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「……来たか」
窓の外、重苦しい鉄門をくぐり抜けてきた一台の馬車を見下ろし、俺——ゼクス・ヴァレンシュタインは、忌々しげに吐き捨てた。
馬車は我がヴァレンシュタイン家の格に見合う豪華なものではない。塗装は剥げ、車輪が回るたびに不吉な悲鳴を上げる、どこかから借りてきたような安物だ。それが、かつて王国の至宝とまで称えられた名門、フェルディア公爵家の現在の凋落ぶりを如実に物語っていた。
胃のあたりが微かに疼く。
これから俺が行うのは、愛のない結婚だ。いや、それ以上に残酷な「報復」の儀式である。
政変に敗れ、地位も名誉も失ったフェルディア家の娘を、勝者側である我が家が引き取る。それは慈悲などではない。かつての政敵を足蹴にし、一生を飼い殺しにすることで、反逆者への見せしめとするための王命だった。
「旦那様、リィネ様がお着きになりました」
執事のセバスが、表情を消して告げる。
俺はデスクに置いてあった、わざとらしく冷え切った紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「分かっている。……予定通り、例の『歓迎』の準備はできているな?」
「はっ。お望みの通り、最も北側にある、久しく使われていない客間を用意しております」
「よろしい『地獄へようこそ』と、教えてやらねばな」
自分に言い聞かせるように、俺は冷酷な笑みを口元に貼り付けた。
俺は「氷の領主」だ。私情を挟まず、敵には容赦しない。そう周囲に思わせなければ、この荒れ狂う政界で家を守ることはできない。たとえ相手が何の罪もない娘だとしても。
一階のホールへ降りると、そこには一人の女性が立っていた。
使い古された、しかし丁寧に手入れされた灰色の旅装束。手元には角が擦り切れた小さなトランクが一つ。
それがリィネ・エル・フェルディアの全財産なのだろう。
「……ゼクス・ヴァレンシュタイン閣下とお見受けいたします。この度は、私のような者を妻として迎え入れてくださり、心より感謝申し上げます」
彼女が深々と頭を下げたとき、俺は言葉を失いかけた。
顔を上げた彼女の瞳は、驚くほど透き通っていた。没落の憂き目に遭い、親族からも見捨てられたはずだというのに、その佇まいには気高いまでの美しさが宿っている。……いや、違う。よく見れば、その頬は痛々しいほどこけ、肌は不健康なまでに白い。
(……細すぎる。まるで、少し強く握れば折れてしまいそうな枝じゃないか)
胸の奥で、何かがチクリと刺さった。だが俺はそれを無視して、わざと傲慢な態度で鼻を鳴らした。
「挨拶はいい。貴様を歓迎するつもりなど、毛頭ないからな。この結婚は単なる形式であり、貴様は我が家にとって、王家への忠誠を示すための『飾り』に過ぎない。分かったら、さっさとその汚い荷物を持って部屋へ行け」
普通なら、屈辱に顔を歪めるか、泣き出すところだろう。だが、リィネは違った。
「はい。お心遣い、痛み入ります」
彼女は、ふんわりと微笑んだのだ。
……ふむ。
「セバス、案内しろ」
俺は逃げるようにその場を後にし、彼女をあえて「冷遇」するために用意した部屋へと向かわせた。
そこは屋敷の北端にある、日の当たらない狭い部屋だ。
壁紙は古びて剥がれかけ、暖炉は小さく、冬場は凍えるような寒さになる。用意したベッドも、客用としては最低ランクの硬いものだ。貴族の令嬢にとっては、物置同然の屈辱的な部屋のはずだった。
俺は物陰から彼女の反応を窺った。
きっと絶望し、かつての贅沢な生活を思い出して嘆くに違いない。そうすれば、俺も「これこそが敗者の受けるべき報いだ」と、心を鬼にできる。愚かな策略を講じようとした家門の罰だとな。
だが部屋に入ったリィネの第一声は、俺の予想を斜め上に突き抜けた。
「……まあ! なんて素敵な、清潔なお部屋でしょう!」
リィネはトランクを床に置くと、目を輝かせて部屋を見渡した。
「屋根があるどころか、ガラスの入った窓まで……古びた物置に押し込まれるかと思っていたのですが、有難いですわ。それに見てください、このシーツ。真っ白で、お日様の匂いがします。あんなにふかふかなベッドで寝てしまっては、バチが当たってしまいそうですね♪」
彼女は愛おしそうにベッドの端に触れた。
……待て待て待て。
「真っ白なシーツ」? それは、洗濯したてだから当たり前だ。
「ふかふかなベッド」? いや、それは我が家で一番使い古された、馬の毛が詰まった安物のはずだが。
「これほどのご配慮をいただけるなんて、ヴァレンシュタイン閣下は、本当にお優しい方なのですね……」
リィネは窓から差し込むわずかな光を浴びながら、本当に幸せそうに、涙を浮かべて微笑んでいた。
——ズキッ。
「ぐっ……」
突然、胃のあたりに鋭い痛みが走った。俺は思わず壁に手をつく。
なんだ、この痛みは。
違う。俺は彼女を虐げようとしたんだ。それなのに、あんな聖女のような顔で感謝されるなんて、計算が……計算が違いすぎる。
夕食を……。そうだ、夕食で分からせてやる!
俺は必死に胃を押さえながら、厨房へ向かった。
「今日の夕食は、何を用意している?」
「はっ。リィネ様には、冷えた堅パンと、具のない薄い芋スープを用意しております」
料理長が申し訳なさそうに答える。
よし、完璧な冷遇メニューだ。公爵令嬢なら、一口食べただけでスプーンを置くレベルの粗末な食事。己の家門がどれほどの愚かなことをしたか、身に沁みるはずだ。
食堂に現れたリィネの前に、その皿が置かれる。
俺はわざとらしく、自分だけには豪華なステーキと赤ワインを用意させ、彼女を優雅に睨みつけた。
「我が家の家計も苦しくてな。両親が反逆した没落令嬢……いや失礼、健気な居候に食わせる贅沢な食事はない。文句があるなら食べなくても結構だぞ」
さあ、怒れ。泣け。「こんなもの食べられない」とわがままを言え。
しかし、リィネは運ばれてきたスープの湯気を見つめ、信じられないものを見るような目で固まっていた。
「……どうした。やはり公爵令嬢の口には合わんか?」
俺が勝ち誇ったように言うと、彼女はおずおずとスプーンを取り、スープを一口、口に含んだ。
そして、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おい、何を泣いて——」
「温かい……。とても、温かいです。お野菜の……お出汁の味がします……」
彼女は震える手で、スープを大切そうに飲み干していく。
「ここ数ヶ月、野草を煮出したものしか口にしていなかったので……。こんなに、こんなに透き通ったスープをいただけるなんて。パンも……小麦の香りがちゃんとします。噛み締めることができるなんて、夢のようですわ」
彼女は、ちぎった堅パンを胸に抱くようにして、嗚咽を漏らした。
「ありがとうございます、閣下。私のことを、一人の人間として扱ってくださって……。この恩は一生忘れません。私、このお屋敷のために、精一杯働きます。雑用でも、掃除でも、何でもお申し付けください」
……野草?
何を言っているんだ。フェルディア公爵家は没落したとはいえ、親戚もいたはずだろう。あんなボロボロのトランク一つで、この細い体で……。
彼女は、どれほどの地獄を潜り抜けてここへ来たというのか。
俺が用意した「冷遇」は、彼女にとっては「過分な慈悲」でしかなかったのだ。
「うっ、ぐっ……!」
先ほどよりも、数十倍強い痛みが胃を直撃した。
俺はテーブルに突っ伏しそうになるのを必死の思いで堪えた。
……くそ、なんだこれは! 罪悪感か? 罪悪感なのか!?
俺は彼女を苦しめるためにここへ呼んだ。政敵への復讐のために、冷たくあしらうはずだった。
それなのに、リィネの健気すぎる反応が、俺の「氷の騎士」としての仮面を内側から叩き割ろうとしてくる。
「……閣下!? 大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですわ!」
リィネが慌てて立ち上がり、俺のそばに駆け寄ってきた。
彼女の手が、俺の肩に触れる。驚くほど冷たくて、けれど優しい手だった。
「ち、近寄るな……! 気に、するなと言っているだろう……っ」
「そんなわけには参りません! すぐに、お薬を……!」
彼女は自分の食事を中断し、必死な顔で俺の顔を覗き込んでいる。
その瞳には、打算も、憎しみも、何一つ混じっていなかった。ただ純粋に、俺の体を案じる輝きだけがあった。
(……や、やめろ。そんな目で俺を見るな。俺は君を不幸にするために、この結婚を承諾したんだぞ)
だが口から出た言葉は、自分でも驚くほど情けないものだった。
「……セバス。……錬金術師を呼べ。それから……」
俺は、彼女の前の空っぽのスープ皿を指差した。
「……その、リィネのパンがあまりに硬そうだったからだ。勘違いするな。歯を折られては、ヴァレンシュタイン家の名に関わる。……料理長に、もう少しマシな、……柔らかいパンを持ってこさせろ。あと、温かいミルクもだ」
「畏まりました、旦那様」
セバスの声が、心なしか弾んでいるように聞こえた。
リィネは、ぱあっと顔を輝かせた。
「まあ、阁下……! どこまでお優しいのですか。私、こんなに良くしていただいて、本当に……本当に、幸せです!」
彼女の笑顔は、煤けた旅装束には不釣り合いなほど、眩しかった。
その眩しさに比例するように、俺の胃は、キリキリと悲鳴を上げ続ける。
「……俺の胃薬も、多めに持ってこい。……特級品だ」
初夜どころではない。
冷遇令嬢との共同生活は、俺の胃壁が全滅するか、彼女の笑顔に俺の理性が屈するか、そのどちらかが先かという、命がけの戦いになりそうな形相だった。




