第五話:研ぎ澄まされる感触、いつか護るための手
ネロが魔獣災害対策院(A.D.R.I.)の奥深く、管理総監直属である都市の暗部、特務局執行班『ヴィクセド』の末端に身を置いてから数日が過ぎた。
まだ十四歳の彼に表向きの役職は与えられておらず、日中の大半は、聖都の歴史や魔導工学、暗号学といった詰め込み式の座学に費やされている。
「……あぁ……頭から煙が出そうだ……」
重い情報の濁流に晒され、ズキズキと痛む頭を抱えて帰路につこうとした時、ネロの携帯端末が短く震えた。
『授業終了後、直ちに第三訓練室へ来い』
送り主は、義姉となったフィオーネだ。
ネロは溜息を一つ吐くと、重厚な気密扉を抜け、冷たい空気の漂う地下の訓練場へと向かった。
「フィ……オ姉、こんなところに呼び出して、何の用?」
まだ舌に馴染まない「姉」という呼び名。
そのぎこちなさに対し、正面に立つフィオーネは、一切の無駄を削ぎ落とした戦士の顔で応じた。
今日の彼女はいつものスーツ姿ではなく、身体のしなやかなラインがはっきりと浮き出る、黒の訓練着に身を包んでいる。
「二人きりの時は、今まで通りフィオーネで構わんと言っただろう。……それと、これを受け取れ」
彼女が投げ渡したのは、特注の衝撃吸収材が分厚く仕込まれたボクシングミットだった。
「嵌めろ」
「……へいへい」
ネロは渋々といった様子でミットを両手に装着する。
対するフィオーネは、獲物を定めるような鋭く冷たい眼差しで義弟を見下ろした。
「訓練室に呼び出して何をするかなど、わざわざ言葉にしなければ分からんか? お前は存外、察しが悪いのだな」
(いや、分かってるけどさ……。ちょっとはノリってものを考えてほしいよ、義姉さん)
ネロは心の中でぼやきつつ、張り詰めた空気をかき混ぜるように、ふと思いついた冗談を口にした。
「いやさ、座学で頑張った可愛い弟を、お姉ちゃんが膝枕でヨチヨチしてくれるのかなぁ、なんて。ここなら人目もないし、期待しちゃうだろ?」
それを聞いたフィオーネは、至極真面目な顔で指を顎に当て、深く考え込んでしまった。
「……ふむ。膝枕か。それが望みなら、今のメニューが終わった後にやってやろう。……ヨチヨチ、というのも必要か?」
「やめて!? ガチで検討しないで! 恥ずか死ぬから!」
「ならば、無駄口を叩くな。集中しろ」
フィオーネはそう言い捨てると、自らも薄手のグローブを嵌め、音もなく構えた。
対人戦闘において局内トップクラスの実力を誇る彼女の構えには、僅かな隙すら存在しない。
「私がこれから打つ。お前はそれを防げ。……ただ、それだけの訓練だ。行くぞ」
「了解……ッ!」
刹那、空気が爆ぜた。
シュンッ! という鋭い風切り音と共に、フィオーネの左ジャブがネロの顔面を強襲する。
バシンッ!
乾いた衝撃音が室内に反響した。
ネロは瞬きすら間に合わない速度の一撃を、正確にミットの中央で捉えていた。
「……ほう」
フィオーネの瞳に小さな光が宿る。
彼女はさらに一歩踏み込むと、ヴィクセドの調停者に恥じない高速の三連打を叩き込んだ。
左右、そしてボディへの鋭い刺突。
だが――。
バババッ!
ネロはそれを、流れるような動作ですべて弾き返した。
「……良い眼を持っているな。村にいた頃、誰かに戦闘訓練を受けていたのか?」
ネロは一瞬、思考を過去の、灰に沈んだ景色へ飛ばした。
「お褒めに預かり恐悦至極。でもさ、訓練なんてあるわけないだろ。……せいぜい、村の連中と棒切れを振り回してた『ごっこ遊び』が関の山だよ」
その言葉に、フィオーネの拳がぴたりと止まった。
「……すまない。嫌なことを思い出させた」
露骨に肩を落とし、見る間にシュンとして眉尻を下げるフィオーネ。
先程までの鋭利な戦士の空気はどこへやら、気まずそうに視線を泳がせ、無神経に傷つけてしまったのではないかと慌ててネロの顔色を窺いこむ。
「気にしなくていいって! そんな顔しないでバンバン打ってこいよ、フィオーネ!」
「……分かった! ならば加減はせん。あとでたっぷりと膝枕をしてやるから、覚悟しておけ!」
「だから、それはノリだってば!」
叫びながらも、ネロの集中力は極限まで高まっていた。
フィオーネの拳が加速する。
風圧を感じ、打撃の軌道がはっきりと「見える」。
相手の筋肉の僅かな動きから、次の挙動を本能的に予測しているかのような、異常に研ぎ澄まされた感覚だった。
「本当に素晴らしい動体視力だ……なら、これならどうだ!」
フィオーネの声が響くのと同時。
彼女は独楽のような回転で低姿勢へと沈み込み、上半身を鋭く捻った。
通常の人間の骨など容易く粉砕するであろう、全速力での後ろ回し蹴り。
直後、ズドンッ! と重く鈍い衝撃音が訓練室の壁に反響した。
「ネロ!? しまっ――」
フィオーネが血相を変えて叫んだ。
今の蹴りは、戦闘素人の子供が受けていい威力ではない。
寸止めするつもりが、ネロの予想以上の反応の良さに、彼女自身が無意識に本気の速度と体重を乗せてしまったのだ。
だが、フィオーネの視線の先。
ネロは、交差させたミットでその破壊的な一撃を完璧に受け止めていた。
彼が踏み締めた床のコンクリートが、圧力に耐えかねて僅かに悲鳴を上げている。
「……いやぁ、びっくりした。どういう身体の柔らかさしてんの、フィオ姉は……」
ネロはケロリとした顔で痺れる腕を振った。
だが、フィオーネは半ばパニックになりながらネロに詰め寄ると、力ずくで彼のミットを乱暴に剥ぎ取った。
「すまない! まさかこれも防ぐとは……腕は!? 骨は折れていないか!? 見せてみろ!」
「だ、大丈夫だって……心配しすぎだよ」
至近距離から覗き込んでくる彼女の首筋から、微かに汗と甘い香りが漂い、ネロはドギマギして僅かに身体を反らせる。
露わになったネロの腕には、内出血一つ見当たらなかった。
フィオーネは呆然と、その細い、けれど鋼のような異常な芯の強さを感じさせる義弟の腕を見つめ、ようやく深く安堵の吐息を漏らした。
「……良かった。本当に、何ともないようで……」
過保護なほどに自分を案じる彼女の様子を、ネロはどこか不思議そうに眺めていた。
「だから言っただろ? フィオーネも女の子なんだし、俺はこれでも男だからさ。心配しすぎだって」
少し得意げに笑ってフォローを入れるネロ。
対して、フィオーネは未だに驚きと動揺を隠せない様子で、小さく頭を抱えた。
「…………お前は、本当に私を女扱いしてくるな。……おかげで、調子が狂いそうだ」
「まあまあ、そう言いなさんな。いざって時は、義弟の俺が護ってやるからさ!」
十四歳の少年の、裏表のない真っ直ぐな宣言。
フィオーネはその言葉を噛み締めるように目を伏せ、やがて、わずかに口角を上げて柔らかく微笑んだ。
「……護るのは私だと言ったばかりなのだがな。まあ、そんな時は来ないと思うが……もし本当にお前が私より強くなる日が来たら、その時は頼りにさせてもらおう」
そう言って、フィオーネはネロの頭を、慈しむようにひどく優しい手つきで撫でた。
冷たく無機質な地下訓練室には、激しい運動の後の熱気と、わずかに重なる二人の心音だけが静かに響いていた。




