第2話 「借りを作るのは嫌いなの」
「待ちなさい」
校門を出た瞬間、腕を引かれた。
振り返るまでもなく、声の主は分かっていた。
放課後。部活に向かう生徒たちがまばらに行き交う中、俺は小さく息をついて足を止める。
面倒は、さっさと片付けるに限る。
振り返ると、そこにいたのは一週間前、保健室まで運んだ“姫”──姫百合美咲がいた。
「なんだ」
ぶっきらぼうに言うと、姫百合はわずかに眉をひそめる。
「“なんだ”じゃないわよ。それが一週間も探し回っていた相手に向ける態度?」
「俺からすれば、一週間もかかったことに驚きだな。同級生一人探すのに、普通そんな時間かかるか?」
そう返すと、姫百合はじっと俺を見た。少しだけ唇を尖らせてから、無言でカバンに手を突っ込む。そして取り出したものを、いきなり俺の目の前に突き出した。
「そのセリフ、今の自分の顔を見てからもう一回言ってくれないかしら?」
「はあ?」
差し出されたのは手鏡だった。
「今のアナタ、自分がどんな顔してるか分かってる?」
「どうって言われてもな。健康そうな良い顔してるが」
「ち・が・う・わ・よ!!」
ぴしっと空気が張り詰める。けれど、そのあとほんの一瞬だけ、拗ねたように視線を逸らした。
「なに、わざと? わざと私をイラつかせてるの?」
「……何が言いたい」
姫百合は小さく息をついて手鏡を下ろし、今度は指を突きつけてくる。
「マスク! メガネ! あと、なんか雰囲気!」
「ああ……そういえば、あの時はつけてなかったか」
今の俺はマスクをして、伊達眼鏡までかけている。いわば簡易的な変装状態だ。だがあの日は、どちらも身につけていなかった。
「……それにしても、時間かかりすぎだろ」
思ったままを口にすると、
「そうね。ここまで苦労するとは思わなかったわ」
少し肩を落とすが、すぐに顔を上げて、
「でも、私は悪くないと思うの」
「はあ?」
「むしろアナタに責任があるんじゃない?」
思わず顔をしかめる。
「なんでだよ」
「何もかもがあの時と違うもの。学校でのアナタ、存在感なさすぎよ。声をかけるまで、半信半疑だったわ」
率直すぎる物言いに眉を顰める。あくまで存在感を抑えているだけだ。
しかし、言い方は相変わらずきついが、どこか──“やっと見つけた”みたいな響きも混じっていた。
「別に普通だっただろ」
「そうね。でも、だからこそ確信したのよ」
「……どういう理屈だよ」
「私に対して“普通"の反応をする男の子なんていないもの」
少しだけ肩をすくめる。
「……それ、自分で言うか?」
「事実だもの」
言い切ったあと、ほんのわずかに視線を逸らす。その仕草は、やけに飾り気がなかった。
学校で見かける姫百合は、大人しくて誰にでも優しい。
けれど、男子にはどこか距離があって、近寄りがたい空気がある。
だから“姫”なんて呼ばれてるんだろう。
だが、今目の前にいるこいつはどうだ。
思ったことはそのまま口に出すし、口調には棘がある。おそらくこっちが素なんだろうが、学校での姿とはまるで違う。
「……普段とは別人みたいだな」
思わず呟くと、姫百合はきょとんとしたあと、小さく息を吐いた。
「今さら取り繕っても仕方ないでしょう」
どこか肩の力が抜けた声だった。
「それとも、学校の“私”の方がいい?」
「いや、今さらだろ。むしろ“姫”に戻られると鳥肌立つわ」
「……次、“姫”って呼んだら潰すわよ。社会的に」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
この女の場合、冗談に聞こえないのが厄介だ。
「襲われそうになった」──そんな一言でも、周りは簡単に信じるだろう。
そうなれば、今の生活は終わる。
誰かに干渉されず、かといって不自由もないこの生活が、俺にとってはちょうどいい。
「やっぱり嫌なんだな」
「当たり前でしょう」
即答する。
だが続けて、
「なんか背中がぞわぞわするのよ。それに私、“姫”って柄じゃないし」
「それは同感だな」
頷いた瞬間、ギロリと睨まれた。いや、どっちだよ。否定しても怒るのか。面倒くさい奴だな。
「……話を戻すけど」
軽く息を整えてから、姫百合は言った。
「アナタを見つけるのに時間がかかったのはそういう理由よ。せめて名前くらい教えてくれていればよかったのに。どうして教えてくれなかったのよ、九条湊くん」
わざわざフルネームで呼んできた。知っているぞというアピールと、軽い嫌味だろう。
「必要ないと思ったからだ。今後関わるつもりもなかったし」
「ふーん……そう」
ほんのわずかに間が空いた。
「ねえ、九条くん」
「湊でいい。苗字で呼ばれるのは嫌いだ」
「じゃあ湊」
呼び直し、続ける。
「私は借りを作るのが嫌いなの。だから今から返させて」
そう言ってから、
「あ、あと」
思い出したように付け加える。
「私のことは姫百合ね。名前で呼ばないで。勝手に下の名前で呼んでくる男、前に結構いてさ。気持ち悪かったのよね」
「……は?」
何を勘違いしてるんだこいつは。
「誰がお前みたいなのを名前で呼ぶかよ。自意識過剰も大概にしろ」
吐き捨てると、姫百合はふっと笑った。
「……冗談よ。悪かったわね」
あっさり謝られて、逆に拍子抜けする。
「アナタには下心がないって分かったから。先週も、本当に偶然助けただけなんでしょ」
「……分かるのか」
「なんとなくね」
軽い言い方なのに、不思議と嘘っぽくはなかった。
「私のこと、下の名前で呼んでもいいし好きにしていいわよ。どうせ今日限りだし。それとも──」
一歩、距離を詰めてくる。ほんの少しだけ背伸びして、下から覗き込む。
「これからも、関わりたい?」
いたずらっぽい視線。他の男なら勘違いするだろう。
だが、俺は違う。
「お断りだ」
即答した。
一瞬だけ間があって──
「同感ね」
姫百合はくすっと笑い距離を取る。
「じゃあ、湊。借りを返させてもらうわ」
「その件だが、別に貸した覚えはないぞ」
実際に、あの時はただの自己満足で助けただけに過ぎない。しかし、それでは姫百合は納得しないようだ。
「アナタの気持ちは関係ないの。私が借りたと思った時点で借りなのよ」
「なんだ、そのクソみたいな理論は」
「誰がクソよ」
少しだけむっとした顔をしてから、
「とにかく借りは返すわ。何かしてほしいことは?」
「ない。強いて言うなら、今後俺に近づかないことだな」
「それは当然として、それ以外でってことよ」
少し考え込んでいると、姫百合が口を開いた。
「じゃあ、私から提案していい?」
頷くと、彼女は続ける。
「最近、駅前にクレープ屋ができたの。そこ行かない? 私の奢りで」
「……お前が食べたいだけだろ」
「別にいいじゃない」
ほんの少し楽しそうに笑う。
「文句ある?」
そして、
「言っておくけど、これはデートよ? 光栄に思いなさい。それとも他に案があるのかしら?」
この女、どこまで傲慢なんだ。
だが、悲しい事に他に望みもない。
「……別にない」
そう返すと、
「でしょ?」
満足げに頷いた。
「じゃあ決まり。これで貸し借りなしね」
「分かった」
「さ、行きましょう」
くるりと背を向けて歩き出す。
数歩進んだところで、
「あ、そうだ」
振り返る。
さっきまでとは違う、力の抜けた笑み。
「この前はありがとう」
それだけ言って、また前を向いた。
その背中を見ながら、
「……別に」
小さく返す。
だが、それもこれで終わりだ。
そう思った、そのとき。
「あと」
前を向いたまま、姫百合が続けた。
「今日限り……って言ったけど……もう一回くらいなら、付き合ってあげてもいいわよ」
「……は?」
「貸し借りは、これでなし。でも──」
ほんの少しだけ肩越しに振り返る。
「縁っていうか……ちょっとだけ、私のこと残るでしょ?」
言い逃げするように、そのまま歩いていく。
姫百合の言葉が、ほんの少し頭の片隅に残った気がした。
俺はその感覚を胸の奥にしまい込み、視線を前に戻す。
数歩先を歩く姫百合の背中が、視界の端に残る。
俺は、ひとつ小さく息を吐いた。
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