第三十四話:路地裏の双刃と、護るための停滞
「……トビアの仇……討たせてもらうッ!!」
言葉を終えるよりも早く。
男が動いた瞬間、視界がブレた。
普通の人間の脚力ではない。石畳を爆発的に蹴り上げ、一瞬でネロの目の前まで迫る。
闇の中で、二つの冷たい刃が交差した。
ネロの首と心臓を同時に狙う鋭い軌道。
だがネロは、上半身をわずかに捻ってその刃を紙一重で躱し、深く沈み込んだ体勢のまま、男の腹部へ重い蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
鈍い音が路地裏に響き、男の身体が後方へ弾き飛ばされる。
だが、男は空中で猫のように身を翻し、音もなく石畳に着地した。
強烈な蹴りをまともに受けたはずなのに、その動きには一切のダメージが感じられない。
「……トビア? ……!?」
その名前に、ネロの目がわずかに見開かれる。
地下の尋問室で毒を飲み、自害したあの巨漢。
男は低く身構えたまま、ひび割れたような声を絞り出した。
「……あいつは俺の数少ないダチだった……それを、お前らがッ!」
街灯の僅かな光を反射した男の瞳が、不気味な『灰色の光』に染まっている。
魔獣ウイルスの適合者。
「……ふざけんなよ」
腹の底から絞り出すような、ネロの低く冷たい声。
だが男はそれに構わず、再び石畳を蹴り上げた。
左右から間断なく振り下ろされる刃。
しかし、ネロの視線はそれを正確に捉えていた。
迫る刃の軌道を読み、手首を的確に叩いて致命傷を逸らしていく。
「……被害者ぶってんじゃねぇ!!」
怒りと共に放たれた、ネロの渾身の右拳。
男は首をわずかに逸らしてそれを躱すと、そのまま大きく後ろへと跳躍して距離を取った。
憎悪と軽蔑が入り混じった目で、男がネロを睨みつける。
「……知ったことか。俺たちは選ばれた存在だ!! お前らみたいな下等な連中と、同じ価値にしてくれるなッ!!」
「……てめぇ……!!」
ネロの右拳が、ギリリと音を立てて強く握り込まれる。
その瞬間。
ネロの黒い瞳の奥に、男と同じ、いや、それ以上に濃い『灰色の光』が灯った。
シャツの下で右腕の筋肉が不気味に盛り上がり、ネロの周囲の空気が重く、冷たく沈み込む。
「……お前はここで殺す……!!」
男が双剣を構え、脚の筋肉を異常に膨れ上がらせる。
「俺も同意見だよ!」
ネロが低く腰を落とし、互いの殺気がぶつかり合おうとした、その時だった。
「局員さん! こっちです!! 争う声がっ!!」
路地の入り口から、市民の焦った声と、警備部隊のけたたましいサイレンが響き渡った。
赤と青のランプの光が、暗い石畳をチカチカと照らす。
「……チッ……!!」
男は舌打ちをし、出口とネロを交互に睨みつけた。
「ネロ、覚えておけ!! 俺はブルーノだ!! お前は俺が必ず殺す!!」
「逃がすかよ!!」
ネロが飛び出そうとした瞬間、ブルーノが爆発的なジャンプ力で建物の壁を蹴った。
一瞬で三階建ての屋根の上へ飛び乗り、そのまま夜の闇の中へと姿を消してしまう。
「……くそっ……!!」
暗い空に向かって、ネロの苛立った声が響く。
建物を飛び越えて追うだけの力は、今のネロにもある。
だが、振り返れば、モーディの金属の腕に抱えられたまま、静かに眠り続けるフィオーネの姿があった。
(……まだ他に敵が隠れているかもしれない。……フィオーネを置いて追うわけにはいかない……ッ)
ネロは深く息を吐き出し、強く握り込んでいた拳をゆっくりと解く。
腕に集めていた異常な熱が引き、瞳の灰色がいつもの黒へと戻っていく。
その直後、数人の警備局員たちが路地裏へ駆け込んできた。
ネロは瞬時に「人当たりの良い青年」の顔を作り、身分証を見せて状況を説明する。
周囲の警戒を彼らに引き継ぐと、モーディから眠るフィオーネを受け取り、自分の背中へと背負い直した。
微かなお酒の匂いと、甘い香りを漂わせる彼女の寝息。
それを背中に感じながら、ネロは静かな夜の道を家へ向かって歩き出した。
* * *
静まり返ったアトラス家のリビング。
ソファに寝かされていたフィオーネが、ゆっくりと目を開けた。
『お目覚めですかぁ? いやぁ、フィオーネ様がスヤスヤ寝てる間に、外は大変だったんですよ〜。ね? マスター』
足元で光を点滅させるモーディの声に、フィオーネはわずかに眉を寄せ、ズキズキと痛むこめかみを押さえる。
「……私、何かおかしな事を言ったか?」
お酒のせいで記憶が途切れている彼女は、自分が何か失敗をしたのだと思ってネロを見上げた。
だが、キッチンからコップの水を持って現れたネロの顔は、いつもの穏やかな青年のものではなかった。
路地裏での襲撃について短く聞かされた瞬間。
フィオーネの瞳からお酒の酔いが完全に抜け落ち、鋭く冷たい光が戻った。
「……私が寝ている間に、そんなことが……」
ギリッと、彼女の奥歯が鳴る。
ネロが命を狙われている時に、自分は無防備に眠っていた。
その事実に対する自分への激しい怒りが、彼女の声を低く震わせている。
「……どこで俺の顔と名前がバレたんだ……くそっ」
ネロが苛立ちながらテーブルにコップを置く。
だが、フィオーネは冷たい声ですぐに答えた。
「決まっている。……あの辺境の村で、三人組に襲われた時だ」
「……どういうことだよ。尋問室に連れて行く時だって、別に顔を……」
「対策局に何人の人間が働いていると思っている? 本部の警備だって半端じゃない。わざわざ見つかるリスクを冒してまで、ルメンティアの中心にお前の顔を確認しに来るとでも?」
フィオーネの冷静な分析に、ネロは言葉に詰まる。
「……でも、なんであの村だってわかるんだ?」
その問いに、フィオーネは膝の上に置いた両手を強く握りしめた。
力の入った指先が、かすかに震えている。
「……あの村は……」
「……どうした? 言いたくないなら、無理しなくていいぞ?」
ネロが声を和らげる。
だが、フィオーネは顔を上げ、逃げずに真っ直ぐネロを見た。
「……過去にもあったはずだ。今回のように、あの村が奴らの実験場として使われたことが。当然、その結果を見守るために、あの時も幹部が物陰に隠れていたと考えるのが自然だ」
その言葉が、ネロの頭の中でバラバラだった情報を冷たく結びつけた。
「過去にも……? ……それって……」
『……マスターの、故郷の村の事ですね……』
モーディの静かな声が、部屋の空気を完全に凍らせた。
『ネロ』という名前まで知られていたのなら、局内に情報を流した内通者がいると考えるのが自然だ。
そして、奴らが執拗にネロを狙う理由。
それは、彼が四年前の事件の生き残りであり、奇跡的にウイルスに適応した存在だと知っているからではないか。
「…………そうか……!!」
ネロの顔が、ゆっくりと歪んだ。
怒りではない。
暗闇の中でずっと探していた獲物を、ようやく見つけたような凄まじい笑み。
「姉さんの……あの夜の地獄を作ったのは、奴らだったのか……!!!」
ひび割れた声が響く。
「……ネロ……」
「……上等だ。向こうから来てくれるなら、探す手間が省ける……!!」
狂気すら混じったネロの笑みに、フィオーネは痛ましそうに息を呑み、モーディも言葉を失った。
(……姉さんの最期の顔は、もう思い出せないが……)
ネロは強く拳を握り込む。
頭の奥が軋み、一番大切だったはずの記憶が少しずつ曖昧になっていく。
だが、胸の奥で燃えるこの黒い炎だけは、決して消えることはない。
(……待ってろよ、姉さん。あの夜を作った奴らを、必ず俺が引きずり出してやるからな……)
虚空を睨みつけるネロの黒い瞳の奥で、不気味な『灰色の光』が揺れている。
静まり返った部屋の中。
見えない破滅への足音だけを響かせながら、聖都の夜は深く更けていくのだった。




