第四十話:虚構の残響と、壊れた復讐
ひしゃげた鋼鉄のハッチの残骸。
その上に立つ女の真紅の長い髪は、まるで先端が熱を帯びているかのように、静かな地下空間で微かに揺らめいていた。
「……姉さん……なのか?」
血と胃液を吐き散らし、自らの腕を壊すほどの限界を迎えたネロの口から、掠れた声が漏れる。
「久しぶりね。……水路で会った時は気付いてくれなくて、お姉ちゃん、悲しかったぞ?」
女――セリアは、コテンと首を傾げて微笑んだ。
冷たい極光色の瞳は一切の感情を帯びていないのに、その声色と口調だけは、四年前の「優しい姉」のままだった。
「……嘘だ……」
ネロは荒い呼吸のまま、首を横に振る。
「あの時、姉さんは奴に首を斬られて……灰の連中の仲間にっ!」
「だから、さっきも言ったでしょぉ? 私は誰にも殺されてないって」
「そんなはずはないッ!! 俺は、俺はあの時、確かに姉さんの手を引いて焼ける村を逃げ出そうと……ッ!!」
必死に記憶を手繰り寄せるネロ。
だが、セリアは残骸の上から見下ろしたまま、ふふっと肩を揺らした。
「誰かと間違えちゃったんじゃない? 私は当時の婚約者のユージンと、先に逃げてたわよぉ? ……ま、でもユージンもウイルスに適応できずに死んじゃったけどね」
「……は?」
ネロの思考が、完全に停止した。
焦点の合わない漆黒の瞳が、宙を彷徨う。
「……なに、そのがっかり顔ちゃんは?」
「あの時……俺が手を引いたのは、姉さんじゃなかった……?」
ネロの脳内で、欠落していたパズルのピースが歪な形で嵌まり込んでいく。
「さっきも言ったでしょぉ? 理解が相変わらず遅いなぁ。……悪いとは思ったけど、私はあのとき、ネロじゃなくてユージンを選んだのっ!」
「ユ、ユージンさんも俺を迎えに来なかった……! あの時、俺は家にいて……『逃げるよネロ』って、扉を蹴破って助けに来てくれた姉さんしか、記憶にないんだ……ッ!」
必死にすがりつくようなネロの叫び。
だが、セリアは心底不思議そうな顔で小首を傾げた。
「……私、そんな扉を蹴破るような行儀の悪い子じゃないよぉ?」
セリアは口元に手を当て、クスクスと喉を鳴らす。
「じゃぁ……あの時、俺の目の前で首を斬られた彼女は……一体、誰なんだ……ッ!」
「さぁね。それは私も知らない」
ニヤリと、セリアの口角が三日月型に歪んだ。
「でもでも、ネロちゃんが折角正解を求めて彷徨っていたのに、なーんにもご褒美ないってのは可哀想だから。……一個、答えをあげちゃおう♪」
「……ふざけるなッ!!!」
ネロを庇うように立ち塞がっていたフィオーネが、激しい怒声と共に『魔核熱剣』を構えた。
だが、その瞬間。
「……ぁ? 偽物は黙ってろよ。これは『家族』の問題だ」
セリアの極光色の瞳の奥に、幾何学模様の異様な光が浮かび上がる。
空気が、凍りついたのではない。
物理的な『死の重さ』となって、フィオーネの全身を押し潰したのだ。
純白の外套の下で、フィオーネの呼吸が止まり、構えた剣の切っ先がガタガタと震え出す。
圧倒的な次元の違い。
生物としての、絶対的な格の差。
「そうだ……家族だッ!! 家族なんだろッ!!!」
フィオーネは震える奥歯を噛み締め、必死に声を絞り出した。
「聞けば幼いネロを置いて、自分たちは二人で先に逃げてたそうじゃないかっ!!! そんなッ……!!! そんな家族があって堪るか!!!!!」
「ぁー……なに? あんた、もしかして孤児か、なんか?」
「……!? ……それがどうした!?」
「あー……やだやだ。これだから『家族』なんてものに夢見ちゃってさぁ」
セリアは心底つまらなそうに溜息を吐き、見下すような瞳でフィオーネを鼻で笑った。
「……何が言いたいんだ貴様ッ!!」
「口には気をつけろよ? 牛女」
セリアの冷ややかな一瞥が、フィオーネの豊かな胸元を舐め回すようになぞる。
「……まぁ、特別に教えてあげるよ。家族ってのはね? 血が繋がってるだけの、ただの他人なんだよ」
「……は?」
「みんなね、それぞれ人生ってやつがあるんだよ。過去の私には私の夢があった、それを私は選択した。ネロちゃんのことも当然『弟』として愛していたけど……『弟』だからねぇ。人生の危機が来たら、仕方ないことなんだよぉ」
言いながら、セリアは指先で目元を拭う仕草を見せた。
「……いやぁ、私って感動するくらい良い事言ってるなぁ……涙でてきた」
「……じゃぁ……ネロは今まで、何のために……」
フィオーネの声が、絶望に掠れる。
「……私の幻覚を追う、という夢を追っていたんじゃない? すんばらしいことだよ、うんうん」
「……こんなのが……こんな奴が、ネロの姉だなんて……」
「……脳みそお花畑女子ですかぁ? ネロちゃんに、その身体見られて、欲情しちゃったりしてたんじゃないのぉ? 人間なんて、みーーーーーんな、そんなもんだよ」
「…………ッ!!」
義弟への秘めた感情や、歪な独占欲。
そして添い寝の夜の記憶。
隠していた痛いところを正確に抉られ、フィオーネの顔が屈辱と羞恥、そして怒りで激しく歪む。
「はっ! 図星かっ!! よく私に文句言ったもんだよ牛女!! ……さてさて、ネロちゃんのご褒美の件だけど。……耳の穴かっぽじって、よーーーく聞きなよぉ?」
地に伏せたまま、ネロは焦点の合わない目で、ただ茫然と耳を澄ませていた。
「……おめでとうっ! 同僚の死の真相に、辿り着いたね!!」
セリアは残骸の上で、舞台女優のように両手を広げてみせた。
「……は? いまなんつった? ……どういう意味だ?」
「あらあら、相変わらずお口が悪い事で、お姉ちゃん悲しい。……えーと、ベラ……ちゃんだっけ? あの子……」
にやりと、セリアの冷徹な瞳が三日月に歪む。
「素直でおバカで、いい子だったねぇ……お姉ちゃんは、ああいうのがネロのお嫁さんだったら良かったのに……」
「……!? セリア!!! ベラに何したんだ!!!!」
ネロの叫びが響く。
セリアは人差し指を唇に当て、クスクスと笑った。
「わかんないかなぁ??? ネロちゃんの情報を漏らしたのは、私なんだよぉ?」
「……姉である……のにか?」
フィオーネが戦慄する。
「いやねぇ、未だに人間の社会でウジウジしてるネロちゃんを見てられなくてさぁ……。あのベラちゃんって子に、手紙を送ったの」
セリアは楽しそうに、当時の文面を空で読み上げる。
「『ネロは今未知のウイルスに浸食されて長くない。この事を貴女が信用できる人に教えて。でも、直属の上司やあの義姉はダメ。組織で一番正義感が強そうな人に相談して、その人だったら力を貸してくれるはず』……ってねぇ」
「……てめぇ……!!」
正義感が強く直情的なシオンを計算ずくで利用し、ベラを情報源へと仕立て上げた手口。
「そしたら、どうなったかは自分の身がよーーーくわかってるよね!? あとはベラちゃんにお礼を言いたいって呼び出して、大量の謝礼金と……リクトちゃんのお薬をぶすーーーっとね。……まぁ、彼女は適応できずに死んじゃったみたいだけどね? あー悲しい」
「ふざけんなッ!!! ふざけんなよバケモンが!! どうせお前も、セリア姉さんの姿を偽った偽物だろうがッ!!!!」
ネロは喉から血を吐くような絶叫を上げた。
だが、セリアは全く痛痒を感じていない様子で、頬に手を当てた。
「あーらら、信じてくれないんだねぇ、ネロちゃん……お姉さん悲しいなぁ……。じゃぁさぁ……」
にんまりと。
セリアの表情が、真の狂気を帯びる。
「その偽物が言う、私が埋まってる場所を掘り返してみたら? そしたら、自称・私の残りカスくらい、出てくるんじゃない?」
「…………ッ!!」
その言葉に、フィオーネの肩がビクッと大きく跳ねた。
四年前。
「彼女の亡骸なら、私が丁重に弔っておいた」とネロに告げたのは、フィオーネ自身だ。
だが、自分が弔ったあの首のない遺体がセリアでなかったのなら。
あれは一体、誰だったというのか。
フィオーネの目に見える動揺を、セリアは見逃さなかった。
「……ふふっ」
セリアは満足そうに笑うと、背を向けた。
「さって……リクトちゃんの成果物を見に来たけど、死んじゃってるし仕方ないね。私は帰って本でも読もうっと」
「逃がすとでも思ってんのか、偽物ッ!!」
ネロは血まみれの腕を床につき、ガクガクと震える足で無理やり立ち上がろうとした。
「あはは〜? 不完全者のくせに立ち上がれるんでしゅかぁ? しゅごいねぇネロちゃんは〜? じゃぁ、十数える間に立ち上がろうね〜?」
子供をあやすような声。
ネロは歯を食いしばり、戦棍を使うために酷使した右脚に力を込める。
だが、限界を超えた筋肉は悲鳴すら上げず、彼の身体は無様にバランスを崩し、再び自身の吐き出した血溜まりの中へ倒れ込んだ。
「……なーんだ、つまんない」
「……お前はそれでも、ネロの姉か!?」
フィオーネが、剣を握る手を白くさせながら吠える。
勝ち目などない。
それでも義弟を馬鹿にされることだけは許せなかった。
「……どうだろうね? 今やウイルスと完全適応した新人類だし……そこの失敗作くんの姉として見られると……セリアちゃん、とーーーっても複雑かもぉ?」
「……貴様ッ!!」
「まぁまぁ、そういいなさんなって。……今回だけは、見逃してあげるからさ」
「……どういうつもりだ……」
「……最近ダルセが暇そうだから、いい遊び相手になるかなぁ? って思ってね。うちのリーダーにもご褒美あげないと、人間だし退屈になっちゃうから。……ただ、それだけ」
「……ッ!」
圧倒的な強者の余裕。
彼らを生かしておくのは、単なる暇つぶしの玩具としてに過ぎないという宣告。
「じゃぁね、偽物さんと出来損ないの元弟よ。……次、もし会ったら殺してあげるから、楽しみにしてね」
セリアはヒラヒラと手を振り、そのまま真紅の髪を揺らして、楽しげな足取りで暗い通路の奥へと姿を消していった。
残されたのは、悪臭の漂う凄惨な空間と、全てを否定された二人。
「ふざけんなッ!!! 俺は信じねぇぞ!! 絶対に!!!!」
更地と化した地獄の底で。
血と胃液に塗れたネロの、喉が裂けるような叫びだけが虚しく響き渡っていた。




