第四話:復讐者の居場所、偽りの平穏へ
隔離生活四十日目。
ついにネロの検疫期間が終了した。
魔獣化の兆候は認められず、体内に残るウイルスも極微量であり、公共の安全を脅かすものではないという最終診断が下された。
重厚な電子ロックが解除され、スライド式の分厚い扉が開く。
ネロが一歩、外の廊下へ踏み出すと、天井の低い医療室ではできなかった深い深呼吸をして、思い切り背伸びをした。
「……ふぅ。退屈な檻暮らしになると思ったけど、フィオーネのおかげで楽しい四十日間だったよ」
ネロはそう言って、正面に立つフィオーネに右手を差し出した。
フィオーネは、一瞬戸惑うように視線を落としたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべてその手を握った。
「………気にするな。これも仕事だ」
「それでもだよ。ありがとう」
ネロもまた、年相応の少年らしい笑みを返して握手を解く。
だが、その直後だった。
ふっと視線を床に落としたネロが、聞き取れないほどの小声で毒を吐く。
「……さてと。……あの野郎を探し出して、ぶっ殺さないとな……」
下ろされた腕の先、握りしめられた拳は指先が白くなるほどに力がこもっている。
先程までの穏やかな少年の面影は消え失せ、その黒い瞳には凍てつくような憎悪の火が灯っていた。
フィオーネはその痛ましい変貌を間近で見て、ネロの肩口にそっと手を置いた。
「……ネロ、そのことで総監が呼んでいる」
肩に触れた細い指先の感触に、ネロはハッとしたように我に返った。
「総監が? ……わかった。すぐに行くよ」
ネロは顔を上げ、いつもの穏やかな表情を無理やり作り直した。
フィオーネの先導で歩き出すネロ。
その後ろ姿を見つめるフィオーネの口元は、真っ直ぐに、そして強く結ばれていた。
†
中央塔の最上層。
豪華な装飾が施された管理総監室には、ガロ・ヴァレンティが巨大なマホガニーの執務机の後ろに鎮座していた。
窓の外には、魔核エネルギーを供給する青き「魔導伝導路」が血管のように張り巡らされた、聖都ルメンティアのパノラマが広がっている。
隙のない重厚な濃紺のロングコートを羽織り、190センチを超える屈強な体躯を持つガロは、ただ静かに佇むだけで空間の空気を張り詰めさせるような、鉄血の威厳を放っていた。
「来たか、二人とも」
「総監。俺の復讐の件で、話があるって聞いたんですけど」
ネロは挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。
ガロは重厚な椅子に深く背を預け、すべてを見透かすような冷徹な双眸を少年に向ける。
「ああ。隔離室でも話した通りだ。戦闘技術を身につけろ、無駄死にするな、とな」
「……わかってる」
今すぐにでも街を飛び出し、仇の足取りを追いたい衝動を抑え、ネロは低く応じた。
「ネロ。お前は対策局に入れ。私のもとで、直々に鍛え上げてやる」
「冗談だろ……! 俺は今すぐにでもあいつを見つけなきゃいけないんだッ!」
激昂するネロの肩を、フィオーネが制するように押さえる。
「ネロ、一旦落ち着け」
「何が落ち着けだ! 俺は家族を殺されてるんだぞ! 友達だってあの村で全員死んだ! もう独りぼっちなんだ! 俺が死んだところで、俺を憐れんでくれる奴なんてこの世界のどこにも居ないんだよ!」
堰を切ったように、ネロの悲痛な叫びが広い部屋に響き渡る。
「あんたらみたいな、聖都で成功して、親も家族も友人もいる奴らとは……俺は、違うんだッ!!」
「……ネロ」
フィオーネの声が僅かに震えた。
だが、それを遮るようにガロの物理的な質量を伴う低音が部屋を支配する。
「別に、魔獣災害でお前だけが特別な不幸を背負っているわけではない。この都市には、そういった者たちが掃いて捨てるほどいる」
「……っ!」
「例えば、四十日間お前の面倒を見たフィオーネくんだ。彼女も孤児だ。自分の親の顔すら知らん」
ネロは絶句し、フィオーネの顔を仰ぎ見た。
彼女は何も言わず、ただ無表情にガロの言葉を聞いていた。
「……それは、すまなかった。……でも、フィオーネには友人がいるだろ。俺には……」
「……私は対策局でも、管理総監直下の特殊部隊に所属している。有体に言えば、都市の『暗部』だ。だから、友人というものが私にはできたことがない。住んでいる世界が、一般人とは少し違うのだ」
国家の汚れ仕事を引き受け、血と泥に塗れた日常を送る部隊。
同情など一切不要だと言わんばかりに、堂々と言い切るフィオーネの姿に、ネロの喉が鳴る。
「……フィオーネ……ごめん……」
「……対策局の一般局員は一般人だが、私の直轄部隊は極秘扱いでな。任務で死ぬことも珍しくない。だからこそ」
ガロは言葉を区切り、ネロの目を見た。
「……俺みたいな、身寄りのない駒が、丁度いいってことか」
ネロが吐き捨てるように言うと、ガロはフッと口角を上げた。
「理解が早くて助かる。だが、無理強いはせん。ただ、ここにいれば効率よく戦える技術と武器が手に入る。ついでに高給だ。それにな……」
「……それに?」
「お前の村で起きた変異事件に『人間』が関わっていたという事実は、今回が初だ。犯人はおそらく、通常の捜査では絶対に見つからない組織の連中だ。お前が一人で探しに行ったところで、辿り着ける確率は皆無だぞ」
その言葉は、ネロの最も痛いところを正確に突いた。
あの中性的な笑みを浮かべた影――テロ組織の構成員を、この巨大な都市と広大な辺境から一人で探し出すことの無謀さ。
……重い沈黙が流れる。
やがて、ネロは力なく吐息を漏らした。
「………わかった。交渉成立だ」
「……賢明な判断だ。丁度、腕のいい駒が不足していたところでね。さて、そうと決まればキミの身元引受人も用意しよう。無論、私の信頼できる部下から選ぶ。世を忍ぶための『偽装家族』だ。このリストにある三組から選びたまえ」
ガロから渡されたタブレット端末には、三十代から四十代の、いかにも穏やかそうな夫婦たちのデータが並んでいた。
ネロくらいの子供がいても不自然ではない、ごく普通の家庭だ。
「……じゃあ、この……」
ネロが適当に指を動かそうとした、その時。
「――その役目、私ではダメでしょうか」
フィオーネの静かな、けれど決然とした声が割って入った。
ガロが意外そうに眉を跳ね上げる。
「……ほう? キミがそのように自分から申し出るとは珍しいな」
「……フィオーネが親になる、ってこと?」
ネロが真顔で尋ねると、フィオーネは一瞬だけ拳を握り、すぐに言い直した。
「彼を『義弟』として引き取ります」
「……ふむ。四歳差か。姉弟として振る舞うには、確かに不自然さはないな」
ガロは硬そうな銀髪を撫でながら検討を始める。
ネロは再び地面を見つめ、ぼそりと呟いた。
「……俺の姉さんは、セリアだけだ……」
その消え入りそうな呟きを、フィオーネは逃さなかった。
彼女は迷うことなくネロの前に膝をつくと、タイトなスーツの膝が汚れることも厭わず、彼の両手を優しく、けれど強く包み込んだ。
「わかっている。私はあくまで『義理』だ。キミの本当の姉が彼女だけであることに、変わりはない。ただ、キミを近くで支えたい。そう思ったから、申し出ただけだ」
「………」
「私は承認しよう。ネロ君も、人となりを知っている彼女の方がいいのではないかね?」
ガロの問いに、ネロはしばらくフィオーネの真っ直ぐな瞳を見つめ返し、やがて小さく頷いた。
「……異存はないよ」
その返答を聞いた瞬間、フィオーネの瞳に強い光が宿る。
彼女はネロの手を握ったまま、祈るような敬虔さで告げた。
「あの時は間に合わなくて、すまなかった。……これからは、私がキミを一生かけて守り抜くと誓うよ、ネロ」
重すぎるほどのその誓いに、ネロは戸惑いながらも、彼女の肩に手を置いた。
「……別に、フィオーネが気にすることじゃないよ。大丈夫だ」
「手続きは部下にやらせておこう。フィオーネ君、キミの今の寮の部屋だと手狭だろう。明日までに別の住居――『家』を用意しておく。連絡を入れるので確認するように」
それは、中級居住区に手配されるであろうレンガ造りの静かな家。
血と泥に塗れる過酷な任務の傍らで、二人が身を寄せるための、せめてもの仮初の平穏だった。
フィオーネは立ち上がり、背筋を真っ直ぐに伸ばして敬礼した。
「はっ! 承知いたしました、閣下!」
「……お世話になります、閣下」
ネロもまた、ぎこちない動作で彼女を模倣し、敬礼を送る。
「ハハハッ、そう畏まるなネロ君! 期待しているよ」
ガロの豪快な笑い声に見送られ、二人は管理総監室を後にした。
一人残されたガロは、巨大な窓から聖都の青い空を眺め、満足げに独り言を漏らした。
「……あのフィオーネが、私以外の他人とあんなに穏やかに、長く一緒にいるのは初めて見た……。ふむ、逃がす手はあるまい」
その眼差しは、冷徹な最高権力者のそれではなく、愛娘の良縁を喜ぶ義父のような、穏やかな光を湛えていた。




