第四十二話:雨に溶ける幻影と、泥塗れの告白
空は重く垂れ込め、冷たい雨が荒涼とした辺境の地を激しく打ち据えていた。
聖都ルメンティアの最果て、かつて『ベルガ』と呼ばれたネロの故郷。
四年の月日と風雨に晒された死の灰は黒い泥へと変わり、焼け落ちた家屋の残骸を無惨に浸食している。
装甲車を降りたネロは、雨を避ける素振りすら見せず、荷台から二本のシャベルを無造作に掴み出した。
レザージャケットを叩く雨音だけが響く中、彼は無言で廃村の奥へと歩き出す。
「……さぁ、行こう……」
「……あぁ」
私服の黒いレザージャケットを羽織ったフィオーネは、無言でシャベルを受け取り、泥に足を取られながらもネロの背中を追った。
激しい雨幕が視界を遮っていたため、彼女は気づいていなかった。
前を歩くネロの漆黒の瞳の奥で、理性を削り取る不吉な『灰光』が、雨の冷たさに反比例するように熱く、どす黒く明滅していることに。
やがて、二人は村の入り口から少し外れた、うっそうと茂る茂みの前に辿り着いた。
そこは四年前、フィオーネが「彼女の亡骸なら弔っておいた」とネロに告げた場所だった。
「……」
ネロは一切の言葉を発することなく、茂みの根元めがけて無心でシャベルを突き立てた。
ザクッ、ザクッと、重い泥を掘り返す鈍い音だけが響く。
フィオーネは手伝うこともできず、ただ唇を噛み締め、雨に打たれながらその背中を茫然と見つめていた。
数分後。
どれだけ深く、どれだけ広く掘り返しても。
そこにはただ、冷たい泥の層が続いているだけだった。
朽ち果てた布の欠片も、変色した白骨も。
死者の痕跡など、ひとかけらも存在しなかった。
「……何もない……?」
ぽっかりと空いた泥の穴を見下ろし、ネロが呆然と呟く。
その瞬間。
ネロの脳髄で、決定的なエラー音が鳴り響いた。
「……うッ……!」
ネロはシャベルを取り落とし、両手で頭を抱え込んでその場にうずくまった。
記憶の中に焼き付いていたはずの、姉の最期の姿。
それが突如として全体に靄がかかったようにぼやけ、激しいノイズとなってネロの視界を乱す。
「ネロッ!! もうやめよう!! トラウマを掘り返すようなものだッ!!」
私服のレザージャケットとスラックスを泥で汚すことも厭わず、フィオーネが駆け寄ってネロの腕を掴む。
「大丈夫だ!! 大丈夫だからッ……!!」
ネロはその手を乱暴に振り払い、今度は素手で、爪の間に血と泥を滲ませながら一心不乱に周囲の土を掘り起こし始めた。
「……っさん!! ……姉さんッ!! どこにいるんだよッ!!」
「……っ!」
正気を失ったように泥を掻き分ける義弟の姿に、フィオーネは両手で口を覆い、息を呑んだ。
「……なんで……なんでだよッ!! なんでだよッ!!」
泥まみれの両手で土を叩きつけ、ネロが叫ぶ。
そして、ゆっくりと振り返り、フィオーネを見上げた。
「……ネロ……?」
「……あの時の姉さんの……顔が……姿が……もう……何も思い出せないんだ……」
ネロの瞳から、雨に混じって大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「確かにあの時、あそこに居たのに……この手に……姉さんの温もりは、絶対にあったはずなのに……!」
すがりつくような、迷子の子供のような悲痛な泣き声。
「……やめよう……もう、これ以上お前が壊れるのを見てられない……」
限界だった。
フィオーネは彼を抱きしめるため、泥の中に膝をついて近づこうとした。
だが。
「……なんで……」
ネロの虚ろな瞳が、ゆっくりとフィオーネの顔に焦点を合わせた。
その瞬間。
頭の奥にこびりついていた靄が、冷たい雨に洗い流されるように薄れていく。
炎の中。
灰の降る村。
握っていたはずの手の感触が、思い出せない。
そこに誰かがいたはずなのに。
記憶の中の景色だけが、ひどく曖昧に滲んでいく。
「……ッ……!?」
何かがおかしい。
自分は本当に、誰かの手を握っていたのか――。
そして、記憶のさらに奥に、彼女は立っていた。
純白の防護コートを灰に汚し、赤熱する魔核熱剣を握りしめ――今にも泣き出しそうな顔で、自分を見ている女が。
胸を貫いた熱。
焼けるような痛み。
その刀身の向こう側で、ひどく苦しそうに唇を噛み締めていた顔。
『すまない、助けてやれなくて』
夢の中で何度も見た中性的な影に、目の前の義姉の輪郭が、ゆっくりと重なっていく。
「なんで……あの場に……『あんた』がいたんだっ……!!」
出逢った時のような、拒絶を孕んだ呼び方。
その言葉に、フィオーネの肩がビクッと跳ね、歩みが完全に硬直した。
「……………」
「……なんで……あんな苦しそうな顔で、俺を見てるんだ……フィオ姉……」
フィオーネの唇が、震える。
浮かび上がった絶望的な真実。
だが、その答えを認めてしまえば、四年間抱え続けてきた復讐も、姉のために生き延びた理由も、すべてが足元から崩れ落ちてしまう。
だからネロは、それを全力で拒絶し、叫ぶしかなかった。
「……ッ! なんでだっ……!! なんで黙ってるッ!! ……姉さんをどこに隠したんだ!! フィオーネッ!!」
ネロが泥を蹴立てて立ち上がり、義姉の肩を強く掴んで揺さぶった。
「……っっ!!! ……ネロ……」
「答えろ!! フィオーネッ!!」
怒号と悲鳴が入り混じった叫び。
フィオーネの冷徹な眼差しはすでに崩壊していた。
彼女の瞳から、堪えきれなくなった涙が堰を切ったようにポロポロと溢れ出す。
「……お前は、あの時……異形化して彷徨っていたお前は………」
フィオーネは震える両手で、自分の肩を掴むネロの腕をそっと包み込んだ。
「……お前の手には………誰も、握られていなかったよ……」
「…………え?」
「……異形化していたお前は……一人で、ただ『姉さん……』と繰り返して……虚空に向かって、何もない空間を握りしめるようにして、ヨロヨロと歩いていたんだ……」
「……嘘……だ……嘘だ……」
フィオーネの言葉が、崩れかけた記憶に冷たい輪郭を与えていく。
ネロはふらりと後ずさり、泥まみれになった自分の両の手のひらを見つめた。
そうしている間にも、彼を縛っていた『偽りの記憶』が完全に晴れ渡っていく。
「……ッ!? なんでッ!? なんで俺の手は、誰も握っていないんだッ!?」
「言っただろッ!!! 最初から、誰もお前は手を引いてなんかいなかったんだッ!!!」
雨音を切り裂く、フィオーネの悲痛な叫び。
あの日、姉はすでに別の男と逃げていた。
絶望に呑み込まれたネロはウイルスに感染し、理性を失って、すでにいない姉の幻影の手を引いて火の海を彷徨っていたのだ。
「……じゃぁ……あれは……あれは全部……俺の幻だったとでも言うのか……」
「………」
「……じゃぁ、姉さんは本当に、ユージンさんと一緒に俺を……置いて……?」
「……少なくとも、あの日のお前を置いて逃げたのは事実だ……」
ギリッと、フィオーネが奥歯を噛み締める。
沈黙が落ちた。
雨の音だけが、すべてを失った青年の耳に冷たく響く。
やがて。
「……ははっ……あははっ……!!! アハハハハッ!!!」
ネロは両手で顔を覆い、天を仰いで狂ったように笑い声を上げた。
「ネロッ!!」
「……滑稽だな……笑えよ……笑ってくれよ……!」
腹を抱え、泥に塗れて笑うネロ。
だが、その声は悲鳴以上に痛々しかった。
「姉さんの首を撥ねて、俺を殺したやつの正体が………俺の心臓をぶち抜いたやつが……『あんた』だったなんて……」
その言葉が、フィオーネの胸を最も残酷な形で抉った。
「……黙っていて、すまない……」
「……なんでだ!? どうしてだ!! なぜ言ってくれなかった!!!」
「……怖かったんだ……」
フィオーネは、私服の黒いレザージャケットの袖を泥に浸したまま、わなわなと震える自分の両手を見つめた。
「私はあの時……異形化して苦しんでるお前の……心臓を刺したんだ……」
「……だから、俺に謝ったのか………」
すまない、助けてやれなくて。
それは「異形から」ではなく、「人として」助けてやれなくて、という懺悔の涙だったのだ。
「…………いつか言おうと思っていたんだ……言おうと……」
フィオーネの声が、完全に崩れ落ちる。
「……でも……言えなかった……言えなかったんだ……!!!!」
「……どうしてだ………俺たち『家族』だろ……」
「『家族』だからだッ!!!」
フィオーネが泥の中に両膝をつき、顔を覆って絶叫した。
「だって……『家族』がこんなにも温かいなんて……私は知らなかったんだッ!!! 手放したくなかったんだッ!!!! お前がッ!! お前がッ!!! 私の空虚だった人生に入ってきてくれたッ!!!」
孤独だった氷の調停者が、初めて知った絶対的な居場所。
それを、自分が刺したという事実によって失うことの恐怖。
「お前に軽蔑されるなんて……考えただけでもッ……!!」
声を上げて泣き崩れるフィオーネ。
その泥に塗れた不器用で、身勝手で、あまりにも切実な告白を聞き終え。
「……ふざけんな……ふざけんなよッ!! 俺をそんな風に見てたのかッ!!」
ネロは厳しい声で言い放つと、泥の中を歩き、彼女の前に屈み込んだ。
「……ごめん……ごめん……ごめんなさいッ……」
「俺がそんな軽いわけないだろッ!! 見くびってんじゃねぇよ!!」
「……ネロ……?」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたフィオーネが、恐る恐る顔を上げる。
「見捨てるわけないだろッ!! 俺を誰だと思ってんだッ!! 俺が……俺が……俺がフィオーネの事をどれだけ大事にしてるのか、言わないとわかんなかったのかよ!!!」
「………」
ネロの怒号に、フィオーネは茫然と彼を見つめ返した。
「いいか!! 耳の穴かっぽじってよく聞けよ!! 俺はな!!! あんたの事が世界で一番大事なんだよッ!!! 家族としても!!!」
ネロはフィオーネの肩を強く掴み、彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……女としてもだ!!!」
その言葉の圧倒的な熱量に、フィオーネの呼吸が止まった。
「……ッ……私がお前を刺した事、恨んでないのか……?」
「……恨んでねぇよ。フィオーネが刺してくれたから、俺は異形から人間に戻れたんだ……」
ネロは、呆れたように、そして心の底から愛おしそうに、ニッと笑ってみせた。
「ま、ちっと痛かったけどな」
「……!」
張り詰めていたすべての糸が切れ、フィオーネの口から、泣き笑いのような、不器用な微笑みがこぼれた。
彼女はもう、氷の調停者でも、義弟を管理する保護者でもなかった。
ただの、彼に恋焦がれる一人の女の顔だった。
「……さぁ……帰ろう、フィオーネ。俺たちの家に……」
ネロは立ち上がり、泥まみれの手を彼女へと差し出した。
「そして、セリアが何考えてるのか突き止めて、止めないと……」
「……あぁ……お前となら、私はどこまでも付いて行くよ……」
フィオーネはその手を力強く握り締め、彼に引かれるままに立ち上がった。
「へっ……俺もこの手だけは、何があっても離す気はないから覚悟しろよ」
ネロは繋いだ手を強引に引き寄せ、泥に汚れた彼女の身体を自らの胸の中へと強く抱きしめた。
冷たい雨が打ち付ける中、二人の間にだけは、確かな熱が通い合っている。
「……やはり、お前の体温は安心するな……」
フィオーネがネロの広い胸に顔を埋め、安堵の吐息を漏らす。
「……俺もだよ、フィオーネ……」
すべてを失った虚構の底で、彼らは真実の絆を手に入れた。
雨に打たれながら身を寄せ合う二人を、冷たい辺境の風が静かに包み込んでいた。




