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「……あぁ、開戦前の戦場のように心が震える」
鏡の前で、俺は自分の顔を凝視していた。
そこには王国の軍権を一部担う冷徹な伯爵——ゼクス・ヴァレンシュタインの姿がある。あるはずなのだが、軍服のボタンを留める指先は、戦場でも味わったことがないほど小刻みに震えていた。
理由は明白だ。
今夜、王宮で開催される舞踏会。それはフェルディア公爵家の没落後、初めてリィネが社交界に「ヴァレンシュタイン伯爵夫人」として姿を現す場となる。
「旦那様。胃薬、いつもの二倍の濃度で調合させておきました。それから、万が一のために『精神安定』の香を焚いたハンカチも用意しております」
「……セバス。俺は死地へ向かうわけではないぞ」
「左様ですが、旦那様の胃の悲鳴は、一階の部屋の私にまで聞こえてくるようです」
セバスの毒舌を受け流す余裕すらない。
俺が恐れているのは、雑魚の政敵如きの嫌がらせではない。リィネが、かつて自分を指差して笑った者たちの前に立ち、傷つくことだ。……いや、違う。リィネがあまりにも美しく、そしてあまりにも健気に俺に寄り添うことで、俺の理性が、そして胃壁が、粉々に砕け散ることだ。
その時ドアが開いた。
「——閣下、お待たせいたしました」
静かに現れたリィネを見て、俺の呼吸は止まった。いや、止まりそうだった。
俺が自称「呪いの鎖」として贈った、あの青いダイヤモンドのペンダント。それが、深い夜の色をしたシルクのドレスの胸元で、静謐な光を放っている。
ドレスは派手すぎず、しかし最高級の裁縫師が彼女の細い体躯に合わせて仕立てた、芸術品のような一着だ。
髪を結い上げ、首筋を露わにした彼女は、まさに「王国の至宝」の再臨だった。
「……リィネ。君は、その格好はなんだ」
俺はわざと低く、喉を絞り出すように言った。
「えっ……。やはり、似合っておりませんか? あまりに豪華すぎて、私が着ると服に負けてしまって……」
「逆だ! 君は……、そんな格好で人前に出れば、男たちの視線が君に集中して、俺の……俺の『管理不行き届き』が露呈するだろうが!」
「まあ……。閣下、それはつまり、私が綺麗だと言ってくださっているのですか?」
リィネが頬を染めて、上目遣いに俺を見る。
その破壊力は、戦列歩兵の一斉射撃を至近距離で浴びるより凄まじかった。
「……フン、君の妄想力には恐れ入る。行くぞ。遅れれば、王家に不敬を働くことになり、我が家の予算が……俺の胃が……っ」
「はい、閣下! どこまでもお供いたしますわ!」
────
王宮の舞踏会場は、黄金の光と傲慢な香水の匂いに満ちていた。
俺たちが足を踏み入れた瞬間、喧騒が止まり、氷のような静寂が広がった。
視線の矢が、容赦なくリィネへと突き刺さる。
「おい、見ろよ……あの女。フェルディアの……」
「よくもまあ、あんな厚顔無恥な真似ができるものだわ」
「ヴァレンシュタイン閣下も、あんな『反逆者の娘』を連れて歩くなんて、おいたわしい……」
聞こえるように囁かれる、卑俗な陰口。
俺の拳が、みしりと音を立てて固まる。隣にいるリィネの指先が、俺の腕の中で微かに震えているのが分かった。
……さあ、リィネ。耐えられなくなって「帰りたい」と言え。そうすれば、俺は全力で君を抱き抱え、この場にいる全員を睨み飛ばして立ち去ってやる。
だがリィネは深く呼吸を整えると、震える唇を噛んで、真っ直ぐに前を向いた。
「……閣下。大丈夫です。私は、貴方の『妻』としてここにいます。貴方の名誉を汚すような真似は、決して……決していたしません」
彼女は俺の腕を力強く握り締め、凛とした足取りで歩き出した。
……その強さが、俺の胸を締め付ける。
彼女を一人で戦わせてはいけない。俺は彼女を「冷遇」しているフリをして、誰よりも彼女の味方でなければならない。
「——おやおや、これは珍しい。軍事界の冷血漢が、ゴミ拾いでもしてきたのかね?」
立ちはだかったのは、王太子側近の最高位にある公爵家の次男、カイル・ド・ヴァロワ。
三年前の政変で、リィネの父親を告発した「偽造文書」を王室に提出した中心人物の一人だ。
「カイル。貴殿のその下劣な口を、今すぐ縫い合わせてやろうか?」
「おっと、怖いね。流石戦場の軍神。だがゼクス、貴殿も落ちたものだ。こんな『枯れた花』に、最高級のドレスを着せて、一体何の真似だ? まるで、ドブネズミが絹を巻いているようなものじゃないか」
カイルは持っていたワイングラスをわざと傾け、リィネのドレスの裾に数滴、赤い液体をこぼした。
「ああ、失礼〜。汚れてしまったね。まあ、もともと汚れた家柄の娘だ、これくらいの方がお似合いか——」
——パリンッ!!
次の瞬間、会場に響いたのは、硬い音が砕け散る響きだった。
カイルが持っていたグラスが、俺の「念動魔法」を込めた指弾によって、粉々に粉砕されていた。
「ひっ、あぁっ……!?」
カイルの手から血が滲み、彼は狼狽して後退る。
俺は一歩、地を割るような重圧とともに踏み出した。
「カイル・ド・ヴァロワ。……聞き捨てならんな。今、貴殿は『誰の妻』を侮辱した?」
「な、何を……! たかが没落したフェルディアの——」
情けない。たかが掠り傷程度で声が裏返るとは。
「黙れ。彼女は、ヴァレンシュタイン家の、俺の、ゼクス・ヴァレンシュタインが、生涯をかけて……管理し、監視し、そして……」
俺は彼女の腰を引き寄せ、会場中の全員に聞こえるような大声で言い放った。
「……俺の命よりも大切に保管している、この世で唯一の宝だ!!」
……沈黙。
会場全体が墓場のような静寂に包まれた。
リィネが信じられないものを見るような目で俺を見上げている。
セバスが遠くの方で「ああ、言っちゃったよ、この人……」という風な顔で天を仰いでいる。しかし俺は満足だ。
——そして。
いや待て、勢いで言ってしまったが、俺の脳内でこれまでの「冷酷な領主」としての概念データが、凄まじい勢いで消去されていく。
代わりに浮上してきたのは、公衆の面前で最上級の愛の告白をしてしまった、あまりにも恥ずかしすぎる男の姿だ。
「ぐっ……!!」
俺は思わずその場で胃を抱えた。
「閣下!? ゼクス様!? 大丈夫ですか!? ああ、あまりに素敵なお言葉をいただいたせいで、閣下の身が保たなかったのですね!?」
リィネがなりふり構わず俺の体を支えてくれる。
彼女の目からは、宝石よりも綺麗な涙が溢れていた。
「今のは、その……敵を威圧するための、軍事的な……比喩だ」
「比喩で命をかけたりいたしませんわ! 嬉しい……、私、一生閣下から離れません! どんなことがあっても、閣下の胃を守り抜きます!」
リィネの「全開の笑顔」と「特大の愛」。
それが弱った俺の胃に直撃する。
カイルや他の貴族たちは、俺のあまりの豹変振りと、その後に及んだ「公開痴話喧嘩」のような光景に、完全に戦意を喪失して立ち尽くしていた。
────
舞踏会の帰り道。
馬車の中で、俺はリィネの膝を枕にして、彼女が調合してくれたハーブ水を飲んでいた。
リィネは俺の髪を優しく撫でながら、ずっと幸せそうに微笑んでいる。
「……ゼクス様」
彼女が初めて俺の名前を呼んだ。
俺の心臓が再びピクンと跳ねる。
「……なんだ。まだ、お仕置き(プレゼント)が足りないのか」
「いいえ。……私、さっきの言葉、一生忘れません。……『宝物』って言ってくださったこと」
彼女は俺の額に、羽毛が触れるような軽い口づけを落とした。
「私、閣下の胃の痛みがなくなるまで、ずっとずっと、お側にいますからね」
……その言葉は、俺の胃を癒やすどころか、さらなる「尊さ」による悶絶をもたらした。
だが窓の外に流れる王都の夜景を見ながら俺は誓った。
この笑顔を曇らせる者は、たとえ王家であろうと容赦はしない。
俺の胃が穴だらけになろうとも、彼女の未来に、二度と「泥」を触らせることはない。
氷の領主、ゼクス・ヴァレンシュタイン。
俺は自らのプライドと引き換えに、世界で一番強く、そして世界で一番不器用な「愛」を、その手の中に掴んでいた。
——翌朝。
ヴァレンシュタイン邸にいつものように届く朝刊
俺はいつもの日課で、世界情勢を知るため、リィネが起きるまでコーヒー飲みながらギロチン・タイムズの紙面に目を走らせる。
トップの見出しは『大辟審理院による、国家大逆罪、皇帝不敬罪、公金横領、徴税不正など布告通達の開示』だった。当然、カイル・ド・ヴァロワの名も他の不正貴族同様出ていた。
皇帝陛下にとって、かなり目障りだったに違いない。今頃、あいつはパニックだろう。
これから忙しくなるが、まあ平和にはなる。
俺はこんな連中のことより気になっている事があり、紙面を隈無く探す。
小さい見出し。
『聖なる偉業!』
聖女セシリアが追放後、漆黒公爵と恐れられるアルカード公爵領の呪いを浄化! レダニス教皇が聖女セシリアの偉業を称賛。近く特別祝賀祭を開催予定。
また同刻、レダニス教皇は、自身の不在の間に聖女セシリアを独断で追放したとして、枢機卿、聖女、両名をそれぞれ越権聖職権行為違反として聖職剥奪処罰を下すと発表した。
教会関係者の情報筋によると、アルカード公爵領に呪いを掛けていた悪魔が、地獄の強大な悪魔、ラドバールという噂が流れており、教会側は聖騎士団を特別派兵し、報復に備え、警戒感を強めているとの事です。
「ん!? おい……あったぞ!? なんてことだ!」
さらに小さな見出し。
『氷の領主、ゼクス・ヴァレンシュタイン。溶ける!! リィネ・エル・フェルディアに舞踏会で愛の宣戦布告!?』
目撃した貴族たちによると……。
また胃が痛くなってきた……。




