第四十三話:休日の食卓と、肝の据わった義姉
ピピピピ、と。
ベッドサイドの時計が発する無機質な電子音で、ネロは重い目蓋を押し上げた。
「……ふぁ……」
カーテンの隙間から、穏やかな朝の陽光が差し込んでいる。
昨夜の冷たい雨が嘘のように晴れ渡った空。
ネロは一度大きく伸びをし、体内に燻っていたウイルスの熱が完全に引いていることを確認すると、手早く着替えを済ませてリビングへと向かった。
廊下を抜けた先。
漂ってくるのは、ベーコンが焼ける香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの香りだった。
「……おはよう、フィオーネ」
リビングに足を踏み入れたネロの足が止まる。
キッチンには、普段の隙のないダークスーツ姿ではなく、ラフな部屋着の上にエプロンを身につけたフィオーネの姿があった。
長い黒髪は邪魔にならないよう緩くまとめられ、フライパンを返すその後ろ姿は、都市の暗部で恐れられる『氷の調停者』とは対極にある、完全な「家庭」の風景そのものだった。
「……ああ。おはよう、ネロ」
フィオーネが火を止め、肩越しに振り返る。
「もうすぐ出来る。今のうちに歯を磨いて、顔を洗ってこい」
「……へぇい」
いつものように義姉に促され、ネロは洗面所へと向かった。
冷たい水で顔を洗い、タオルで無造作に顔を拭く。
鏡に映る自分の顔は、昨夜の泥と絶望に塗れたものとは違い、憑き物が落ちたようにスッキリとしていた。
ダイニングテーブルに戻ると、すでに二人分の朝食が湯気を立てて並べられていた。
椅子を引き、向かい合って食事を始める。
カリッと焼かれたベーコンを齧りながら、ネロはふと違和感に気づき、フォークを止めた。
「そういえば、フィオーネ。……仕事に行く準備、しなくていいのか?」
普段なら、食事の合間にもタブレット端末で資料に目を通したり、ダークスーツのシワを気にしたりしているはずの彼女が、今日はやけにゆったりとコーヒーを飲んでいる。
「ああ。……来週まで、休みだからな」
「……はぁ!?」
ネロの素っ頓狂な声が、穏やかな朝の食卓に響き渡った。
「なんかしたのか、あんた!?」
「何もしていない。ガロ総監からの指示だ。……あの地下での死闘の疲労もある。お前の看病をしてろ、と。だから、お前も来週まで休みだ」
「……そういうのは、昨日のうちに早く言えよぉ……。普段通りの時間に起きちゃったじゃんか」
ネロが力なく肩を落とし、ぼやきながらコーヒーカップに口をつける。
「何を言うか。休みだからと言って、だらけるのは感心せんぞ」
フィオーネはカップを置き、真っ直ぐにネロを見据えた。
「私なぞ、お前より毎日三十分も早く起きて、こうして朝食を作っているんだからな」
「……そりゃ、ありがてぇこった……。ホント、フィオーネは良い嫁さんになるよ」
何気なく、心からの感謝と共にこぼれ落ちた言葉。
その直後。
「…………」
カチャリ、と。
フィオーネがサラダを口に運ぼうとしていたフォークが、皿の上でピタリと止まった。
(……あ、やべ)
ネロの背筋に、冷たい汗が流れる。
昨夜の雨の中。
「世界で一番大事なんだ。女としてもだ」と、明確に告白めいた言葉を突きつけたばかりなのだ。
その翌朝に「嫁」という単語は、あまりにも直球すぎた。
テーブル越しに見るフィオーネは、俯いたまま微動だにしない。
だが、隠しきれていない耳の裏がみるみるうちに赤く染まり、テーブルの下で彼女の指先が、エプロンの裾をモジモジと弄っているのがはっきりと分かった。
「……そうか。……それは、良かったな……」
やがて、顔を上げずにぽつりと漏れたその声は、普段の平坦なものではなく、ほんのりと熱を帯びて甘く震えていた。
「……!?」
ネロは心臓を跳ね上がらせ、思わずコーヒーを吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
昨日あんなに激しく感情をぶつけ合ったというのに、この人はこんなド直球な言葉を平然と受け入れてくる。
この甘ったるい空気をどうにかしなければと、ネロは顔の熱を隠すように咄嗟に話題を切り替えた。
「……ま、まぁ……アレだ。フィオーネ、せっかくの休みだけど、どこか行く予定とかないのか?」
「……ないな」
食い気味の即答。
「ないんかいっ!」
ネロのツッコミに、フィオーネはようやく顔を上げ、不思議そうに小首を傾げた。
「急に言われても、別に何も思い浮かばんぞ。……せいぜい本を読むか、仕事の資料を作るか、お前の昼飯は何にするか考えるか、掃除か、洗濯か……」
「…………」
どこまでいっても「ネロの世話」と「仕事」で完結している彼女の生活圏に、ネロは頭を抱えたくなった。
「なんだ? 私の休日の過ごし方に、何か不満があるのか? 言ってみろ」
「……なんもねぇよ。……じゃあ、どこか一緒に出掛けるか?」
ネロが溜息まじりに提案する。
すると、フィオーネの瞳がパァッと明るくなり、微かに口角が上がった。
「……ふむ。いいだろう。……こないだ買った服も、まだ一度しか着ていなくて勿体ないと思っていたところだ」
「……こないだ買った服って……まさか、映画見に行った時の、アレか?」
ネロの顔が引きつる。
白のタイトセーターで胸の曲線を強調し、歩くたびに太ももが覗くスリットの入ったプリーツスカート。
普段の彼女からは想像もつかない、無防備すぎる私服。
「アレだな。ああいうのが好きなんだろう?」
「いやっ! ちょっとアレは……!! ちょっとホントにダメだって!!!」
ネロが身を乗り出して全力で拒絶する。
あんな格好で街を歩けば、すれ違う男たちの視線を一手に集めるのはもちろんだが――何より、昨夜の泥まみれの告白を経て、彼女をはっきりと一人の女性として意識してしまっている今のネロにとって、その姿を隣で直視し続けるのは、理性が焼き切れるほどに目に毒だった。
全力で拒否されたフィオーネは、ピタリと動きを止め、見る間に眉尻を下げた。
「……なんだ? 似合ってなかったとでも言いたいのか?」
しゅんと肩を落とし、捨てられた子犬のような視線を向けてくる義姉。
そのあまりの無自覚なあざとさに、ネロはたじろいだ。
「……別に、そういう意味じゃねぇよ……」
「……好きなら好きと言え。私相手に、別に遠慮は要らんぞ」
落ち込んでいたはずの顔から一転。
フィオーネは悪戯を見つけた子供のように、それでいてどこか艶やかな笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「……ッ!」
ネロは思わず視線を逸らし、顔を真っ赤にして天を仰いだ。
(昨日言った俺の動揺を、この人は完全に理解した上で遊んでるだろ……ッ!)
圧倒的な義姉のペース。
ネロの慌てる様子に、フィオーネは心底楽しそうに微かに息を漏らして笑うと、エプロンを外しながら軽やかな足取りで寝室へと向かった。
「さて、私が着替えてくる間に、どこに行くか考えておけよ」
「……へい」
パタン、と扉が閉まる。
一人取り残されたリビングで、ネロは赤くなった顔を両手で覆い、深々と溜息を吐き出した。
血と灰に塗れた過酷な運命の狭間で、ようやく彼らが手にした、確かな体温のある日常。
こうして、ネロとフィオーネの、甘くも振り回される二人だけの休日が幕を開けたのだった。




