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第10話 「……ちゃんと食べてる?」

「──え?」


 姫百合の目が、はっきりと見開かれた。


「俺が二歳の時、母は死んだ。このピアスは、その時にもらったものだ」


 言葉が落ちる。


 姫百合は何も言わない。


 ただ、俺を見ていた。


 さっきまでの軽さは、もう残っていなかった。


 少しだけ間を置いて、俺は続ける。


「事故でも、自殺でもない」


 一度、言葉を切る。


「……でも──母は、自分で死を選んだ」

「……どういうこと?」


 姫百合の声が、わずかに掠れる。


 俺は視線を外さずに答える。


「俺には妹がいる。二つ下だ」


 姫百合の表情が、固まる。


「……あいつの誕生日は、母の命日だ」

「それって……」


 姫百合が口元を押さえる。


 何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「医者に言われたらしい。このまま産めば、かなりの確率で母体がもたないって」


 俺は、視線を落とす。


「それでも──産んだ」


 姫百合は、すぐには何も言わなかった。


 ただ、視線を逸らさずに、俺を見ている。


 さっきまでみたいに強い目じゃない。


 けれど、同情でもなかった。


 しばらくして、姫百合が小さく息を吐く。


「……そう」


 それだけだった。


 それ以上、踏み込んでこない。


 軽い言葉も、気遣うような言葉もない。


 ただ、そこにいた。


 ──その距離が、妙に心地よかった。


 人の流れる音だけが、やけに遠くに聞こえる。


 やがて、姫百合がふっと肩の力を抜いた。


「……重い話、するわね」


 いつもの調子に戻った声だった。


「悪いかよ」

「別に。聞くって言ったのは私だし」


 そう言って、姫百合は軽く息を吐く。


「……でも、まあ」


 一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いて、


「……ありがと」

「は?」

「話してくれてって意味よ。言わせんな、バカ」


 わざとらしく顔を逸らす。


「……で?」


 姫百合が、当然のように言う。


「この後についてだけど」


 さっきまでの空気が、徐々に戻っていく。


「……決めてんのか」

「とりあえずはね」


 あっさり返して、


「ご飯。お腹空いてるでしょ」


 迷いのない一言だった。


 それから、くるりと前を向く。


 そのまま歩き出す姫百合の隣に、並ぶ。


 しばらく、人の流れに紛れて歩く。


 さっきまでと同じ駅前のはずなのに、少し見え方が違った。


 隣を歩く姫百合が、やけに近く感じる。


 気付けば、俺の歩幅に合わせてきていた。


 触れそうで、触れない距離。


「何か食いたいもんあんのか?」

「特にない。アンタに任せる」

「丸投げかよ」

「いいでしょ、別に」


 いつも通りのやり取り。


 それでも、どこか空気が違っていた。


 しばらく無言で歩いて、適当に店を見つける。


「ここでいいか」

「……まあ、いいんじゃない」


 特に否定もせず、姫百合は頷いた。


 店に入ると、少しだけ騒がしい空気に包まれる。


 席に案内されて、向かいに座る。


 メニューを開きながら、ふと顔を上げると、姫百合と目が合った。


 一瞬だけ、視線が重なる。


 すぐに逸らされた。


「……なによ」

「いや、別に」


 なんでもない会話。


 俺も視線を落とす。


「で、決めたの?」

「まだ見てるとこだろ」


 メニュー越しに軽く言い返す。


 姫百合は「はぁ」と小さくため息を吐きながら、自分のメニューを指でなぞる。


「じゃあ、私これ」

「早いな」

「悩むの面倒なのよ」


 即答だった。


 俺も適当に決めて、店員を呼ぶ。


 注文を済ませると、ふっと会話が途切れた。


 気まずいわけでも、重いわけでもない。


 ただ、少しだけ静かな時間。


 水の入ったグラスに口をつける。


 向かいでは、姫百合が頬杖をついて外を眺めていた。


 その横顔を、何となく見てしまう。


「……なによ」


 気付かれていたらしい。


「別に」

「嘘よ。なんか言いたそうな顔してる」

「してねぇよ」


 即答すると、姫百合はじっと俺を見る。


 探るような視線。


 だが、それ以上は踏み込んでこない。


「……ま、いいけど」


 あっさり引いた。


 それから少しして、


「さっきの話」


 姫百合が、ふと口を開く。


「あ?」

「お母さんの話……他の人に話したことあるの?」

「いや、お前だけだ。……俺から話したのは」

「どうして?」

「さっき言っただろ。お前になら話してもいいって」


 言いかけて、少し間が空く。


「……理由は、よく分かんねーけどな」

「そう……」


 姫百合はそのまま、ストローをいじりながらぽつりと呟く。


「アンタさ」

「なんだよ?」

「……ちゃんと食べてる?」


 予想外の言葉だった。


「……は?」

「だから、ご飯。ちゃんと食べてんのって聞いてんの」


 少しだけ目を逸らしながら言う。


 声音はいつも通りなのに、どこか普段とは違う。


「別に、普通だろ」

「ふーん」


 興味なさそうに返す。


 そのまましばらく無言でいると、


「……ならいいけど」


 そう小さく付け足した。


 その後、すぐに料理が運ばれてきた。


 湯気の立つ皿がテーブルに並ぶ。


「いただきます」

「いただきます」


 俺はフォークを取る。


 しばらくは、特に会話もない。


 ただ、食べる音だけが静かに続く。


 ふと視線を上げると、姫百合がこちらを見ていた。


 すぐに逸らされる。


「……なによ」

「だから、別に」


 同じやり取り。


 なのに、さっきより少しだけ柔らかい。


 理由は分からない。


 でも、悪くはない。


 そのまま黙々と食べていると、


「……で?」


 姫百合が、唐突に口を開いた。


「あ?」

「味、どうなのよ」


 自分の料理をフォークで指しながら言う。


「普通」

「雑すぎでしょ」


 即座にツッコまれる。


「じゃあお前のは」

「美味しいわよ。アンタのよりはね」

「なんでお前が決めてんだよ」

「事実でしょ」


 さらっと言い切る。


 そのまま、俺の皿をちらっと見て、


「……一口、交換する?」

「は?」


 当然みたいにフォークを差し出してくる。


 仕方なく皿を寄せると、何の躊躇もなく一口食べた。


「……まあまあね」

「何様だよ」


 呆れながら、俺も姫百合の皿に手を伸ばす。


「ちょっと、勝手に食べないでよ」

「お前が言い出したんだろ」


 一口食べる。


「……普通」

「は?」


 睨まれる。


 さっきと同じやり取り。


 そして、さっきより少しだけ近い。


「……でも」


 姫百合が、ぽつりと呟く。


「ちゃんと食べてるなら、それでいいわ」


 それだけ言って、姫百合は視線を逸らした。


 何でもない言葉のはずなのに、


 なぜか、頭に残る。


 ──理由は分からなかった。

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