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翌朝。
俺は最悪の気分で目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、網膜を容赦なく刺す。昨夜は結局、一睡もできなかった。
目を閉じれば、あの大粒の涙をこぼしながら「スープが温かい」と喜ぶリィネの顔が浮かび、そのたびに胃が雑巾を絞るようにキリキリと痛んだからだ。
……クソ。俺は、冷徹な領主で軍人で騎士のはずだろうが。
這いずるようにしてベッドから抜け出し、鏡を見る。
そこには、悪魔も裸足で逃げ出しそうなほど隈のひどい、青白い顔の男が映っていた。
俺は重い溜息をつき、身なりを整える。今日は領地の政務が山積みだ。リィネのことなど、ひとまず忘れて仕事に没頭しよう。そう、彼女はただの「飾り」なのだから。どうせ昨日のも演技だろう。気にする事などない。無視という冷遇を続ける。
そう自分に言い聞かせながら食堂へ向かった俺は、入り口で凍りついた。
「——さあ、ここも綺麗にいたしましょう。埃を被っていては、閣下のお洋服が汚れてしまいますもの」
そこにはエプロンを身につけ、モップを持って床を磨き上げているリィネの姿があった。
それも、ただの掃除ではない。執務室の前の廊下を、這いつくばってまで一心不乱に。
彼女の灰色のドレスは、昨日の旅の汚れだけでなく、床の埃まで吸ってさらに煤けている。
「……な、何をしている?」
俺の声にリィネが弾かれたように顔を上げた。
乱れた髪をかき上げ、汗を拭いながら、彼女は向日葵のような笑顔を向けてくる。
「あ、閣下! おはようございます! 昨夜はぐっすり眠れましたでしょうか?」
……眠れるわけがないだろう、君のせいで。
「貴様に質問している。なぜ、公爵令嬢である貴様が、使用人の真似事をしているんだ。セバスはどうした!?」
俺が低く威圧的な声で問うと、リィネは恐縮したように手を合わせた。
「セバス様には、お止めいただいたのですが……。どうしても、じっとしていられなくて。こんなに立派な屋敷に置かせていただいているのに、何もしないなんて、神罰が下ってしまいます。それに私、フェルディアの屋敷が差し押さえられてからは、ずっとお掃除や洗濯を自分でしておりましたので、慣れているんです!」
彼女は誇らしげに、赤くひび割れた自分の手を見せた。
その手は、十代の貴族女性のものとは到底思えなかった。重労働に耐え、冬の冷たい水で荒れ果てた、労働者の手だった。
「……っ」
演技とは思えん……。錬金や魔力の類ではないのは、遠目でも分かる。
まただ。胃の奥で、熱い針が突き刺さるような感覚がした。
昨日の今日で、また俺の罪悪感を刺激しにきているのか、この女は。俺の胃を壊すのが目的か?
「やめろと言っている! ヴァレンシュタイン家の妻が、這いつくばって床を磨いているなどという噂が広まれば、俺の管理能力が疑われる。貴様は、黙って部屋の隅で枯れていればいいんだ!」
俺は彼女の腕を掴み、無理やり立たせた。
驚くほど軽い。まるで中身が空洞の鳥の骨を掴んでいるようだ。
リィネは、俺の冷たい言葉をどう解釈したのか、不安げに首を傾げた。
「……か、管理能力……。ああ、なるほど! 閣下は、私の体が汚れることを心配してくださっているのですね?」
「は!? 何をどう聞けばそうなる!」
「『黙って部屋で休んでいろ』という意味ですよね? まあ……なんてお優しい。ですが閣下、私は大丈夫です。少しくらいの埃で倒れたりいたしませんわ!」
彼女は鼻の頭に黒い汚れをつけたまま、エヘンと胸を張った。
全然違う。全く、一文字も合っていない。
だが否定しようと口を開きかけた瞬間、俺の視界に彼女の足元が入った。
……靴が、ボロボロだ。
底が半分剥がれかけ、歩くたびにパタパタと情けない音を立てている。リィネが去ったのを見届け。
「セバス!!」
俺の怒号に、廊下の先から執事が音もなく現れた。
「はい! 旦那様。お呼びでしょうか」
「あの女……リィネに、まともな服と靴を用意しろ。今すぐだ。我が家の品位に関わる。没落令嬢をそのままの格好で放置するなど、ヴァレンシュタイン家の恥だと思わんのか!」
「しょ、承知いたしました。しかし、旦那様。昨夜、リィネ様には『一番安い麻の服で十分だ』と命じられておりましたが……」
セバスの冷静な指摘に、俺は絶句した。
そうだ。昨日の俺は、彼女を惨めな気持ちにさせるために、わざと使用人以下の服をあてがおうとしていた。愚かだった。これも我が家門の品位を落とす策略かもしれんのに。
「……状況が変わったんだ! その……そう、事情知らぬ客人が来るやもしれんしな! そんなボロをまとった女がうろついていては、俺が虐待していると思われるだろう」
「左様でございますか。では、王都で一番の仕立屋を呼び、リィネ様に相応しいドレスを新調させます。……『予算は如何ほどが、よろしいでしょうか?」
セバスの目が確信犯的に光る。
俺は胃を押さえ、吐き捨てるように答えた。
「……リィネの好きにさせろ。ただし、無駄使いせぬように見張っておけ。まったくもってゴテゴテと飾る必要はない。あくまで『ヴァレンシュタイン家の面を保つためで十分だ」
そして……。
「……い、いいか、リィネ。これは貴様への贈り物ではない。俺のプライドのための投資だ。勘違いするなよ」
リィネは目をパチクリとさせて俺を見つめていた。
そして、今にも消えてしまいそうなほど、儚く、尊い微笑みを浮かべた。
「……はい。閣下のプライドのために、精一杯、綺麗にさせていただきます。……嬉しいです。お洋服を買っていただけるなんて……、お父様が亡くなってから初めてのことですわ」
その瞬間、俺の胃に激痛の「特大弾」が着弾した。
お父様が亡くなってから初めて。
彼女が耐えてきた歳月の重みが、俺の無慈悲な言葉をすべて「救いの手」へと塗り替えていく。だからといって、許されることでは……しかし彼女が関わったという証拠も確信もない。あくまでも……噂の範囲だ。俺は見極める必要がある。いつかボロを出すはずだ。そこが狙い目だ。
「セバス、錬金室へ行く……。今日の午前中の公務は、すべて午後に回せ。このままでは俺の胃に穴が空いて死ぬぞ……」
「旦那様、しっかりしてください。リィネ様、旦那様をお支えして」
「はい! 閣下、大丈夫ですか!? お顔が真っ白……いえ、もう透けて見えそうですわ!」
リィネが慌てて俺の腰に手を回し、支えてくれる。
彼女からは陽だまりのような、どこか懐かしい石鹸の匂いがした。
その温もりが、冷え切った俺の心を無慈悲に溶かしていく。
やめろ……。優しくするな……。俺は君を……憎むべき敵の娘として……扱わねば……うっ! また胃が……。
意識が遠のく中、俺は自分の「冷徹」が、彼女の「ピュア」の前に完全に無力であることを悟り始めていた。
────
数時間後。
俺は屋敷の地下にある錬金術室で、調合した胃薬を煽っていた。
この世界の錬金術は、植物の魔力を抽出して薬を作る。俺が作ったのは、数種類の薬草に「安定」の魔力を付与した特級品だ。
喉を通る清涼感が、ようやく荒れ狂う胃壁を鎮めてくれる。
「ふぅ……」
なんだったんだ、あの殺傷能力の高い笑顔は……。
椅子に深く背をもたれかける。
リィネ・エル・フェルディア。恐ろしい。
彼女の家、フェルディア公爵家は、三年前の政変で現国王の暗殺を企てたとされ、取り潰された。俺の父は、その陰謀を暴いた功労者の一人だ。
だから俺は彼女を憎まなければならない。彼女の父親が流したであろう血の報いを、彼女に背負わせるのが、この国の「正義」なのだ。
だが、あの折れそうなほど細い腕で、一心不乱に床を磨いていた彼女を見て、何が正義なのか分からなくなってきた。そもそも、親の罪が子に引き継がれるというのは、どうなのだろうか。こんな世の中では……あぁ……これじゃあまるで、ミスター・ホワイ(有名な哲学者)になった気分だ。
リィネのあんな手になるまで、彼女を追い詰めたのは、他ならぬ俺たち「勝者」ではないのか。
「……旦那様、リィネ様が、お礼にと何かをお持ちです」
扉の向こうからセバスの声。
俺は慌てて胃薬の瓶を隠し、表情を「氷の領主」に戻した。
「入れ。……何だ、また掃除の続きか?」
入ってきたリィネは、着替えていた。
新しく仕立てられた、落ち着いた深い紺色のドレス。豪華な装飾はないが、上質な生地が彼女の白磁のような肌を引き立てている。……正直、心臓が跳ねるほど綺麗だったが、俺は鼻先で笑ってみせた。
「ふん。少しはマシになったな。カカシよりはマシだ」
「ありがとうございます! 本当に動きやすくて、軽くて……。それで、これ、お口に合うか分かりませんが……」
彼女が差し出したのは、小さな小瓶だった。
中には琥珀色の液体が入っている。
「なんだ、これは。毒か?」
「いえっ! 閣下、胃が痛いとおっしゃっていたので……。昔、乳母に教わった『胃を温めるハーブのシロップ』です。お庭の隅に、少しだけ自生していた薬草をいただいて、キッチンで煮出しました」
リィネは不安げに指先を絡ませる。
「錬金術のような素晴らしいものではありませんが……。没落してからは、お薬も買えなかったので、いつもこれで凌いでいたんです。閣下のお体、私が守りますから」
俺は、その小瓶を奪い取るようにして受け取った。
ラベルもない、無骨な瓶。だが、触れるとまだ微かに温かい。
彼女は、自分が食べるものもままならない生活の中で、自分を治療するためにこれを作っていたのか。
そして今、それを、自分を「冷遇」しているはずの俺に差し出している。
「……。飲まないぞ。こんな怪しい液体、俺の体に万が一のことがあったらどうするつもりだ?」
「……そ、そう、ですよね。申し訳ございません、出過ぎた真似を……」
シュン、とリィネの肩が落ちる。それを見ただけで、俺の心臓がギュッと締め付けられる。
……クソ。
「……だが、貴様の誠意(?)を無下にして、後で泣かれても困る。お前が一口飲むのなら、飲んでやる」
そしてリィネが飲んだ後、俺は彼女の目の前でシロップを一口、煽った。
口の中に広がるのは、少しの苦味と、それを包み込むような暴力的なまでの優しさ。
ハーブの香りが鼻を抜け、胃の中に温かい陽だまりが落ちたような感覚がした。
俺が作った高価な錬金薬よりも、ずっと、ずっと穏やかに痛みが消えていく。
「……どう、でしょうか?」
期待に満ちた瞳で覗き込んでくるリィネ。
俺はわざと渋い顔をして、小瓶をデスクに置いた。
「……泥水よりはマシな味だ。とりあえず、取っておいてやる。……それより、リィネ」
「はい!」
「貴様のその手だ。さっき見たが、あまりに醜い。ヴァレンシュタイン家の妻が、あかぎれだらけの手で客人に茶を出すなど、恥さらしもいいところだ」
俺は引き出しから、自作の「最高級・軟膏」を取り出し、彼女に放り投げた。
「塗れ。命令だ。二度と、そんな汚い手で俺の前に現れるな」
リィネは、受け取った軟膏の容器を不思議そうに見つめた後。
ぱぁぁっ、と、この世のものとは思えないほど美しい笑顔を咲かせた。
「はい! 閣下の恥にならないよう、毎日、大切に塗らせていただきます! 閣下は本当に……不器用なほどお優しいのですね。私、分かります」
「……は、早く行け!」
逃げるように彼女を追い出し、扉を閉める。
心臓の鼓動がうるさい、うるさい。
胃の痛みは消えたはずなのに、今度は胸のあたりが別の意味で熱くて……く、苦しい。
不器用……? 俺が? 冗談じゃない……。たった一日で、あいつに俺のなにが分かるという。
俺はデスクの上の、まだ温かいハーブの小瓶を握りしめた。
復讐? 冷遇?
そんな言葉が、彼女の純粋な献身を前に砂の城のように崩れていく音が聞こえた。
────
——その日の夕食。
リィネのテーブルには、昨日とは打って変わって、栄養満点の白粥と、柔らかく煮込んだ温野菜、そして新鮮な果物が並んでいた。
俺はそれを横目で睨みながら、昨日と同じ豪華なステーキを口に運ぶ。
「……勘違いするなよ、リィネ。貴様が倒れて、医者代がかさむのが嫌なだけだ」
「はい! 閣下のお財布を守るためにも、たくさん食べて元気になります!」
ハグハグと幸せそうに粥を頬張るリィネを見て、俺は再び、外の遠くの空を仰いだ。
俺の胃薬の在庫が底をつくのが先か、俺の理性が「愛してる」と叫び出すのが先か。
その勝負の結果は、もう目に見えているような気がした。




