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政略結婚の相手は没落令嬢。冷遇するつもりが、健気すぎて胃が痛い。  作者: 逆立ちハムスター


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3

 胃薬を飲む頻度が、明らかに増えている。リィネめ……いや、俺の自業自得だ。彼女を憎むのは筋違いも甚だしい。


 本来、特級の錬金薬は一滴で半日は効果が持続するはずだ。それを日に三度も煽っている今の状況は、俺の胃壁が悲鳴を上げている証拠に他ならない。


「旦那様、顔色がその……。ンンッ! 本日の公務は……えっと……」

「……続けろ。この程度の痛み、戦場に比べれば……蜂に刺されたようなものだ……」


 傷の方が、まだ「敵が誰か」分かっている分、精神的には楽だった。

 今の俺を苛んでいるのは、敵意でも殺意でもない。リィネという名の「あまりにも眩しすぎる善意」という名の暴力だ。


 執務室の窓から、中庭を見下ろす。

 そこには俺が命じた「罰」を遂行しているリィネの姿があった。

 俺は彼女を虐げるため、今日、新たな命令を下したのだ。


『我が家の庭は荒れ放題だ。貴様のような居候には、一日中、裏庭の薬草園の雑草抜きを命じる。一株でも抜き残しがあれば、夕食抜きだと思え』と。


 裏庭の薬草園。そこは長年手入れが届かず、地面は固く締まり、厄介な刺のある雑草や、肌をかぶれさせる死にはしないが、鬱陶しい毒草が混じっている場所だ。


 貴族の令嬢なら、その光景を見ただけで失神するか、泥に汚れることを拒んで泣き喚くはずだった。そうすればリィネ今度こそ本性を表し、俺は正々堂々と彼女を叱り飛ばし、冷遇することができる。


────


 しかし。


「うふふ、見てくださいアンナ(メイド長)! この『黄金根おうごんね』の双葉、こんなに元気に育っていますわ!」


 リィネは泥だらけの膝をつき、鼻歌を歌いながら作業に没頭していた。

 俺が与えた「再生軟膏」で綺麗になったはずの手は、再び土にまみれている。だが、彼女はその汚れを全く気にする様子もなく、むしろ宝探しでもしているかのように目を輝かせていた。


「閣下は本当にすごいです。こんなに貴重な薬草が自生している場所を、私に任せてくださるなんて。……私、没落してからは、道端の雑草と食べられる野草を見分けるのが得意になったんです。これなら、閣下の胃腸に効く新しいお薬も、もっとたくさん作れますわ!」


 ……まただ。

 また俺の「嫌がらせ」を、彼女の中で「信頼の証」に変換されている。どういう脳の構造をしているんだ?


……あいつは、馬鹿なのか? それとも、俺を煽っているのか?


 窓枠を指が白くなるほど強く握りしめる。

 胃の奥が熱い鉄を流し込まれたように疼く。

 俺は「氷の領主」だ。冷酷非情、合理的、感情に流されない——。その評価を維持するために、どれほどの血を流し、心を殺してきたと思っている。


 それなのに。


「……セバス。俺も庭へ行く。抜き残しがないか、厳しくチェックしてやる」


「左様でございますか。……胃薬の瓶、お持ちしましょうか?」


「……二本用意しろ」


────


 庭に降りると、陽光を浴びた土の匂いと、ハーブの清涼な香りが混じり合って漂ってきた。

 リィネは俺の足音に気づくと、パッと顔を上げた。


「あ、閣下! 見てください、こんなに綺麗になりました!」


 彼女が指差した先には、数時間前まで膝丈まであった雑草がすっかり取り除かれ、整然と区画分けされた土壌が広がっていた。

 信じられない作業スピードだ。いや、それ以上に驚くべきは、彼女が「抜くべき雑草」と「残すべき薬草」を完璧に見分けていることだった。しかし、なにが楽しい?


「……貴様、なぜこの『青銀草せいぎんそう』を残した。これも雑草の一種だろう」


 俺はわざと低く、威圧的な声で問い詰める。

 青銀草。見た目はただの草だが、その葉汁は臭く、不用意に触れれば指がかぶれる。錬金術の素材としては二級品で、育てる手間の方が多い、厄介な代物だ。


「えっ……。あ、ごめんなさい。でも、この子、夜になると月光を浴びて、とっても綺麗な青い光を放つんです。閣下の執務室の窓からちょうど見える位置でしたから……お疲れの時に少しでも癒やしになればと思って……」


 リィネは申し訳なさそうに、小さな肩をすくめた。

 ……夜の癒やし?


「……無駄だ。俺は寝る時以外、窓の外など見ない」


「そ、そうなのですか……。余計なことをいたしました。……でも、閣下。この土、とっても良い土ですね。ヴァレンシュタイン家の歴史を感じます。冷たくて、でも芯に力があって……閣下みたいです」

ふん、世辞か。


 彼女は愛おしそうに地面を撫でた。

 土を撫でて、俺みたいだ、と?

 ……俺はそんなに、泥臭くて頑固な男に見えるというのか。


「……口数が多いな。手が止まっているぞ」


「はい! すみません!」


 リィネは慌てて作業に戻ろうとした。

 その時だ。


「——あっ」


 彼女が短く声を上げた。

 見れば、彼女の指先から、赤い血がひとすじ滴っている。

 地中に隠れていた、尖った石か、あるいはランドゥル(デカめの蟻)で切ったのだろう。


「……見せろ」


 俺は反射的にリィネの手を掴んでいた。

 昨日、軟膏を塗ってようやく滑らかになってきたはずの肌に、再び生々しい傷跡が刻まれている。


「あ、大丈夫です、閣下! このくらい、水で洗い流しておけば、そのうち治りますから。以前はもっと酷い怪我でも——」


「……黙れ」


 俺は彼女の言葉を遮った。

 以前はもっと酷い怪我でも、何だというのだ。

 フェルディアの屋敷を追い出され、行く当てもなく、汚れた水で傷を洗いながら、彼女は一人で耐えてきたのか。

 かつて「王国の至宝」と呼ばれ、絹のドレスに身を包んでいた少女が。


 怒りが湧いてきた。

 彼女をそんな目に合わせた世界に。

 そして、今こうして彼女に再び泥を触らせ、傷を作らせている自分自身に。


「アンナ! 救急箱だ! あと、今すぐこの庭に魔法障壁を張れ! 土砂降りが来ても土が跳ねないように、そして……二度と彼女が指を切らないように、すべての石や害虫を除去しろ!」


「旦那様、さすがに庭のすべての石などを除去するのは物理的に……」


「魔法を使えと言っているんだ! 魔術師を動員しろ」


 俺の剣幕に、リィネは目を丸くして固まっていた。

 そして。


「……ふふっ」


 あろうことか、彼女は小さく吹き出した。


「……おい、何がおかしい。貴様、俺を馬鹿にしているのか?」


「いえ、そうではありません。ただ……閣下は、本当にお優しいだけでなく、とっても『大げさ』な方なのだなと思って。……私の小さな傷のために、そこまで怒ってくださるなんて」


 彼女は血の滲む指を俺の大きな手のひらに預けたまま、潤んだ瞳で俺を見上げた。


「私、幸せです。フェルディアが滅びてから、私のために誰かが怒ってくれたことなんて、一度もありませんでしたから……」


 ——ズガガガガッ!!


 俺の胃が異音を立てる、何かが、何かが決壊する音がした。

 痛みではない。もはや、それは「激痛」という概念を超越した、魂の震えだった。


……く、くそ。もうダメだ。勝てぬ。


 俺はこの女を冷遇することなど、一生できない。

 毒を吐けば吐くほど、彼女はそれを甘い蜜に変えて飲み干し、至上の笑顔で返してくる。

 俺の「冷酷」という鎧は、彼女の前ではただの薄紙に過ぎなかったのではないか。これが真の慈愛なのか? ヴォルナイストーリア(調和の女神)のような神の慈愛そのものなのか!?


「……か、勘違いするな。貴様の指から出た血が、我が家の高価な薬草に付着して、薬効を損なうのが嫌なだけだ」


 俺は精一杯の盲言的虚勢を張り、彼女の手を振り払うようにして立ち上がった。


「リィネを今すぐ部屋へ戻れ! 今日の作業は終了だ! それから……」


 俺は背中を向けたまま、絞り出すように言った。


「……今日の夕食には、俺の好きな最高級の、柔らかい……そう、噛まなくても溶けるような肉を用意してやる。……それと、指の傷を癒やすための……ビタミンが豊富な果物もだ。余らせることは許さん。全部食え。……いいな?」


「はい、閣下! 喜んでいただきます!」


 後ろから聞こえる、弾んだ声。

 俺は足早にその場を去った。


────


 執務室に戻りデスクに突っ伏すと、そこには今朝リィネから渡された、まだ温かい「ハーブのシロップ」の瓶があった。


 俺はそれを一気に煽る。

 錬金術で作ったどんな劇薬よりも、彼女の「泥臭いシロップ」の方が、俺の胃を優しく癒やしていく。


「……セバス」


「はい、旦那様」


「……リィネの実家、フェルディア公爵家が取り潰された際の再調査資料を持ってこい。……特務階級の、秘匿資料だ」


 セバスの動きが一瞬止まった。


「……それは……王命に背くことになりますが?」


「分かっている。……だが、俺の胃が持たん。彼女が『幸せです』と言うたびに、俺の過去の行動が刃になって突き刺さる」


 俺は彼女が残した「青銀草」が微かに揺れる庭を見つめた。


「もし……もし、あの家の没落に不正な工作があったとしたら。俺は、俺の全財産と、このヴァレンシュタインの家名を懸けてでも、彼女に『本当の幸せ』を返さなければならない」


 それは俺が初めて抱いた、あまりにも無鉄砲で、あまりにも不器用な「愛」の形だった。


────


 その夜。

 執務室の窓から外を見ると、リィネが残した青銀草が、淡い、優しい光を放っていた。

 その光を見つめながら、俺は再び胃を押さえる。


「……光りすぎだ、馬鹿者め。……眩しくて、寝られないだろうが」


 口元にこぼれたのは、自分でも驚くほど穏やかな苦笑いだった。

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