エピローグ1:シチューの香りと、甘いお出迎え
聖都ルメンティアを揺るがした『沈黙の灰』事変から、三ヶ月の月日が流れていた。
アウレリア魔獣災害対策院の中央塔。
柔らかな西日が差し込む情報分析課のフロアには、かつてと変わらない平和なタイピング音が静かに響き渡っている。
「アロンゾ主席。ルカ管理官からの書類、確認が終わりました。特に問題ないと思われます」
机の上に綺麗に揃えられた書類の束を置き、ネロはスッと背筋を伸ばした。
事変での大きな功績により、彼は今やアロンゾの直属の補佐官にまで昇進を果たしている。かつての上司であったルカも、今はネロたちとは別の新しい部下を持ち、相変わらずの完璧な笑顔を貼り付けながら、表と裏の仕事をそつなくやり過ごしているらしい。
「ご苦労様です」
アロンゾは神経質そうに眼鏡のブリッジを指で押し上げ、書類に目を通した。
「……そういえば、ネロくん。次の休みから二週間の長期休暇でしたっけ?」
「はい。フィオーネと一緒に、辺境の観光地とか、お祭りでも見に行こうかって話になってまして」
ネロが人当たりの良い笑みを浮かべると、アロンゾもまた、微かに目尻を下げた。
「フィオーネ元上級実務官……彼女は、元気にされていますか?」
「相変わらずですよ」
ネロは苦笑交じりに、少しだけ肩をすくめた。
「『どうせ普段から家事も洗濯も私がやっていたんだ。何も変わらん。なんなら仕事でわからない書類があれば言え。教えてやる』って……家にいても、フィオーネ上官のままです」
対策局を完全に引退したというのに、家での彼女は相変わらず隙がない。
その光景が容易に想像できたのか、アロンゾは可笑しそうに息を漏らした。
「なるほど……。だからネロくんの書類は、いつもあんなに完璧なんですね」
「……あはは……」
図星を突かれ、ネロは気まずそうに頬を掻く。
「……さて。もう就業時間も過ぎていますし、ネロくんはあがってしまっていいですよ。フィオーネさんが家でお待ちでしょう?」
「え……いいんですか?」
「私ももうすぐあがりますから大丈夫です。事変が収まってから、このところ平和ですしね。……それに、早く帰らないと妻が怖いので」
普段は生真面目な上司の、日常を滲ませた冗談。
「……あはは、奥さん、厳しいんですね」
「ネロくんも、いずれわかる日が来ますよ」
「……覚悟しておきます」
ネロは深くお辞儀をし、穏やかな空気の流れる執務室を後にした。
* * *
帰路につくため、中央塔の廊下を歩いていた時のことだ。
局員用の遊戯室から、ダムッ、ダムッ、と重たいバスケットボールが弾む音が聞こえてきた。
開いた扉から顔を覗かせると、岩のような筋肉の塊を持った男が、ゴールめがけて軽快にボールを放っているところだった。
「あっ! 先生!!」
「……お? ネロじゃないか。どうだ? 元気にお仕事してるか?」
タオルで首元の汗を拭いながら、カルロが豪快な笑みを向けてくる。
あの死闘で負った重傷もすっかり完治したようで、その巨体から放たれる気迫は以前と全く変わらない。
「おかげさまでっ! 先生はもう身体は大丈夫なんですか?」
「おうっ! とっくに完治して、今はたまに来る大型魔獣の討伐任務をやってるよ」
「いいなぁ……俺も思いっきり身体動かしたいですよ」
ネロが本音を漏らすと、カルロは呆れたように鼻で笑った。
「何言ってんだ。フィオーネに言われてんだろ? 『危ない仕事はほどほどにしろ』ってよ」
「……まぁ、そうなんですけどねぇ……」
カルロはボールを小脇に抱え、面白そうに目を細めた。
「……しかし、あのフィオーネがスッパリ引退するとはな。あとはネロに任せるって言って……ついでに、お前らの『偽装義理姉弟』の契約も破棄か」
「いやぁ……今では『元』義姉ですよ。俺も本当にびっくりしましたけど……」
あの事変の直後。
フィオーネはあっさりと局を去り、同時に二人の家族関係を証明していた書類上の「義理の姉弟」という枠組みすらも破棄してしまったのだ。
「……まぁ、引退してもネロと一緒に住んでるし、義理の姉弟でもなくなった。……となると、お前も周りから色んな目で見られて大変だな?」
からかうようなカルロの視線。
だが、ネロは困ったように笑いながらも、真っ直ぐに答えた。
「……もう、フィオーネの行動には慣れっこですし。色々と約束したこともあるから、いいんですよ。……それに」
「それに?」
「フィオーネが幸せそうだから、それでいいんです」
一切の迷いがない、純度百パーセントの惚気。
それを正面から浴びせられたカルロは、大げさに天を仰いだ。
「……かぁぁぁぁぁ! 妬けるねぇ!!! よっ! 色男!!」
「どうもどうもっ!!」
ネロは照れて誤魔化すどころか、満面の笑みでわざとらしく深くお辞儀をしてみせた。
都市の暗部で血に塗れる冷徹な顔とは違う、表の顔である「お調子者で明るい青年」としての余裕がそこにはあった。
「ま、それならさっさと帰ってやれよ」
カルロが呆れたように笑いながら促すと、ネロは弾んだ声で応じた。
「はい! あ、そうだ。先生、俺たち明日から旅行なんですけど、なんかお土産とか……」
カルロはポンと、ネロの肩を大きな手で軽く叩いた。
「余計な気は遣うな。変なもんねだって、あとでフィオーネに殴られるのは俺なんだからよ」
「……はい……すいません」
苦笑いしながら一礼し、ネロは遊戯室を後にした。
* * *
夕闇が迫る中級居住区。
赤レンガ造りのアトラス家の扉を開けると、ふわりと温かいシチューの匂いが鼻をくすぐった。
「ただいまー」
「戻ったか。夕飯はもうすぐ出来るから、先に風呂に入っててくれ」
リビングの奥、キッチンから顔を出したのは、ラフな部屋着にエプロンをつけたフィオーネだった。
緩くまとめられた黒髪と、柔らかく落ち着いた表情。そこにはもう、人を寄せ付けない氷の調停者の面影はない。
ネロは靴を脱ぎながら、キッチンに立つ彼女の背中をじっと見つめた。
視線に気づいたフィオーネが、フライパンを動かす手を止めて振り返る。
「……どうした? 何か悩み事か?」
「……いや。ドラマだと、帰ってきたら『おかえりダーリン』って抱きついてくるのがセオリーかなぁ、と……」
わざとおどけたように両手を広げてみせるネロ。
それを見て、フィオーネは「やれやれ」とばかりに小さく首を振り、呆れたように息を吐き出した。
「……どこでそんなもんを覚えた……」
「こないだ、貴女と一緒に見たドラマで……」
「……私にそんなものを期待しているのか。お前は……」
じとっとした視線を向けられ、ネロはあからさまに肩を落とした。
やっぱりダメかぁ、と少し不満げに口を尖らせる。
「……ですよねぇ……」
やはり彼女の柄ではなかったか。
ネロが諦めて力なく腕を下ろした、その時だった。
トスッ、と。
甘い香りと、柔らかな体温が、ネロの胸の中に飛び込んできた。
「……え」
驚いて目を見開くネロの首元に、フィオーネの細い腕がそっと回される。
彼女は背伸びをして、ネロの頬に触れるか触れないかの、ひどく優しくて静かな口づけを落とした。
「……おかえり、ネロ」
耳元で囁かれた、蕩けるような甘い声。
密着した身体から伝わる彼女の圧倒的な柔らかさと、透き通るような耳の裏が真っ赤に染まっているのを見て、ネロの心臓が警鐘を鳴らすほどの勢いで跳ね上がった。
「……お、おぅ……」
言葉を失い、顔を真っ赤にして固まるネロ。
フィオーネはすぐに身体を離すと、照れ隠しのようにツンとそっぽを向いた。
「ほら、気が済んだらさっさと風呂に入ってこい」
「……余韻もクソもないなぁ……わかったよぉ」
文句を言いながらも、ネロの口角はだらしなく緩みきっている。
風呂場へと向かう途中、ふとリビングを振り返ると、キッチンに戻ったフィオーネが、隠しきれない満面の笑みを浮かべているのが見えた。
(……良いもんだな……)
ネロは幸せな溜息を一つこぼし、そのまま脱衣所へと消えていった。
リビングには、コトコトとシチューの煮える心地よい音だけが響いている。
フィオーネは鍋をかき混ぜながら、ふと窓の外の夜空を見上げた。
「……明日から、ネロと二人だけの旅行か……」
孤児だった自分が、全てを乗り越えて手に入れた、温かくて確かな居場所。
「義理の姉」という仮面を外し、ただの一人の女として彼と過ごす未来。
「……あいつとなら、どこでもいいが……」
どんな場所で、どんな顔をして彼が笑ってくれるのか。
想像するだけで胸の奥が熱くなり、フィオーネの口元から自然と柔らかな微笑みがこぼれ落ちる。
「……楽しみだな……」
最愛の男と過ごすこれからの長い日々に想いを馳せながら、彼女は静かに、夕飯の支度を進めるのだった。




