第五十二話:精密機械の最期と、奪われた亡骸
中央療養院の無機質な白い廊下に、慌ただしい足音が響き渡っていた。
瀕死の重傷を負ったカルロが集中治療室へと運び込まれるのを見届けた後、ネロとフィオーネは血と泥に塗れた姿のまま、奥の特別医務室へと駆け込んだ。
消毒液の冷たい匂いが充満する部屋。
そこにあったのは、色濃い死の気配だった。
「シオンッ!!」
フィオーネの張り詰めた声が響く。
無影灯の下、血に染まったシーツの上に寝かされていたのは、第二部隊隊長、シオン・エスポジトだった。
刃を滑らせるはずの銀色の防護服は無残に引き裂かれ、彼自身のしなやかな肉体にも、数え切れないほどの深く鋭い傷が刻まれている。
いつも機械のように冷たく、私情を挟まなかった男の、あまりにも痛々しい姿。
「……お、ま、えか……」
シオンが、焦点の定まらない虚ろな目蓋を薄っすらと開いた。
「助かるんだろうなっ!?」
フィオーネがベッドにすがりつき、傍らに立つ医療班の隊員へと鋭く問い詰める。
だが、隊員は重苦しい沈黙と共に、ゆっくりと目を伏せた。
「……最善は尽くしましたが……」
「……そんなっ……!」
フィオーネの白い頬から、すっと血の気が引いていく。
死の淵に立つシオンは、動揺するフィオーネの姿を視界の端に捉えながら、ひどく掠れた声で呟いた。
「……いいんだ……俺たちをやったのは……紅い髪の女だ……」
「……セリアッ……!」
ネロがギリッと奥歯を噛み鳴らす。
その微かな音を拾い、シオンの虚ろな視線がネロへと向けられた。
「……あの、女から聞いた……ベラの件……すまなかった……私が見抜けなかったばかりに……」
「……シオン……」
死の淵にあってなお、最後まで自分の間違いを悔いる不器用な姿。
ネロは唇を噛み締め、ただ静かに彼の名を呼ぶことしかできなかった。
「……あの女を、殺すことはできなかった……。だが……奴の髪の半分は、持っていくことが出来た……」
シオンの言葉を受け、部屋の隅に控えていた回収部隊の隊員が一歩前へ出た。
その手には、厳重にロックされた透明な保管ケースが握られている。
「これの事です……。薄い刃のように鋭いので、素手では触らないように」
ケースの中。
そこには、切り取られた真紅の長い髪の束が収められていた。
持ち主から切り離されているというのに、その髪の先端は未だに不気味な熱を帯び、魔獣のエネルギーを内包して微かに蠢いている。
「こんな……こんな異常なもの、防ぎきれるはずが……」
フィオーネが絶望的な火力の差に息を呑む。
だが、シオンは血に染まった唇の端を僅かに上げ、ふっと笑った。
「……だが、俺たちはやったんだ……俺たち第二部隊の、総力と引き換えだったが、な……」
直後。
シオンの口から大量の赤黒い血が溢れ出し、純白のシーツに濃い染みを作る。
「もう喋るなシオンっ!! 医療班ッ!! どうにかならないのか!!」
フィオーネが悲痛な叫びを上げるが、医療班の隊員は目を伏せて首を振るだけだった。
シオンの呼吸が、いよいよ浅く、不規則になっていく。
「フィオーネ……」
「……どうした……シオン」
フィオーネが震える両手で、冷たくなりつつある彼の手を強く握りしめる。
シオンの瞳は、すでにもう何も映していなかった。
「お前は、生きろよ……。お前にこっち側は、似合わない……」
「シオン……」
「四年前、ネロがいなかったら……今頃、お前を第二部隊に勧誘していたところだが……ふふっ……お前の性格だと……うちには、不向……だ、な……」
最期の、わずかな皮肉と気遣いが混ざった言葉。
そして、シオンは静かに目を瞑った。
上が下へと落ちるだけの、完全な脱力。
胸の上下運動が止まり、繋がれていた生命維持装置の波形が、一本の平坦な線へと変わる。
「……おいッ!! シオン!!! シオンッ!!!!!!!!!!」
フィオーネの絶叫が、無機質な医務室に響き渡った。
だが、ベッドの上に残されていたのは、魂が抜け落ちた冷たい身体だけだった。
都市の暗部を支え続けた冷徹な執行官の死。
フィオーネはその場で床に膝をつき、シオンの冷たい手を自らの額に押し当てて、声にならない声で泣き崩れた。
重い静寂の中。
ネロは微動だにせず、ただ静かに回収部隊の隊員へ視線を向けた。
「……他に、生き残りは?」
「……いません……。我々が駆けつけた時に息をしていたのは、シオン隊長だけで……他の第二部隊の皆さんは、すでに……」
言葉を濁す隊員の表情が、全滅という残酷な事実を物語っていた。
「……そうか……。せめて、丁重に弔ってやろう……」
ネロは深く目を伏せ、彼らの散り様に報いるための言葉を落とした。
喪失感が、白い部屋を重く塗り潰していく。
だが。
その静寂を、乱暴な足音が切り裂いた。
「……ッ! 隊長、大変ですッ!」
回収部隊の別の隊員が、息を切らせて医務室へと駆け込んでくる。
その顔は、ただの焦りではなく、到底理解できない異常な事態を目撃した者の恐怖に染まっていた。
「……第二部隊の皆さんの亡骸を……ッ! 『沈黙の灰』の配下と思われる異形化した集団に、根こそぎ持っていかれました!!」
「「「!!!!!」」」
衝撃が、医務室の空気を完全に凍りつかせた。
(……遺体を、持っていった……?)
ネロの脳裏に、強烈な吐き気を伴う記憶がフラッシュバックする。
岩壁の奥深く。
毒々しい紫色の液体の中に浮かんでいた、人間と魔獣の部位を雑に縫い合わされた数多の実験体たち。
そして、半ば意識を残したまま生きた部品として改造されていた男の末路。
鍛え抜かれた第二部隊の執行官たちの死体。
奴らはそれを丁重に葬るためでも、見せしめのためでもなく。
ただ、より強靭な『新しい魔獣の素材』として回収し、死してなお彼らをバケモノへと改造して、自分たちに従わせようとしているのだ。
「……あいつらッ……!!」
ネロの右拳が、骨が軋むほどに強く握り込まれた。
床に泣き崩れるフィオーネを背に、ネロの漆黒の瞳の奥で、純度の高い『灰光』が、かつてないほどどす黒い殺意となって静かに燃え上がり始める。
死者への哀悼すら許さない、絶対的な悪意。
聖都の白い光の裏側で、怒りと復讐の炎が、青年の理性を再び深く静かに焦がし始めていた。




