を捌くのにも苦労するはずだ。……どうだ、嫌だろう? 贅沢という名の鎖だ」
リィネは、溢れんばかりの宝石やドレスを呆然と見つめていた。
……さあ、怯えろ。こんな派手なものは自分に似合わないと泣いて辞退しろ。そうすれば、俺は「命令だ」と無理やり着せて、彼女を飾ることができる。
だが、リィネは震える手で、一つのペンダントを手に取った。
それは、俺がこっそり錬金術で「浄化」と「精神安定」の魔力を込めた、特注の青いダイヤモンド。……彼女の瞳の色と同じ、透き通った青。
「……閣下。これ、もしかして……」
「警護用の魔道具だ。不審者が近づけば発光し、君の居場所を守衛に知らせる。君のようなトロい女が、勝手に誘拐でもされて身代金を要求されては、我が家の予算に響くからな。……いいか、二十四時間、肌身離さず着けていろ。……俺から片時も離れるなという呪いのようなものだ」
我ながら、最低の独占欲を「護衛」という言葉で塗りつぶした完璧なセリフだ。
リィネは、じっとその青い石を見つめていた。
そして。
「……ううっ……、ひっく……」
彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おい、泣くほど嫌か!? 重すぎるか? なら、もう少し小さい石に——」
「……違います。嬉しいんです……。こんなに、こんなに温かい呪い、私、初めてです……」
リィネはペンダントを胸に抱き寄せ、嗚咽を漏らした。
「私、知っています。この石に込められた魔力……。とっても穏やかで、優しくて……。閣下が、私のことを『心配』してくださっているのが、魔法を通じて伝わってきます。……誘拐されたくないなんて、私がどこにも行かないようにしてくださるなんて……。私、愛されているんですね」
「あ、愛……!? 何を飛躍した解釈を……!」
「閣下の『冷遇』は、いつも、世界中の誰の優しさよりも温かいです。……ありがとうございます。私、この重たいドレスも、この宝石も、閣下の『愛の重さ』だと思って、一生背負って生きていきます!」
——ギギギギギギッ!!
俺の胃が過去最大級の悲鳴を上げた。
胃酸が逆流するどころではない。胃そのものが「尊さ」に耐えかねて、宇宙の彼方へ爆散しようとしている。
「ぐ、っ、お、あぁっ……!! セバス、救急箱……を」
「旦那様、しっかり。リィネ様、追い打ちをかけるのはその辺に。旦那様の胃壁が紙一重の状況です」
「閣下! 大丈夫ですか!? ああ、私がこんなに重たい愛を受け取ってしまったから……!」
リィネが慌てて駆け寄ってくる。
その拍子に、彼女の胸元で青いダイヤモンドがキラリと輝いた。その光が、俺の網膜を優しく突き刺す。
……くそ、ダメだ。あんな顔を見せられたら、もう何も言えない。
────
さらにその日の午後。
俺は「仕返し」として、彼女の部屋を改装させた。
「北側の部屋は掃除が面倒だ」という理由で、日当たりの良い、俺の寝室のすぐ隣の部屋へ強制移動させたのだ。
用意したのは、雲の上のような座り心地のソファと、王族御用達のふかふかのベッド。
「リィネ、よく聞け。このベッドは特別だ。……あまりに寝心地が良すぎて、一度寝たら二度と起きられないかもしれない魔のベッドだ。君を朝寝坊させて、公爵令嬢としての規律を乱すための罠だ。どうだ、恐ろしいだろう」
「……はい! 閣下の腕の中にいるような、素敵な罠ですね! 毎日、閣下のことを夢に見ながら、幸せに溺れさせていただきます!」
返り討ちだ。
何を言っても、何をしても、彼女の「ピュアな変換フィルター」を通すと、すべての攻撃が「極大回復魔法」になって跳ね返ってくる。
だがその魔法は、俺の胃に対してだけは「毒」として作用した。
俺は崩れ落ちるようにソファに座り、リィネが淹れてくれた(例の庭のハーブで作った)お茶を啜った。
「……ふぅ。……リィネ。一つ、聞いておきたいことがある」
「はい、何でしょうか、閣下?」
リィネは、新しい部屋の大きな窓から差し込む光を浴びて、本当に幸せそうに微笑んでいる。
「……君は、フェルディアを滅ぼした者たちを、恨んではいないのか。俺も、その一端を担っていると言えば、担っているんだぞ」
彼女の動きが、わずかに止まった。
窓の外を見つめるその横顔に、一瞬だけ、かつての「王国の至宝」と呼ばれた頃の、凛とした寂しさが過る。
「……恨んでいないと言えば、嘘になります。でも……」
彼女は振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「お父様はいつもおっしゃっていました。『リィネ、目に見えるものだけが真実ではない。自分の心で見極めなさい』と。……私は今、閣下の隣にいて、閣下の言葉と、閣下の行動を見ています。……閣下は、私を一度も傷つけていません。それどころか、ボロボロだった私を、こうして陽の当たる場所に連れ出してくださった」
彼女は俺のそばに歩み寄り、膝をついて俺の手を取った。
「だから、私は今の幸せを信じます。過去に何があったとしても、閣下が私にくださる『今』が、私の真実です」
……その言葉は、俺の胃を突き抜け、心の最も奥深くにある、冷たく閉ざされた部分に届いた。
俺は彼女の手を握り返す。
その手のひらの温かさは、もう泥まみれではない。俺が贈った軟膏と、彼女が手に入れた「安らぎ」で、しっとりと柔らかくなっていた。
「……馬鹿が。君は本当にお人好しだ」
「はい。閣下のお人好しな妻ですから」
彼女が悪戯っぽく笑う。
その笑顔を守るためなら、俺はたとえ王室を敵に回しても構わない。そう確信した瞬間、胃の痛みが、不思議と少しだけ和らいだ気がした。
「……セバス。例の再調査、速度を上げろ。……リィネの実家を貶めた黒幕が、この屋敷のすぐ近くまで這い寄ってきている気配がする」
「……はい。すでに網は張っております。……それと、旦那様」
「なんだ?」
「……今夜は、お二人で一緒にお休みになりますか? お隣の部屋の扉、開けておきましょうか?」
「何を言っている。必要ない。警備上の理由で、扉を施錠しろ! ……ただし、何かあったらすぐに俺が駆け込めるように、鍵は俺が持っておく!」
俺の言葉にセバスが深いため息をつき、リィネが頬を赤らめて花が咲くように笑った。
氷の領主、ゼクス・ヴァレンシュタイン。
冷遇令嬢リィネとの「政略」という名の愛の攻防戦は、どうやら俺の完全敗北で決着しそうだった。
だが、幸せそうな彼女の寝顔を想像するだけで、俺の指先は、また次の「過剰な贈り物」を探して、カタログをめくってしまうのだ。




