【第三話】涙のデートは“優しさ”に戸惑いますわ
美術館を後にし、カフェへ向かう途中のことだった。
レオニス様の横顔を盗み見るたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
どこまでもスマートで、紳士的で、誠実で──本当に素敵なお方。
だからこそ、わたくしは思う。
(この人を、絶対に好きになってはいけないわ)
彼にも、わたくしにも恋人がいる。
この想いは、誰の心も裏切るもの。
そう自分に言い聞かせながら歩いていた、そのとき──
「あれは……?」
ブティックが立ち並ぶ大通りの先に、見慣れた背中が目に入った。
癖のある赤髪。どこか気取った立ち姿。
見間違えるわけがない。
(……アラン!?)
思わず、足が止まった。
その隣にいたのは──
「ねえ、アラン。こっち〜」
見知らぬ女性だった。
華やかで美しいその女性が、当然のようにアランの腕に手を添え、甘えるように体を寄せている。
アランもまた、親しげに微笑み返していた。
(……まさか)
嫌な予感が背中を這い上がる。
次の瞬間、ふたりの会話が耳に飛び込んできた。
「……だーから言っただろ? もう少しで落とせるって。ちょろいんだよ、箱入りの侯爵令嬢様はさ。男に免疫ないから、ちょっと助けたフリするだけで勝手に舞い上がってくれる」
その声は、間違いなくアランのものだった。
「すっご〜い。本当に結婚できたら、わたしたち勝ち組じゃない?」
「だな。結婚しちまえば、お前は“メイド”ってことにして住まわせてやるさ。あのお花畑女にバレるわけねぇしな?」
「やだ、ほんっと最低……でも、大好き」
ふたりは、声を潜めて笑い合った。
──世界が、音もなく崩れ落ちた。
(……そういうことだったのね)
それは、冷たい春の雨が降る日のことだった。
学園の門を出た瞬間、突然、路地からフードを被った男がわたくしに掴みかかってきた。
「きゃっ──!」
心臓が凍りつくような恐怖。声も出せず、体がすくんだそのとき──
「離れろッ!」
鋭い声とともに現れたのは、アランだった。
木の棒で暴漢を追い払ってくれ、間一髪のところでわたくしを抱き寄せてくれた。
「大丈夫? もう大丈夫だから……」
震えるわたくしの肩を優しく抱き、雨に濡れながら微笑む姿は、まるで絵本の中の白馬の王子さまのようだった。
(──助けられた。しかもこんなにも、勇敢で優しくて……)
抗えるはずがなかった。
わたくしは、その瞬間に心を奪われていた。
その後、暴漢については「すぐに逃げてしまった」とアランは説明した。
今思えば、不自然な点は多々あった。
けれど、当時のわたくしは、王子さまのように現れたアランをただ信じたかった。疑うという発想すらなかった。
「困ってる人を助けるのに、見返りなんていらないよ」
そう優しく微笑んだ横顔に、わたくしは全てを委ねてしまった。
愚かで、哀れなほどに──恋に落ちた、あの日。
雨の中で差し伸べられた手は、偶然ではなかった。
仕組まれた、計算された“演出”。
『偶然助けられた令嬢が、恩人に恋をする』──使い古された、でも効果的な罠。
「レティシア嬢?」
レオニス様の声が、遠くから聞こえる。
「……ごめんなさい」
わたくしは一礼し、その場を逃げるように早足で立ち去ろうとした。
あの場所には、いたくなかった。
見られたくなかった。
けれど、涙に滲んで視界がぼやけ、足元さえおぼつかない。
歩くたびに、頬を涙が伝っていく。
──どれほど、盲目に信じていたのだろう。
──どれだけ、あの人を思っていたのだろう。
いいえ、本当は気づいていたのだ。
いつも約束に遅れ、会えば話をそらし、自分のことばかり話すアラン。
話の中心は、いつもお金の話だった。
おかしいと感じていた。それでも、好きだからと目を逸らしていた。
一方で、レオニス様は──
常に約束より早く現れ、わたくしの話に耳を傾けてくれた。
些細な会話も覚えていて、わたくしを笑顔にしようと心を尽くしてくれていた。
比べるまでもなかった。アランがわたくしを愛していないことは、明らかだった。
「……簡単に騙されて……愚かですわね」
そう小さく呟いたとき、肩にふわりと何かが掛けられた。
あたたかなマント。その重みに、わたくしの肩が少しだけほぐれる。
「……泣かないでください」
顔を上げると、レオニス様が静かに立っていた。
その眼差しは、どこまでも優しく、どこか切なげで──
わたくしの痛みに、そっと寄り添ってくださるようだった。
「あの男の不誠実に、あなたの心が傷つくのを、黙って見ているだけなんて、私にはできません」
どこまでも真っ直ぐな声音。
優しい手が、わたくしの頬に触れ、涙を拭ってくださる。
その指先のぬくもりに、胸がきゅっとなった。
(どうして……こんなにも優しくしてくださるの)
戸惑いと、ほんの少しの希望とが、胸の奥で揺れている。
──でも、信じてもいいの?
そう問いかけたくなる自分がいる。
この人には、恋人がいるという噂があるのに。
また裏切られたら。
「……あなたが傷つけられる姿を見るのが、こんなにも辛いとは思いませんでした」
その言葉が、まっすぐ心に届いた。
レオニス様の優しさに、わたくしの気持ちは少しずつ溶かされていく。
信じたい。だけど、信じるのが怖い。
「──私にできることがあれば、言ってください。あなたの心が癒されるなら、どんなことでもしてみせます」
わたくしはもう、言葉を返せなかった。
気がつけば、レオニス様の胸に顔を伏せていた。
抱き寄せられた腕の中で、何も言わずに、ただ涙を流し続ける。
「私があなたを守ります」
その声は、あたたかくて、穏やかで──
だけど、どこか遠く感じてしまう。
(……こんなふうに抱きしめてくださるのに)
それでも、あの噂が胸の隅に引っかかったままだった。
この優しさの裏に、恋人の存在があるのなら──
今、わたくしが頼っているこのぬくもりは、誰かを悲しませるものかもしれない。
だからこそ、心の奥がざわつく。
それでも、いまはこの胸の中で泣いていたい。
レオニス様のぬくもりだけを、感じていたかった。
その優しい言葉が心に沁みるほど、戸惑いが募る。
(こんなに優しくされて、心が揺れてしまうなんて……)
アランに裏切られていた悲しみで心は占められている。
すぐに誰かを信じられるほど、わたくしの心は強くない。
なのに今、レオニス様の腕の中で泣いている自分がいる。
(……これが、弱さなのか。慰めを求めているだけなのか……)
それとも──
この方の優しさが、本当に心を動かしているのか。
……この想いは、ただの感謝か、それとも──
わたくしにはまだ、答えが出せなかった。
あれから、数日が経った。
わたくしは自室にこもり、自分の愚かさを噛みしめていた。
考えるのはアランのこと──そして、それ以上に胸を占めて離れなかったのは、レオニス様のことだった。
思い返すたびに痛みが走る。
けれど、それと同じくらい、ほんの少しの安堵もあった。
あの場で真実に気づけてよかった。ようやくそう思えるようになったのだ。
「……お父様」
父の書斎に呼ばれたわたくしは、静かに頭を下げた。
「アランとの結婚を止めてくださって、ありがとうございました。……わたくし、ようやく分かりました。あの方は……本当に最低な人でした」
父はしばらく黙ったままわたくしを見つめ、やがて頷いた。
「それが分かったならいい。あの男には私から釘を刺しておく。……レティシア、私はお前の幸せを心から願っている」
わたくしは愚かだった。
父を誤解していた。
こんなにも愛されていたのに。
「今はまだ難しいかもしれないが、気持ちを切り替えて、ディルアークとの縁談を前向きに考えてみなさい。見込みのある若者だ。彼のように誠実な者なら、安心して任せられる」
「……そうだといいのですが」
苦笑しながらため息をつき、胸に浮かぶ想いを整理するように呟いた。
「でも、これからは……もう誤魔化さずに、ちゃんと見ようと思います。相手のことも、自分の気持ちも」
「そうしなさい」
父の表情は、どこか誇らしげで──ほんの少し、寂しそうだった。
部屋へ戻ると、クラリスに「今日は一人にして」と頼み、ベッドに体を沈めた。
白い天蓋の内側を見上げながら、柔らかなマットレスに身を預ける。
ドレスのまま横になるのは行儀が悪いけれど、今日だけは構わない気がした。
考えるのは、レオニス様のこと。
あの人は、優しくて穏やかで、わたくしを一人の人間として対等に見てくれる。
身分を誇ることも、無理に距離を置くこともない。
あんなに完璧な紳士は、滅多にいない──そう思う。
もし結婚すれば、公爵夫人として格式ある生活が待っているのだろう。
レオニス様は変わらず礼儀正しく、敬意をもってわたくしに接してくださるはず。
穏やかで、約束された未来。
──それなのに、なぜだろう。
胸の奥が、かすかにざわついて仕方がなかった。
理由は、分かっている。
あの噂。
エリス・ダルトン男爵令嬢の存在。
──続く。




