【第四話】新しい恋に"過去"は付き物ですわ
社交界には、こんな噂が囁かれていた。
――レオニス・ディルアーク公爵令息と、エリス・ダルトン男爵令嬢は恋仲らしい、と。
わたくしにとって、その噂は心の棘となっていた。
昔から、ふたりの噂は絶えなかった。
学生時代から親しく、卒業後もたびたび夜会で顔を合わせている――と。
実際、わたくしもその光景を目にしたことがある。
春の夜会。ひときわ美しいブルーグレーのドレスに身を包んだエリスと、黒の礼服を纏ったレオニス様が、並んで入場してきた場面を。
誰がどう見ても、お似合いだった。立ち居振る舞いに身分差の違和感はなく、会話の間合いもまるで長年連れ添った夫婦のように自然。
あのときのざわめき――『やっぱり、ふたりは付き合っているのね』という空気を、わたくしも確かに感じていた。
エリスとは、学園時代の友人だった。
聡明で気さくで、けれど自分のことを多くは語らないひと。
一度だけ、「ディルアーク公爵令息様と、お付き合いされているの?」と尋ねたことがある。
そのとき彼女はふふっと笑い、「さあ、どうかしら」と首を傾げただけだった。
否定もしない、肯定もしない。
その曖昧な答えに、わたくしは――きっとそうなのだと、ずっと思っていた。
だから。
今日、あの方の優しさに触れたとき、胸がぎゅっと締めつけられたのだ。
(……ただの慰めだったのかしら)
哀れに思われただけかもしれない――そう思った瞬間、胸の奥がひりつくように痛んだ。
けれど。それでも、あの方の腕の中は、とても温かかった。
どうしてこんなにも、気にしてしまうのか分からない。
きっと、わたくしは――自分が「恋」をしていると、認めたくなかった。
だって、それはあまりにも残酷だ。
あの方には、すでに心を許す相手がいるかもしれないのに。
わたくしは、ようやくひとつの恋を終えたばかりなのに。
まだ、心のどこかに傷跡が残っているのに。
(いけませんわ……こんな、弱い気持ちで)
胸元に手をあて、目を閉じる。
浮かんだのは、あのときの指先―― 冷えきった頬に触れた、優しくて、温かなぬくもりだった。
わたくしの弱さに寄り添い、涙を受け止めてくださった、あの眼差し。
ほんの一瞬、信じてもいいのかもしれない、と思ってしまった。
(……わたくしのことを、本当に大切に想ってくださっているのではないか、と)
そう思いたかった。
でも、もしそれがただの慰めだったのなら――?
また、わたくしがひとりで浮かれて、傷つくだけだったら。
また誰かの打算の優しさを勘違いして、心を預けてしまったとしたら――
目の奥が、じんわりと熱くなる。
けれど。
「……それでも」
唇から、こぼれるように零れた声。
それでも、あのときのぬくもりだけは、きっと嘘ではなかった。
あの腕の中で、わたくしは確かに、安心して泣けた。
誰の目も気にせず、飾らず、ただ心のままに。
あの瞬間に芽吹いた感情。それは、淡くて、切なくて――
けれど、確かに「恋」だと思った。
だから。
(もう一度だけ……信じてみても)
今度こそ、自分の意思で歩いていけるように。
誰の言葉にも、流されずに。
自分で未来を、選べるように。
レオニス様と、向き合ってみよう。
噂ではなく、この胸に残ったぬくもりを――信じてみたいから。
*
それから、しばらくして――。
わたくしは、社交界の集まりにそっと顔を出すようになっていた。
家でひとり悶々としていても仕方がない。
それに、父が「ディルアークとの関係は順調か?」と、やけに探りを入れてくるのも居心地が悪かった。
そして今宵も、夜会の会場にて――。
「レティシア、久しぶり! こっちよ、来て!」
明るく手を振ってくれたのは、エリスだった。
変わらない笑顔がまぶしい。
レオニス様と向き合って気持ちを伝える前に、エリスと会ってきちんと筋を通したい――そう思っていた。
けれど、
(……駄目。やっぱり、顔を合わせられない)
視線を逸らしてしまった。
胸の奥に罪悪感が絡みつく。
エリスの存在。
それこそが、わたくしが自分の恋心を否定してきた理由。
アランの存在もあったけれど、友である彼女を裏切ることになるのではという恐れが、わたくしを縛っていた。
足が前に進まない。
エリスに近づくことも、背を向けて逃げることもできず、ただその場に立ち尽くしていると――
「……ねえ、レティシア?」
気づけば、エリスが歩み寄ってきていた。軽やかに揺れる栗色の髪、困ったように眉を下げた顔。
「なんか、よそよそしくない? どうしたの、わたし、なにかした?」
「い、いえ……っ」
咄嗟に否定したものの、胸の奥に秘めていたものが堰を切ったように込み上げてくる。
「……エリス。少し、お話しできるかしら?」
「うん、いいわよ?」
わたくしたちは人目を避け、廊下の片隅へと移動した。
静けさの中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いている。
「わたくし……あなたに謝らなければならないことがありますの」
そう告げた声は、かすかに震えていた。
「……わたくし、レオニス様に心を寄せています。でも、あなたと彼の関係を思えば、それは許されないことだと……」
そこで言葉が途切れた瞬間、エリスがぽかんと目を見開き、そして――吹き出した。
「なにそれ、本気で言ってるの?」
「え……?」
「レティシア、あなたったら、まさかあの噂を信じたままなの? あの夜会でレオニス兄様とわたしが一緒だったときのこと、まだ誤解してる?」
笑いながら、彼女は軽く肩をすくめる。
「レオニス兄様とわたし、親戚なの。母方の叔母が公爵家に嫁いでてね。
婚約者もいないし、夜会でエスコートしてもらうことはあるけど――それだけ。ただの社交よ」
「……親戚……?」
「そう。これ人に話すの恥ずかしいんだけど、うちの家系に生まれた女はみんな恋愛気質でね。
恋愛小説の主人公みたいに、身分を超えた恋に落ちちゃう人ばかりなの。
そのせいで親戚は嘘みたいに豪華な王侯貴族揃いなのよ」
ウインクしながら笑うエリスに、思わず言葉を失う。
だから、あのとき彼女は曖昧に笑って答えを濁したのか。
身分差ゆえの格差婚――それを恥じていたから?
「レオニス兄様なんて、昔から"礼儀正しすぎるお兄さん"よ? 堅物すぎて、恋愛なんて興味ないと思ってたくらい」
その瞬間、わたくしの中に長く居座っていたもやが、すっと晴れた。
温かい風が胸の奥を吹き抜けるようだった。
(じゃあ……わたくし、レオニス様を好きになっても、いいの?)
そうだったのね。では、あの優しさは、ただの社交辞令ではなかった?
彼が向けてくださったまなざしは、本当に、わたくしだけに――?
そして、気づいた。わたくしは、信じたかったのだ。
彼のことも、エリスのことも。そして、自分の気持ちも。
けれど、それが怖くて、疑うことで心を守っていた。
「……エリス、誤解して、ごめんなさい」
「謝らなくていいのに。
でも、レティシアが真剣に考えてくれたの、ちゃんと伝わってきたわ。
話してくれたのは、わたしのことを思いやってくれたからでしょ?
もし、ここで私が兄様と恋仲だったなら、あなたは身を引くつもりだったんじゃない? ありがとう」
エリスはにこっと笑って、そっとわたくしの手を取る。
「さあ、戻りましょ。そろそろ彼、痺れを切らしてるんじゃない? あなたのこと探してると思うわよ?」
「え……?」
「気づいてないの? レオニス兄様、ここ数日ずっとあなたのことばかり気にしてたのよ。
本人は絶対認めないだろうけど。堅物だもの」
くすくすと笑うエリスが、まるで女神のように見えた。
*
会場に戻ってみたものの、レオニス様の姿はなかった。
わたくしは彼に想いを伝えたくて、彼を探すことにした。
エリスと別れ、人混みを抜けて、静かな庭園へと歩を進める――
そのとき、遠くでレオニス様の声が聞こえた気がした。
「レティシア嬢のことを……」
会話の途中だったのだろう。その声は、まるで風にさらわれるように消えていった。
誰と話していたのだろう? わたくしのことを?
胸の高鳴りを抑えきれず、その声のした方向へ歩みを進めようとした、そのとき。
「……レティシアじゃないか」
背後から響いたその声に、胸の奥がざわめいた。
聞き違えるはずのない、耳に焼きついたあの声――
振り返らずともわかる。
この声を、わたくしの心は、まだ忘れてなどいなかった。
元恋人――アラン。
レオニス様を探していた矢先に、なぜ彼が……?
振り返れば、以前よりも痩せた顔で、しかし相変わらずの気取った姿で彼は立っていた。
こうして、向き合うことを避けていた。
あの日、騙されていたことが分かったとき、彼とのお別れは決めていた。
その後はお父様におまかせして、わたくしは彼と会うことすらしなかった。
その罰だろうか。
過去が、再びわたくしの前に立ちはだかる。
──続く。




