第四十六話:放棄精製所への道標と、兄貴分の同行
聖都ルメンティアの中心にそびえる中央塔。
分厚いガラスで街の音が完全に消された最上階の総監室に、ネロの静かでよく通る声が響いた。
「ネロ・アトラス。本日より復帰致しました」
巨大な木製のデスクの奥。濃紺のロングコートを羽織ったガロは、組んだ両手の上に顎を乗せ、鋭い眼差しで青年の顔色を窺った。
「フィオーネから聞いたが、本当にもう身体は治っているのか?」
「はい。問題ありません」
淀みなく答えるネロ。
その傍らのソファで、深く背もたれに体重を預けていたカルロが、面白そうに片目をつぶって口を挟む。
「……鬼の姉御と一緒にいれるせっかくの休日を、返上してよかったのか?」
「……大丈夫です。ちゃんと話し合いましたから」
からかうようなカルロの視線を、ネロは苦笑しながらも真っ直ぐに受け止める。
その淀みのない態度に、カルロはやれやれと肩をすくめた。
「……そうか。茶化して悪かったな」
「……ベラくんを殺害した犯人の件も、フィオーネから聞いている」
空気を引き締めるように、ガロが低く重たい声を落とした。
ネロの表情から青年の柔らかさがスッと消え、冷徹な執行官のそれへと切り替わる。
「無理を言うつもりはない。お前は当事者に近すぎる……今回の作戦から外れても、私は構わん」
ガロの静かで重みのある配慮。
だが、ネロは一切の迷いなく首を横に振った。
「……いえ。狂ってしまった姉を止めるのも、弟の役目ですから」
ネロは黒シャツの袖の下で、自らの拳をギリッと強く握り込む。
「……あまり一人で背負いこむなよ。元来、魔獣ウイルスとは生き物を凶暴化させる性質を持つものだ。だから……お前の姉も……」
「……わかっています……わかっている、つもりです」
どこかでウイルスのせいにしなければ、かつて自分を護ってくれた優しい姉が、同僚を惨殺したという事実を呑み込めない。
ネロは短く息を継ぎ、顔を上げてガロを見据えた。
「……それに、今の俺には義姉がいます。あの人だけは絶対に、俺の事を見捨てないってわかってますから」
一切の揺らぎがない、絶対的な信頼の言葉。
それを聞いたカルロが、ふっと天井を仰いで息を漏らした。
「……しかし、あの氷のように冷たいフィオーネにも、ついに春が来たかぁ……」
ガロは何も言わず、目元を大きな手で覆った。
呆れたように見せかけて、孤児から育て上げた不器用な教え子にようやく訪れた春を噛み締めるように、その口角は緩み、屈強な肩が微かに嬉しげに揺れている。
「……えーっと……どういう意味で……?」
「いやぁ、同僚として心配してたんだよ。昔は口を開けば『ネロが生意気で敵わん』だの『本気でしごいてやる』だの物騒なことばっかり言ってたからな。こりゃあマジで嫁の貰い手ねぇなぁ……って案じてたんだけど。まさか、その貰い手の可能性が一番高そうなのが、当の義弟だったなんてなぁ」
「ちょっ……先生、変な言い方しないで――」
ネロが顔を熱くして反論しようとした、その瞬間だった。
ドンッ!!
凄まじい衝撃音と共に、重厚な総監室の扉が蹴り開けられた。
「…………私の不在に、何を吹き込んでいる、カルロ」
そこに立っていたのは、ダークスーツに身を包んだフィオーネだった。
氷の調停者としての冷気を纏っているが、その白い首筋から耳の裏にかけては、隠しきれないほどの熱で真っ赤に染まっていた。
「……新手のノックだな、フィオーネ。強固な扉も驚いて悲鳴をあげてしまったようだ」
「……失礼しました、閣下。そこの馬鹿がふざけたことを抜かしているのが聞こえてきましたので」
「……すまんすまん、楽しくてついな」
カルロが両手を上げて降参のポーズをとるが、フィオーネの瞳は全く笑っていない。
「……あとで殺すぞ、貴様」
「……まぁまぁ……話が進まないんで、ここは堪えて……」
ネロが慌てて二人の間に割って入ろうと両手を広げた、その直後だった。
「いやぁ、どうも! ここには春の香りがするね! 若い男女の甘ーい春の香りがッ!」
ひらひらと手を振りながら、汚れのない白衣を着こなした赤髪の青年――レインが、ノリノリの足取りで総監室に入ってきた。
その後ろからは、鈍色の多脚機がガシャガシャと忙しなく金属の脚を鳴らしてついてくる。
『お久しぶりですぅぅぅ! ボクがいない間に二人の仲が凄い進展してるか、それとも後退していないか心配で心配で、夜しか眠れなかったですよぉぉぉ!』
「……おい。ポンコツと変人。まとめて解体されたいか?」
フィオーネの瞳から、完全に温度が消え去った。
「……004」
『……ひぇっ!?』
レインが楽しげに呼びかけると、モーディは咄嗟に先日フィオーネがこぼした言葉の音声を再生する。
『……いや、別に……ただ……ああいうのに、憧れ……がな……』
「!?!?」
休日のカフェでの自分の本音を完璧な音声データで再生され、フィオーネは完全に言葉を失い、顔から火が出るほどの羞恥にフリーズした。
「というわけで! おめでとうございます!」
レインは面白がるのをやめ、スッと真面目な顔に戻ると、手にしていた丸めた紙――解析データをフィオーネとガロのデスクに広げた。
「……ッ!! デリカシーというモノが無いのか貴様らッ!」
フィオーネが怒鳴りながらも、冷静さを取り戻し、広げられた紙に視線を落とす。
そこに印字されていたのは、辺境の広域地図と、赤くマーキングされた一つの座標だった。
聖都から南方へ約五十キロ離れた、旧世界の工業跡地。
『放棄精製所「デッド・エンド」』。
『奴らが撤退した方向と、装甲に付着していた残留物質から完全に特定しましたぁ。……たぶん、間違いないかと』
モーディの電子音が、静かに響く。
拠点の名前を聞いた瞬間。
「……セリアが、そこにいるのか……」
ネロの態度は極めて静かだった。
だが、その漆黒の瞳の奥では、純度の高い『灰光』がチロチロと揺らめき、抑えきれない動揺と殺意が混ざり合って明滅している。
「……ネロ」
フィオーネが痛ましそうに小さく名を呼ぶ。
「……ま、無理もねぇわな」
カルロがソファから立ち上がり、大きな手で自分の後頭部を掻いた。
「……おい、ネロ」
「……なんですか? 先生」
「今回は、俺も特別について行ってやるよ」
その提案に、ネロは驚きに目を見開いた。
「……え!? 都市の防衛は!?」
「そいつはシオンの奴に任せるよ。それに……俺がいたほうが、お前も色々安心だろ?」
「……そう……ですね」
ネロの肩から、微かに強張りが抜ける。
だが、横に立っていたフィオーネが不満げに眉を寄せた。
「……別にお前がいなくても、ネロは充分戦えるぞ」
「……ばーか。今回は、俺はお前のお守りだよ」
「……は?」
「お前が敵の標的にされたら、ネロが自由に動けねぇだろ。だから、それを抑制すんのが今回の俺の役目だ。どうせお前を本部に置いていくのはネロが嫌がるだろうし、お前も勝手に付いて来るだろうし……ってことで、今回俺はお守り役。オッケー?」
ふざけた口調とは裏腹に、カルロは最初から二人の動きを完全に読んで話を組み立てていた。
ネロは深く頷き、フィオーネに向き直った。
「俺からもお願いするよ」
「………ったく、この男どもは……。珍しく私を『護られる女』扱いするとは……はぁ。いいだろう……カルロ、頼むよ」
フィオーネは小さく息を吐き、渋々といった様子でカルロの提案を受け入れた。
「よしきた。んじゃぁ、明日の明朝に作戦決行だ。いいな野郎ども」
『イエッサーッ!!』
「……無理しないでくださいね」
「……生きて帰ってこい」
レインの静かな忠告と、ガロの重みを伴った命令。
ネロとフィオーネは深く一礼し、総監室を後にした。
* * *
中央塔の長い廊下。
窓の外には、聖都を赤く染め上げる美しい夕焼けが広がっていた。
燃えるようなその空の向こう、南方の荒野を見つめながら、ネロはレザージャケットのポケットに手を入れたまま、誰にともなくポツリとこぼした。
「……姉さん……今行くからな……」
静かで、痛切な決意の響き。
フィオーネは何も言わず、ただ半歩後ろから、彼の背中にそっと寄り添うように立ち止まっていた。
足元では、モーディも静かにモノアイの光を落としている。
血と灰に塗れた過去との決着へ向け、彼らはただ無言のまま、夕闇が迫る空をいつまでも見つめていた。




