第三十五話:崩れゆく記憶と、車窓の荒野
床板から、重たいエンジンの振動が絶え間なく伝わってくる。
荒れ果てた辺境の地を切り裂くように疾走する軍用車。その助手席で、ネロは浅い眠りの淵を漂っていた。
夢を見ていた。
四年前。姉の首が刎ねられた、あの日の記憶。
(……あぁ……また、この夢か……)
熱を出した時のような、ぐちゃぐちゃに濁った意識の底。
ネロは自分自身の夢を、まるで他人の映画でも見るようにぼんやりと眺めていた。
空気を裂く、鋭い風切り音。
スローモーションのように宙を舞う、姉の首。
そして、それを見下ろして凶悪な笑みを浮かべる、あの中性的な影。
(……待ってろ。もうすぐ、お前の首も同じようにしてやるからな……)
燃え盛る村の光景を前に、ネロは静かに憎悪を研ぎ澄ます。
だが。
網膜に焼き付いていたはずの映像が、突如として奇妙なバグを起こした。
地に落ちた、姉の顔。
こちらを虚ろな目で見ているはずのその表情が――ない。
顔のパーツが存在するはずの空間だけが、まるでテレビの砂嵐のように黒く、激しく乱れている。
(……なんだ、これは……)
理解が追いつかない。
直後、自分の胸に紅い刃が突き立てられる。
いつもなら、ここで犯人が凶悪な笑みを深め、胸を焼く激痛と共に夢は終わるはずだった。
だが、違った。
自分を貫いた犯人の顔。
黒い靄がかかったその輪郭の中で、口元だけに不自然なほど鮮明なピントが合う。
犯人の口角は、笑ってなどいなかった。
血が滲むほどに強く唇を噛み締め、小刻みに震えている。
それは、凶悪な笑みなどではない。
誰かを深くあわれむような、ひどく悲しそうな動きだった。
声は聞こえない。
だが、その唇の動きだけが、異常な解像度でネロの脳髄に直接刻み込まれた。
『……すまない……助けてやれなくて……』
その消え入りそうな呟きの直後。
犯人の頬を伝い、大粒の涙が雫となってこぼれ落ちるのを、ネロははっきりと見た。
「ハッ……!!」
ネロは大きく息を吸い込み、弾かれたように跳ね起きた。
胸に食い込んだシートベルトの感触と、カビ臭いエアコンの風。
そこが軍用車の助手席であることを認識し、全身からどっと冷たい脂汗が噴き出した。
「ハァッ……ハァッ……ハァ……」
「……大丈夫か。酷くうなされていたが」
荒い呼吸を繰り返すネロの隣。
ハンドルを握っていたフィオーネが、前方の荒野から目を離さぬまま横目で視線を向けてきた。
彼女は黒いレザージャケットの袖を微かに擦らせてギアを落とし、車の速度を緩める。
「……ハァ……あぁ……。大丈夫だ……」
ネロは額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げ、乾いた喉からどうにか声を絞り出した。
「……いつもの夢か?」
「……あぁ」
「……そうか」
フィオーネはそれ以上深くは追及せず、ただ酷く痛ましそうな、悲しげな色を瞳に浮かべて小さく息を吐いた。
『大丈夫ですよぉ、マスター! マスターにはフィオーネ様がいつだってついてくださるんですからぁ〜。ね? マスタ〜?』
重苦しく沈みかけた車内の空気をかき混ぜるように、後部座席で充電ケーブルに繋がれたモーディが、わざとらしいほど無邪気な電子音を響かせる。
「……ああ……そうだな……」
ネロは力なく相棒の言葉に応じると、窓枠に肘をつき、流れていく灰色の荒野の景色へと視線を投げた。
ガラス越しに映る自分の顔は、ひどく青ざめている。
(……なんで、泣いてた……?)
(なんで、あんな顔で……)
脳裏にへばりついて離れない、涙を流した犯人の口元。
だが、その真意を探ろうとしても、肝心の『顔』全体の記憶には分厚い靄がかかったようにピントが合わない。
(……くそっ……。これも、力の代償か……)
手にした理外の力。
魔獣ウイルスの侵食が、自分の最も大切な基盤である『記憶』を少しずつ、だが確実に喰らい尽くそうとしている。
記憶という自分の足場が崩れていく底知れぬ恐怖が、ネロの胸の奥で冷たく渦を巻いていた。
沈黙の落ちた装甲車は、情報屋のルッジェーロが待つ猟兵ギルド『錆びた牙』の拠点――防衛宿場村カンポ・ロッソへ向けて、荒野の土埃を上げながらただひたすらに走り続けていく。




