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「……不愉快だ。反吐が出る」
俺は執務室で、セバスが持ってきた「秘匿資料」をデスクに叩きつけた。
三年前の政変——フェルディア公爵家が国王暗殺を企てたとされる事件の全容。そこには、あまりにも杜撰な証拠と、不自然なほど迅速に承認された処刑記録が並んでいた。
当時の調査を主導したのは、現王太子の側近たち。そして、その裏で甘い汁を吸ったのは、没落したフェルディア家の利権を食い荒らした小悪党どもだ。
「旦那様、それ以上の深入りは……まさに、火に飛び込む羽虫の如き行為かと」
「分かっている。分かっているさ。だがなセバス。『俺の胃』は、正義という名の美辞麗句で動いているわけではない。……ただ、目の前の女が、本来受けるはずのなかった屈辱に耐えているのが、耐えがたく不快なだけだ!」
俺は、こめかみを指で押さえた。
あの健気すぎるリィネのことだ。真実を知れば「皆様にお手間をかけて申し訳ございません」などと抜かして、また自分を責めるに違いない。
そう思えば思うほど、俺の胃壁は再び不穏な振動を始める。
その時だった。
「閣下、失礼いたします。……その、お客様がお見えです」
控えめなノックとともに、リィネが顔を出した。
彼女は例の紺色のドレスに、俺が渡した再生軟膏で整えられた、少しだけ艶を取り戻した指先を揃えている。……だが、その表情は心なしか強張っていた。
「客だと? なにも聞いていないが」
「……バルト・フォン・ギルクリスト男爵と、名乗っておられます。かつて、父がお世話になった方だそうで……」
その名を聞いた瞬間、俺の胃に冷たい氷柱が突き刺さった。
ギルクリスト。
フェルディア公爵家が没落した際、真っ先にその領地の一部を掠め取り、リィネの親族から家宝を二束三文で買い叩いた守銭奴。今回の再調査資料の中でも、「最も真っ黒な協力者」として名前が挙がっていた男だ。
「……通せ。応接室だ」
「はい。……あの、閣下。男爵様はとてもお急ぎのようで、その、私に『茶を出せ』とおっしゃって……」
「お前に? ……ふん、いいだろう。ヴァレンシュタイン家の礼儀作法を、その男に見せつけてやれ」
俺は立ち上がり、彼女の横を通り抜ける際、耳元で低く囁いた。
「……安心しろ。お前はただ、そこにいればいい」
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応接室には趣味の悪い金刺繍をこれでもかと施した上着を着た、肥満体の男が踏んぞり返っていた。金で肥えた豚め。
「いやあ、ヴァレンシュタイン閣下! 突然の訪問、失礼。おや、そこにいるのは……ああ、やはりリィネではないか。久しぶりだねえ、公爵令嬢だった頃の面影はどこへやら。今では立派な『下働き』のようだ」
ギルクリストは、リィネが差し出した茶碗をチラリと見て、鼻で笑った。
リィネは震える手で茶をテーブルに置く。彼女の瞳には明らかに怯えの色があった。
「……ギルクリスト男爵。用件は何だ。俺は忙しい」
「まあそう硬いことをおっしゃらずに。今日は閣下に素晴らしい提案を持ってきたのです。……その、貴殿も王命とはいえ、こんな『反逆者の娘』をいつまでも手元に置くのは苦痛でしょう? そこでだ、私が彼女を『引き取って』あげようと思いましてね」
男爵は下品な舌なめずりをした。
俺は目を細める。
「私の屋敷の地下なら、誰の目も気にせず、彼女を存分に……ゲフン、教育して差し上げられる。閣下の評判も上がり、私も新しい玩具が手に入る。まさに、双方にとって良い話ではないですか?」
俺の隣でリィネの呼吸が止まるのが分かった。
彼女の指がドレスの裾を強く握りしめる。
「……なるほどぉ〜。貴殿は、俺の妻を『玩具』として買い取りたいと言っているわけだ」
「ははは! 妻だなんて、閣下もお戯れを。これは単なる『お荷物』でしょう? 没落したフェルディアの娘など、今や野良犬も同然。それを高値で買って差し上げようという慈悲ですよ」
ギルクリストは、そう言いながらリィネの頬に手を伸ばそうとした。
その指先が、彼女の肌に触れる寸前——。
俺は、無造作に、男爵の手首を掴んだ。
「ぐ、あぁっ!? か、閣下、何を……っ!」
「……黙れ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
全身の血管が沸騰しているような怒りと、それとは裏腹に心臓が凍りつくような静寂。
そして胃の痛み。……いや、これは痛みではない。これは敵を完全に「抹殺」するための内なる咆哮だ。
「貴殿は先ほど、彼女を『野良犬』と言ったか」
「い、いや、それは……比喩でして……」
「俺の所有物に指をかけ、侮辱した。それは、ヴァレンシュタイン家そのものを侮辱したと同義だ。……ギルクリスト男爵。貴殿は最近の小麦取引で、王立銀行の公金を横領しているという噂があるな?」
男爵の顔が一瞬で灰色に変わった。
「そ、そんな、デタラメだ! 何の証拠が……!」
「証拠なら、今朝方俺のデスクに届いた。……それから、フェルディア公爵家の家宝を不正に持ち出した際の『署名入りの領収書』もな。貴殿がどうやってあれを奪ったのか、裁判所で詳しく聞かせてもらおうか。ああ、それと貴殿の屋敷がどうあれ、この応接室には大辟審理院直通の投影鏡がある」
「なっ!? は、嵌めたな! 裏切り者め!」
「どう思おうと勝手だが、今も見られているぞ」
俺は男の手首をゴミを捨てるように放り投げた。
男爵は床に転がり、必死に言い訳を吐こうとしたが、俺の眼光に射抜かれ、声にならずにパクパクと口を動かすだけだった。
「ロドス、アルガ! この男を大辟審理院の粛正審問官に引き渡せ。容疑は公金横領、および……『俺の気分を著しく害した罪』だ」
「畏まりました、閣下。速やかに」
俺が合図すると、守衛たちが絶叫する男爵を引きずり出していった。
静寂が戻った応接室。
俺はまだ震えているリィネに向き合った。
……しまった。いつもの調子で、派手にやりすぎたか。
彼女はきっと、俺の冷酷な振る舞いに怯えている。
「氷の領主」の本性を見て、絶望しているに違いない。
俺は必死に胃を押さえ、わざとらしくフンと鼻を鳴らした。
「……か、勘違いするな、リィネ。あのような下俗な男に、我が家の敷地を国を、汚されるのが我慢ならなかっただけだ。お前を守ったわけではない。俺の資産を守っただけだ。分かったら、さっさとその汚れた茶器を片付けてくれ」
だが、今の俺に言える精一杯の言葉だった。
しかし、リィネは泣いていなかった。
彼女は、ゆっくりと顔を上げると、その透き通った瞳に涙を湛え……。
今まで見たことがないほど、優しく、深い微笑みを浮かべた。途端、彼女の頬に涙が一滴伝っていく。
「……閣下。私のために、あんなに怒ってくださって……。私、知っておりますわ」
「……な、何をだ!?」
「閣下が、あの方の手首を掴んだ時、とても『痛そうな顔』をされていたこと。……私の心が痛むのを、代わりに引き受けてくださったのですね」
彼女は俺の大きな手に、自分の小さな手をそっと重ねた。
「ありがとうございます。私、フェルディアのリィネとしてではなく、ヴァレンシュタインのリィネとして……閣下の隣にいられることが、この上なく誇らしいです」
——グサズコドドッ!!
俺の胃の中で、またしても何かが爆発した。
もう薬草シロップも、最高級の錬金薬も、この「衝撃」には太刀打ちできそうにない。
誇らしい。
彼女は今、没落した家の名前ではなく、俺の家の名前を名乗ったのだ。
「……ああ!!」
俺は思わずその場に膝をつき、腹を抱えた。
「閣下!? 大丈夫ですか!? セバス様、大変です! 閣下の胃が、胃が光り輝いていますわ!」
「旦那様、さすがに感情の起伏が激しすぎます。異常です。これ以上の『尊さ』は、旦那様の命に関わります」
セバスが呆れたように胃薬を持ってきたが、俺はそれを拒んで、リィネの手を——今度は振り払わずに、ぎゅっと握りしめた。
「……リィネ。命令だ。……二度と、あんな男の言葉に耳を貸すな。おまえ……いや君は……君は、世界で一番価値のある、俺の『妻』なんだからな」
「……はい、旦那様♪」
彼女の返事は初夏の風のように爽やかに響いた。
俺の胃の痛みは相変わらず消えそうにない。
だがこの痛みは、彼女を一生守り抜くと決めた俺の、名誉ある勲章のような気がした。




