第7話 「……一緒にかえろ?」
「良い度胸だ。私の授業をサボるとは」
椅子に深く腰を掛け、そう言い放ったのは俺のクラスの担任であり、数学の先生を務める伊藤響子先生だ。
ホームルームが終わった後、俺はこの先生に数学準備室に呼び出された。
今までも何度か呼び出されたことはある。だから驚きはない。
だが──
「なあ、姫百合」
呼び出されていたのは、俺だけじゃなかった。
どうやら俺が体育の授業の間、姫百合は数学の授業だったらしい。ちなみに、俺は体育の授業の次が数学だった。
「申し訳、ございません」
姫百合は深く頭を下げた。
その声はいつもの調子とは違い、真剣に反省しているのが伝わってきた。
先生は「はあ」と溜息を吐く。
「まあいい。どうせ九条にサボるよう唆されたんだろう。私はそこまで怒ってはいない。だから頭を上げなさい」
「え?」
姫百合は驚いたように頭を上げ、先生を見る。なぜ知っているのか、そう思ったのだろう。
だが先生はそれを別の意味に受け取ったのか、「違うのか?」と聞いた。
「い、いえっ! 仰る通りです!」
姫百合はブンブンと首を横に振りながら慌てて否定した。
「だろうな。だからもう謝罪はいらない。九条に唆されたとはいえ、サボったのは反省すべき点だが……その様子なら、もう十分反省しているだろう」
「……はい」
シュンと今までに見た事が無いくらいに、しおらしい態度の姫百合。流石にここまで反省の色を見せられると、少し申し訳なくなる。
「幸いにもサボった事を知っているのは私と保健室の氷上先生だけだ。私も、氷上先生も、この件を口外するつもりはない。そこは安心して良い」
先生のその言葉を聞いて、ホッとする姫百合。そして、姫百合は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「君が誠実な生徒で、これまで頑張って来た事を知っているからな。私だけではない。この学校の教師、特に一年の担任は皆知っている。そして、君にはこれからも引き続き頑張って欲しいと私は思っている」
だから礼は要らないと、先生は最後にそう言ってこの話を締めた。
「……しかし」
わずかに視線を細めて、先生は俺を見る。
「九条、いつの間にお前たちはそんな仲になったんだ?」
「……別に話す事でもない。それより響子さん」
「……響子さん?」
姫百合が、わずかに目を見開く。
先生──いや、響子さんは、ほんの一瞬だけ目を細めた気がした。
「九条……、学校でそう呼ぶなと言っているだろう。今は姫百合もいる。……ここでは、伊藤先生と呼びなさい」
「……響子さんこそ、苗字で呼ぶなって俺言ってるよね?」
俺のその言葉に、響子さんは「はあ」と溜息を吐いて手で頭を押さえる。
「私は生徒のことは苗字で呼ぶ事にしている。そしてお前は私の生徒だ。……だから九条、お前だけ特別という訳にはいかんだろう」
「それなら俺も変えるつもりはない」
「……あの先生」
恐る恐る、姫百合が手を挙げる。それに「どうした」と響子さんが聞いた。
「不躾な質問なんですけど、二人はどういうご関係なんでしょう? あ、勿論、答えられる範囲で構いません……けど」
姫百合の目が右往左往している。そしてあの言い淀み方。恐らく姫百合は、何かとんでもない誤解をしてそうだ。
確かに、周りから見れば、俺と響子さんの会話は誤解を招くものだったかも知れない。
「お前、まさか……」
「…? なによ」
「いや、何でもない」
だから俺は、なんか面白そうだし、少し姫百合を揶揄ってやろうとしたが、その思考が安藤と同じように思えて、途中で辞めた。
「響子さん。話が終わったなら、帰るけど」
俺は床に置いていたカバンを背負い直し、教室を出ようと歩き出す。
「えっ、ちょっ、みな…、九条くん!」
響子さんの前だからか、姫百合は俺を苗字で呼び止めた。
俺は足を止める。
──警告のために。
「姫百合。俺の事は苗字で呼ぶな。前にも言ったはずだ。……いいな?」
そこまで告げると、俺は扉に手を掛け、開く。ガラガラッという音が教室に響いた。
「それと……、俺と響子さんは、ただ昔からの知り合いなだけだ。気にするほどのものじゃない。……それじゃ」
そう言って、俺は教室を後にし、誰もいない廊下を歩き、下駄箱へ向かう。外からは運動部の掛け声が、中からは吹奏楽部の演奏が聞こえる。
それらの音を背に、脳裏にはあの言葉が残っていた。
『申し訳ございません』
そして、頭を下げる姫百合の姿。それがどうも頭から離れてくれない。思わず、溜め息が漏れた。
「……後悔、はしてないんだが」
あの時、姫百合を一緒に寝るように誘ったことに後悔はない。サボるのが良いとは思っていないが、一度くらいはあってもいいと思っている。
だから、姫百合を昼寝に誘った。多少なりとも、俺以外にもサボりがいるという安心感もあったが。
だが姫百合は、その一度すら許容範囲外らしい。なら、なぜあんなにあっさり俺の提案を受け入れたのか。そこは少し引っかかるが、今はいい。
とりあえず、下履きに履き替えて校舎を出る。
そのまま校門まで歩き、俺は立ち止まる。
「……待つか」
気づけば、そう呟いていた。
このまま帰っても、あの光景が頭から離れそうにない。
校門の壁に背を預け、腕を組む。
どれくらい経っただろうか。
校門から姫百合が出てきた。俺はその背中に「待て」と声を掛ける。
「うわっ、ビックリしたー……。なんだ、湊か。驚かさないでよ。……ていうか、何でここにいるの?」
姫百合は俺の方に振り返った。
俺は素直に答える。
「謝ろうと思ってな。昼は悪かった。……お前があそこまで気にするとは思ってなかった」
「へっ? あぁ、いや、え? そんな事を言う為だけに待ってたの?」
姫百合は、怪訝そうに俺を見る。
……なんだその顔。
「言いたい事はそれだけだ。……じゃあな」
長居すると誰かに見られるかもしれない。それは避けたい。
そう思い、この場所から立ち去ろうと歩き出した。だが、そう上手くはいかなかった。
「待って」
姫百合に腕を引かれ、呼び止められる。いつかのように。だが、あの日とは違い、少し砕けた口調で、声は穏やかだった。
俺は腕を掴んだ姫百合の、夕日に照らされた顔を見る。
「ねぇ──」
ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置いて、
「……一緒にかえろ?」
突然の、提案。
俺は、何も言えずにその顔を見つめる。
姫百合のその瞳は、真っ直ぐ俺を見ていた。
……どういうつもりだ?
沈黙が、わずかに流れる。
そして──
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