第八話:人の形をした魔獣、あるいは適合の果て
その日、ネロがいつものように魔獣災害対策院(A.D.R.I.)で座学の講義を受けていると、手元の端末が震えた。
『講義終了後、直ちに第三訓練室へ。遅れることは許さない』
送り主はフィオーネだ。
「やれやれ、またか……。今日は一体どんな地獄が待ってるんだか」
ネロが溜息交じりにこぼすと、足元で待機していた鈍色の多脚機・モーディが、モノアイをクルリと回して駆動音を鳴らした。
『マスター、マスター! そんなに嫌そうな顔をしたらダメですよぉ! フィオーネ様は、マスターのために最高のカリキュラムを組んでくれているんですからっ! さあ、レッツ・ゴーです!』
「……へいへい、わかったよ。行くぞ、モーディ」
ネロは軽く肩を回し、慣れた足取りで地下の訓練室へと向かった。
重厚な気密扉が開くと、そこには既にフィオーネが立っていた。
無駄のないしなやかなシルエットを描く黒い訓練着姿の彼女の足元には、微弱なマナの駆動音を漏らす、鈍い銀光を放つ無機質な金属塊――ずっしりと重厚な「足枷」が置かれている。
「……なに、それ。嫌な予感しかしないんだけど」
『マスター、不吉な予測を検知しましたぁ。あの枷、ただの重りじゃありませんね……最新の魔導慣性制御が組み込まれた、超高密度の負荷装置ですよぉ!』
ネロの困惑を無視するように、フィオーネは真顔で言い放った。
「お前の日々成長する身体能力を効率よく伸ばすには、どうしたらいいか。……私なりに考え、技術局のレインに特注した結果だ」
「『結果だ』じゃないよ! 何をどう考えたら、義弟に足枷を嵌めようなんて結論になるの!? 俺は猛獣か何かかよ!?」
詰め寄るネロに対し、フィオーネは表情一つ変えず、ネロをじっと見つめ返した。
その冷徹な瞳の奥には、逃げ場のないほどの真剣さが宿っていた。
「……嫌か? お前のことを、私が真剣に考えて用意したものなんだが」
「……っ、それ、俺が断れないって分かってて言ってるだろ……!」
「私はお前のことを真剣に思っている。それが、不器用な形であったとしても……受け止めてほしい」
普段の張り詰めた空気を微かに崩し、切実な響きを含んだその声に、ネロはそれ以上反論できなかった。
「……わかったよ。やればいいんだろ、やれば」
「わかればよろしい」
フィオーネは満足げに頷くと、自らネロの足元に跪き、手際よく枷を装着した。
足首にロックがかかった瞬間、魔導回路が起動し、見えない泥に足を突っ込んだかのような重圧がネロを襲う。
ネロはその様子を半ば諦め顔で眺め、背後にいる多脚機を睨みつけた。
「……モーディ。お前だろ、フィオーネに変な知恵を吹き込んだのは」
『え、えへへぇ……バレちゃいました? フィオーネ様に「マスターのモチベーションを上げるには情緒的な訴えが効果的ですよっ」ってアドバイスしちゃいました! 謝礼の高純度魔核オイルがあまりにも美味しそうだったので、つい!』
「オイルに売られたか、俺……」
ぐったりと呆れながらも、ネロは足首に食い込む異様な重さを踏み締めた。
「よし、準備はできたな。では、訓練室の端から端まで、往復五回の全力ダッシュだ」
「五回も!? これ、片足で十キロ以上あるだろ!」
「いいからやれ。……始め!」
フィオーネの号令が飛ぶ。
ネロは床を蹴り、爆発的な勢いで走り出した。
枷が発する魔導負荷が、筋肉を内側から引き裂くような圧力をかける。
だが、ネロの肉体はその過酷な負荷を強引にねじ伏せ、速度を落とすことなく走り続けた。
ドンッ! と踏み込むたびに、強固な訓練室の床材が悲鳴を上げて軋む。
『マスター、頑張ってぇ! 今のタイム、新人の最高記録を三秒も更新してますよぉ! いけいけーっ!』
モーディの呑気な応援を背に、ネロは歯を食いしばり、訓練室を駆け抜けた。
五往復を終えたネロが膝をつくと、手元のストップウォッチを確認していたフィオーネの眉が、驚愕に跳ね上がった。
「……あの枷を嵌めて、このタイムを出すとはな……」
「……はぁ、はぁ……。どう、だよ……。……文句、ないだろ……」
『マスター、心拍数と呼吸の回復速度が異常ですぅ! もはや魔獣並みのリカバリー能力ですよ、これは!』
フィオーネは驚きを押し殺し、再び冷徹な表情を作り直して告げた。
「モーディ、あまりネロを甘やかすな。……では、二セット目だ。準備しろ」
「ま、またやるのかよ!?」
それから一時間後。
訓練室の床には、全身から汗を吹き出し、大の字になって倒れ伏すネロの姿があった。
「はぁ、はぁ……。もう、指一本動かない……」
「……ふむ。足腰はそろそろ限界か。よくやった、足枷を外してやれ、モーディ」
『はーい、了解ですっ!』
モーディが手際よくロックを解除し、ネロの足首がようやく解放される。
だが、フィオーネの辞書に休息の文字はなかった。
「では、五分後に上半身のトレーニングを開始する」
「……マジかよ……」
「実戦において、敵は五分など待ってはくれない。……息を整えろ。次は腕立てだ」
「……ちなみに、何回やるんだよ」
「お前の場合は回数指定ではない。時間だ。まずは十五分、止まらずに続けろ」
「………………」
ネロは絶望に顔を伏せかけたが、容赦のない義姉の視線に急かされるように、震える腕で床を突き、身体を押し上げた。
三時間に及ぶ特訓が終わる頃、ネロは疲労のあまり完全に意識が朦朧としていた。
「お前たちは先に帰っていろ。私は残った雑務を片付けてから戻る。モーディ、ネロを担いで家に連れ帰れ。途中で落とすなよ」
『了解しましたぁ! 僕のパワーアームなら、マスターを安全にお届けできますからねっ!』
五十センチほどのロボットの側面からガシャガシャと複数の作業用アームが展開され、ネロの身体を器用に持ち上げる。
二人を見送ったフィオーネは、静まり返った訓練室で、ネロの汗が散った床を静かに見つめた。
それから、彼女は一度も振り返ることなく、中央塔の最上階へと向かった。
†
夜闇に青き魔導伝導路の光が浮かび上がる聖都のパノラマ。
その夜景を背にした巨大なマホガニーの執務机の奥で、ガロ・ヴァレンティが静かに鎮座していた。
総監室のデスクに、フィオーネがネロの最新の育成データを差し出す。
ガロはそれを手に取り、表示されたグラフや数値を追うごとに、その厳格な表情を険しくさせていった。
「……たった数週間でこれか。……脅威的という言葉すら生温いな」
「はい。体力、筋力は既に常人の域を逸脱しています。動体視力と反射神経においては、もはや上位の魔獣すら上回るかと……。例えるなら、『人の形を保った上位魔獣』そのものです」
「あの村の事件……。生き残った少年が、これほどの変貌を遂げるとはな」
「……おそらく、あの村は何らかの組織による『人体実験場』として使われました。ネロは、奇跡的にその実験に適合し、生き延びてしまった……成功例なのでしょう」
ガロは重苦しい沈黙を挟み、濃紺のロングコートの袖を僅かに鳴らして、フィオーネの目を真っ直ぐに見据えた。
「わかった。引き続き、監視と教育を頼む。……だが、フィオーネ。もしも彼が変異を起こした際は、わかっているな?」
その言葉に、フィオーネの瞳が僅かに揺れた。
ネロが理性を失い、獣へと墜ちた時。
都市の暗部を担う特務局の一員として、彼を即座に処分できるかという問いだ。
彼女は迷うことなく、深く頷いた。
「……承知しております。その時は……家族である私が、責任を持ってネロを殺します」
「……ネロが、家族か」
その言葉の響きに、ガロは意外そうに目を細めた。
「……何か、変なことを申しましたでしょうか? 現に、彼は私の義理の……」
「いや。……少し、嬉しくなっただけだ。孤児だったお前を対策局で引き取り、育ててきたが……かつてのお前は、他者に対して大した執着を見せなかった。そのお前が、今や一人の少年を家族として見ている。……フィオーネ。お前の成長が少し嬉しかった……ただそれだけだ」
「……ありがとうございます、閣下」
かつて他人に無関心だった彼女の胸に芽生えた、強固で不器用な情愛。
フィオーネは深々とお辞儀をし、静かに総監室を後にした。




