第四十四話:休日のハンバーガーと、期限付きの約束
聖都ルメンティアの中心部。商業区の大通り。
磨き上げられた石畳の上を、魔導路面電車が静かに滑り抜けていく。
ネロはレザージャケットのポケットに片手を突っ込みながら、隣を歩くフィオーネの歩幅に自然と合わせていた。
コツ、コツ、と高い靴の音が規則正しく響く。
今日の彼女は、白のタイトニットにプリーツスカートという私服姿だった。
歩くたびにふわりと揺れるスカートの裾と、肩越しに漂ってくる微かに甘い香り。
普段のダークスーツや純白のコートに包まれた、氷のような威圧感はどこにもない。
肩が触れ合いそうになる距離。
昨夜の泥の中での切実な告白を経て、彼女をはっきりと一人の女性として意識してしまっている今のネロにとって、その無防備な姿の隣を歩くのは、どうしても心臓の落ち着きを奪うものだった。
ネロは無意識に視線を前方に固定し、不自然に瞬きの回数を増やしていた。
やがて二人は、大通り沿いにある重厚な木扉の大型書店へと足を踏み入れた。
休日らしい客のざわめきの奥に、紙とインクの匂いが静かに沈んでいる。
ネロが小説の棚を眺めている間、フィオーネは少し離れた専門書のコーナーを熱心に見て回っていた。
ネロが近づくと、フィオーネは難しそうな分厚い背表紙の本を棚から引き抜いていた。
「おい、ネロ。この本、仕事の役に立ちそうだぞ」
彼女が示したのは、魔導工学に関する専門書だった。
ネロは天を仰ぎ、恨めしそうな視線を向けた。
「……フィオーネさん……こんな時くらい仕事の事は忘れてくださいよ……」
「何を言う。私はお前の為を思って言っているのだぞ」
「……俺の為を思うなら、折角の二人だけの時間を仕事で汚さないでくれって!」
ネロは両手で自らの顔を覆い、深々と息を吐いた。
「…………」
その「二人だけの時間」という言葉の響きに、フィオーネのページをめくる指先がピタリと止まった。
「……んだよ」
「……いや、それもそうだな……と」
フィオーネは少し気まずそうに視線を逸らし、手にしていた分厚い専門書を、パタンと音を立てずに大人しく元の棚へと戻した。
「……あらま……意外と素直……」
いつもなら反論してくる義姉の予想外の態度に、ネロが目を丸くする。
すると、フィオーネはネロの方へ向き直り、少しだけ口角を上げて柔らかく笑った。
「……お前と二人だけの時間。だからな」
「……やめてっ! それをそのまま声に出さないでっ!!!」
自分の放った気恥ずかしい台詞を時間差で突きつけられ、ネロが顔を熱くして抗議する。
「ふふっ……」
それを見て、フィオーネは心底楽しそうに喉を鳴らした。
冷たい氷の仮面が完全に溶け落ちた、年相応の無邪気な笑顔。
ネロは毒気を抜かれたように息を吐き、足早に本屋の出口へと向かった。
* * *
昼時。
本屋を出たネロは、レンガ造りの通りに面した、少しこじゃれた喫茶店を指差した。
「とりあえず、あそこで飯にしようぜ」
「よかろう」
テラス席に腰を下ろした二人は、店のおすすめメニューを頼んだ。
運ばれてきたのは、肉厚のパティから肉汁が滴る、大ぶりのハンバーガーセットが二つ。
ネロは早速、両手でハンバーガーを掴むと、豪快に齧り付いた。
口いっぱいに肉の旨味とソースの香ばしさが広がる。
「……これ旨いぞ、フィオーネ」
「……そうだな……悪くない……」
フィオーネも袖を少し捲り上げ、上品に、けれどもしっかりとハンバーガーを頬張った。
穏やかな昼食の時間。
もぐもぐと口を動かしながら、フィオーネの視線が、ふと大通りへと向けられた。
彼女の瞳の先。
休日の通りを、楽しそうに笑いながら歩く子連れの夫婦の姿があった。
フィオーネはハンバーガーを持つ手を止め、じーっと、その光景を見つめている。
彼女の視線は夫婦のどちらでもなく、その間で両手を引かれてはしゃぐ小さな子供の姿に、吸い込まれるように留まっていた。
(……何か事件か?)
彼女の視線の動きを訝しんだネロは、手元のハンバーガーを皿に置き、同じ方向を追いながら尋ねた。
「……どうした? フィオーネ、あの家族が気になることでもあるのか?」
フィオーネはパチリと瞬きをして我に返り、ゆっくりと視線をテーブルへと戻した。
少し遠い目をして、ポツリとこぼす。
「……いや、別に……ただ……ああいうのに、憧れ……がな……」
静かにこぼれ落ちた、ひどく切実な響き。
言っている意味を痛いほどに理解しつつも、この平和な日常の空気を重くしないよう、ネロはあえて軽く流すように口を開いた。
「……俺にどんな反応を期待してるんでしょうか……?」
言った意味を完全に理解されたことが分かり、フィオーネは少しだけ耳の裏を赤く染め、照れ隠しのように視線をグラスの氷へ落とした。
「……別に反応に期待などしておらん。ただ、いいな。と思っただけだ」
「……へいへい……」
ネロはその不器用な反応を軽く受け流しながら、再びハンバーガーを口に運んだ。
「…………」
フィオーネもまた、無言で食事を再開する。
賑やかな大通りの喧騒の中、二人のテーブルだけが、不思議で温かな沈黙に包まれていた。
やがて。
食事の合間。
ネロはアイスティーのグラスを置き、極めて静かな、けれど真っ直ぐな眼差しで切り出した。
「……セリアの件が終わるまで、待ってくれないか?」
「……え?」
急に真面目なトーンで言われ、フィオーネが驚いたように顔を上げる。
ネロの漆黒の瞳には、いつものからかうような色も、復讐に燃える暗い炎もなかった。
ただ、目の前にいる大切な女性に対する、真っ直ぐな誠実さだけがそこにあった。
「……今はまだ、正直、気持ちの整理がついてないんだ。だから、整理がついたら……ちゃんと言うよ……」
自分の中に燻るどす黒い炎を抱えたまま、安易に彼女の憧れる「家族」や「未来」を口にするのは、彼女に対する最大の不誠実だとネロは分かっていたのだ。
ネロの不器用で、けれど真摯な回答。
フィオーネは微かに目を見張り、それから、テーブルの上でギュッと握りしめていた自分の指先を、ゆっくりと解いた。
「………別に、私は構わんよ、それで……。いつまでも待ってるから」
照れたような、けれど波一つない穏やかな声。
彼女の眼差しには、ネロが自分との関係を『未来』の延長線上にしっかりと置いてくれていることへの、深い安堵が広がっていた。
「……いや、そこは『早めに頼むっ!!』とかじゃないんかい!?」
あまりにも聞き分けの良い返答に、ネロが思わずツッコミを入れる。
「……私は一応これでも女だぞ。そこで『いや! 今すぐ答えをくれ!』などと言えるか!」
フィオーネが顔を赤くして、不満げに口を尖らせる。
「……へいへい、そうですか……」
ネロが苦笑しながら息を吐き出すと、フィオーネはテーブルの上に置かれたネロの手のすぐそばへ、自分の指先をそっと滑らせた。
触れるか触れないかの、わずかな距離。
「……私はネロを信じてるから、大丈夫だ……」
誰にも聞こえないような小声。
彼女の眼差しには、冷たい上官の影は微塵もなく、ただ真っ直ぐな信頼だけが宿っていた。
「……そうか……そうだな……」
ネロは微かに笑い、テラスを吹き抜ける風が、二人の間の空気を優しく揺らしていた。




