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第1話 「バカじゃねーの?」

「……バカじゃねーの?」


 午後六時半。人気の消えた校舎の階段で──


 俺は、学校一有名な“姫”を抱き締めている。


 遠目に見たことはあった。


 だが、こうして間近で顔を見るのは初めてだった。


 高校三年間、関わることも、関わろうと思うこともなかったはずの相手。


 それが──


 学校一有名な女、姫百合美咲。


 男どもからは『姫』なんて呼ばれているらしい。


「なっ……」


 大きな瞳が見開かれる。驚きに言葉を失っているのか、それとも思考が追いついていないのか。


 至近距離で見る彼女の顔は赤い。だがそれは、羞恥ではないだろう。


 俺は前髪をかき上げ、そっと額に手を当てた。


 ──熱い。


 念のため自分の額にも触れるが、比べるまでもない。明らかに彼女の方が体温は高かった。


「いいかげん……放しなさいっ」


 胸を押し返してくる。


 だが、力は弱い。拒絶しているというより、拒絶している“つもり”に見えた。


 俺は腕の力を緩め、彼女を解放する。


「いつから体調悪いんだ」

「……アナタには、関係ない……でしょ」


 息を荒げながら、壁に手をついて俯く。その姿だけで、無理をしているのは明らかだった。


「関係大アリだ。お前、階段から落ちそうになっただろ。それで俺が助ける羽目になったんだよ」

「私は、助けてなんて……言ってないわ。それより……」


 ふらつく頭を押さえながら、彼女は顔を上げる。


 強気な視線──だが、焦点がわずかに揺れている。


「アナタ誰よ」

「ひでぇな。一応同級生なんだが?」


 もっとも、無理もない。彼女は有名人で、俺はその逆だ。


 だが、そんなことより問題は──目の前のこいつの体調だ。


「で、いつからだ」

「……朝からよ」


 思わず、呆れが漏れる。


「朝って、来る前からか? なんで来たんだよ……」

「そこまで大したこと……なかったから……大丈夫だと思ったの」


 言葉の途中で、わずかに息が詰まる。


 それでも言い切るあたり、意地だけは強いらしい。


 浅はかだ、と切り捨てるのは簡単だ。だが──


 大丈夫だと思いたかったのかもしれない。


 どちらにせよ、迷惑な話だ。


「その結果がこれか? 立つのもやっとで、階段から落ちかけるって。せめて早退しろよ。……やっぱバカだな、お前」


 少し強い言い方になる。


 だが、彼女は食い下がる。


「……さっきから何なのよ。バカとかお前とか……どうして初対面のアナタにそんなこと言われないといけないの」


 息は荒いままなのに、言葉だけはしっかり返してくる。


 そのちぐはぐさが、余計に無理をしているように見えた。


 ──どうしてこんな面倒ごとに首を突っ込んだんだ。


 五分前の自分を殴りたい。


 体調の悪そうな女子が階段を降りてくるのは見えていた。それが『姫』だということも分かっていた。


 だが、本来ならそれだけだ。関わる理由などない。見て見ぬふりをして通り過ぎるはずだった。


 ──落ちそうになる、その瞬間を見るまでは。


 気づけば、体が動いていた。


 小さくため息をつく。


 ここまで関わってしまった以上、途中で放り出すわけにもいかない。


 俺は改めて彼女の様子を見る。


 赤い顔、荒い呼吸、額に滲む汗。


 どう見ても、自力で帰れる状態じゃない。


「姫百合、歩けるか?」

「……えぇ、けれど……どこへ?」

「保健室」


 そう告げると、彼女はわずかに眉をひそめた。


「……どうしてアナタと」

「じゃあ一人で帰れんのかよ」

「……帰れるわ」


 そう言った次の瞬間、体がわずかに揺れる。それでも、視線だけは逸らさない。


「強がるな。今にも倒れそうだろ。迎え呼ぶにしても、それまで保健室にいた方がマシだ」


 本当は、彼女だって分かっているはずだ。


 それでも。


「保健室には、一人で行く」


 意地を張る。


「……はぁ」


 思わず呆れる。


 これが、学校中の男どもを虜にしている『姫』の正体か。


 幻想もいいところだ。


「今二階だぞ。保健室は一階。さっき落ちかけたばっかだろ」

「……また落ちるとは限らないでしょ」


 声は弱いのに、言葉だけは引かない。


「説得力ゼロだ。ほら、行くぞ」


 言い争っている時間はない。半ば強引に肩を貸す。


「ちょ、ちょっと……」

「なんだ、お姫様抱っこがいいのか? 『姫』だけに」

「……もう好きにして」


 諦めたように呟く。


 同時に、わずかに体重を預けてきた。


 力が入らないのだろう。


 俺はそのまま、ゆっくりと階段を下りる。


 呼吸は荒いまま。時折、わずかに体が揺れた。


 ──やはり無理してたな。


「ほら、階段は終わりだ。あと少しだ」


 問題は、保健室が開いているかどうかだが──


 数分後、辿り着いた先には明かりがついていた。


「……杞憂だったな」


 軽くノックする。


「どうぞー」


 返事を確認してから、肩を離した。


「ほら、行けるか」


 彼女は一瞬だけこちらを見る。


 強気な表情はそのままだが、その奥にわずかな疲労が滲んでいた。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 けれど、ほんの少しだけ力の抜けた声だった。


 それまでとは違う、わずかに温度の落ちた声音。


 俺は何も言わず、一歩下がる。


 彼女が保健室に入るのを見届け、そのまま背を向けた。


 ──これで終わりだ。


 後は教師に任せればいい。俺の役目はここまで。


 別に関わりたいわけじゃない。ただの気まぐれだ。


 これでまた、いつも通りの学校生活に戻る──


 そう思っていた。


 ──本当に、それで終わるはずだった。


「待ちなさい」


 その声を背中で聞くのは、


 一週間後のことだった。

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