第四十五話:休日の終わりと、灰の急報
穏やかな昼下がりのカフェテリア。
テラス席のグラスに残っていた氷が、カランと音を立てて溶け落ちた。
期限付きの約束を交わし、席を立とうとした二人の背中に、聞き慣れた声が掛かる。
「おっ! ネロじゃーん、身体は平気なのか?」
振り返ると、対策局の同僚であるマルコが、不思議そうな顔でこちらに歩み寄ってくる途中だった。
ネロは瞬時に、二人だけで過ごしていた親密な空気を切り替え、いつもの人当たりの良い青年の笑みを顔に貼り付けた。
「よぉ、マルコ。ん? 身体は平気ってどういうことだ?」
ネロが独自調査でテロ組織の幹部と死闘を繰り広げ、重傷を負ったことは、上層部の一部しか知り得ない極秘事項だ。
「ん? 隠したかったのか? そりゃ残念、アロンゾ主席から聞いちゃったよ。フィオーネ上官が複数の男に絡まれたところに割って入って、喧嘩して怪我したって」
「……あはは……」
アロンゾが用意した、あまりにも手回しの早い完璧な隠蔽工作。ネロの頬が微かに引きつる。
「いやぁ、やるじゃないか。見直したぜ! 流石フィオーネ上官の義弟なだけあるなっ!」
マルコが豪快にネロの肩を叩く。
その横で、無言でやり取りを聞いていたフィオーネが、フッと口角を上げて薄く笑った。
「……まぁ、流石は私の義弟といったところだな」
「ったく……」
事実とは異なる武勇伝に堂々と胸を張る義姉に、ネロは呆れたように溜息をつく。
その時、マルコの視線が、フィオーネの服装へと向けられた。
「……ってか、上官……今日、随分と雰囲気が違うんですね……」
白のニットにプリーツスカート。
職場での隙のないダークスーツ姿からは想像もつかない、柔らかく女性らしい出で立ち。
普段の威圧感がない分、マルコがどこか居心地悪そうに視線を彷徨わせながら指摘すると、フィオーネは悪びれる様子もなく、スッとネロの方へ視線を流した。
「ん? ああ、これは、ネロがこういうのが好きだと……」
「やめて!! 誤解招くようなこと言わないでっ!!」
ネロは顔を熱くして身を乗り出し、慌てて義姉の言葉を遮った。
だが、その短い言葉の応酬だけで滲み出る、隠しきれない二人の甘く親密な距離感に、マルコは引きつった笑いを浮かべて数歩後ずさる。
「………やっぱ噂はホンモノ……」
「うるせぇ……」
ネロが恨めしそうに睨みつけると、マルコは咳払いをして誤魔化すように話題を変えた。
「……ま、いっか。……そういや、いつもの蛸は一緒じゃないのか?」
「ん? あぁ、モーディなら定期メンテナンスの時期が来たから、技術局に預けてるよ」
極大負荷の連続駆動で焼き切れかけた回路の修理。
その真実を伏せ、ネロが淀みなく答える。
「へー、あの蛸もそんなのが必要なんだなぁ」
「珍しいな、マルコがモーディの事を気にするなんて」
「いや、ニュース聞いてないのかなって」
マルコの表情から、先程までの軽いおどけた色がスッと抜け落ちた。
「なんのニュースだ? 天気だってこんなにいいのに」
「……そんな明るいニュースじゃねぇって……。カンポ・ロッソの猟兵ギルドが、テロ組織の『沈黙の灰』に襲われて壊滅したって話だよ……」
「壊滅っ!?」
ネロの呼吸が止まった。
脳裏にフラッシュバックするのは、安酒と重油の匂いが充満する薄暗い酒場。義眼のギルドマスター、ルッジェーロのニヤリと笑う顔。
自分たちが装甲の欠片の調査を依頼した、あの『錆びた牙』が。
「あぁ、だからこれから俺たちはその対策資料をまとめないといけないんだよ……。いいなぁ、お前はお休みで」
「……わりぃな。復帰したらすぐに手伝うからよ」
ネロはひどく低い声で返し、マルコもまた「おぅ、そんときは頼りにしてるよ」と片手を上げて、対策局の方向へと足早に戻っていった。
残されたテラス席。
先程までの穏やかな陽だまりの空気は、物理的な氷点下まで完全に凍りついていた。
「……あいつらが壊滅、か……」
フィオーネの横顔から、休日の女性の柔らかさが完全に削ぎ落とされる。
そこに残されたのは、都市の暗部で血を流す冷徹な執行官の冷気だけだった。
「……行こう、フィオーネ……」
ネロの漆黒の瞳の奥で、静かで純度の高い殺意がチロチロと揺らめき始める。
「……ったく、仕方ないやつだ」
フィオーネは懐から極秘回線の専用端末を取り出し、鮮やかな手つきで操作してガロ管理総監への通信を繋いだ。
「総監、話はマルコから聞きました。我々も至急向かいます」
耳元に端末を当てたまま、フィオーネがネロを真っ直ぐに見つめる。
ネロは無言のまま、深く、力強く頷き返した。
「……はい、ネロも行くと言っています。……はい……ネロの身体もほとんど完治しています。……はい……すぐ行きます」
短い報告を終え、通信を切る。
カチャリという無機質な音が、休日の終わりを告げていた。
「……はぁ……やれやれ……折角の休日が台無しだ……」
端末をしまいながら、フィオーネがポツリと、本当に残念そうに息を吐き出す。
ネロの胸に再び燻り始めた暗い復讐心とは裏腹に、彼女がただ惜しんでいたのは、彼と過ごす穏やかな時間が終わってしまうことだった。
その不器用で純粋な義姉の横顔を見て、ネロの胸の奥で煮え立ちかけていた黒い熱が、フッと優しく解けていくのを感じた。
「はは……。……落ち着いたら、また二人だけで出掛けようぜ。……モーディはお留守番で」
ネロは少しだけ身体を寄せ、彼女にだけ聞こえる声のトーンで静かに約束を落とした。
その言葉に、フィオーネの冷たく張り詰めていた瞳がわずかに見開かれる。
やがて彼女は、刃のような冷徹さを溶かし、隠しきれないほどの愛おしさを孕んだ微笑みを浮かべた。
「……楽しみにしてるよ、ネロ」
二人の視線が交差する。
言葉以上の温度を確かめ合うと、彼らはカフェテリアを後にした。
背中を向けて歩き出したその足取りは、もう休日のものではない。
血と灰に塗れた戦場へ向かう、二人の執行官の静かなる進軍だった。




