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【全話執筆済】『孤独になった俺を、彼女は最後まで家族と呼んだ』  作者: ブヒ太郎


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第二十四話:無知という平穏と、手放せない温度

ベラの無惨な死から数日後。


聖都ルメンティアの中心にそびえるアウレリア魔獣災害対策院(A.D.R.I.)の中央塔。その中層に位置する情報分析課のフロアには、いつもと変わらぬ平和で無機質なタイピング音が響いていた。


「急に故郷に帰るなんてねぇ。今度また会えたらいいな」

「送別会くらいしたかったよなー」


アリアやエリオをはじめとする同僚たちは、ベラが急に退職したという表向きの発表を微塵も疑うことなく信じ切り、休憩時間に屈託なく笑い合っている。


ネロは「そうですね」と人当たりの良い好青年の顔で相槌を打っていたが、その漆黒の瞳の奥は氷のように冷え切っていた。


真実を知るネロとフィオーネからすれば、その呑気な会話はあまりに残酷で、吐き気がするほどのギャップだった。だが、局内にベラを死に追いやったスパイが潜んでいる以上、彼らもまた何も知らない「普通の事務員」として擬態し、普段通りに仕事をこなすしかなかった。


二人の専用執務室。


静まり返った室内で、カタカタと書類の処理を進めていた時だった。


コンコン、と。重厚な扉がノックされる音が響いた。


「…どうぞ」


フィオーネが書類から目を上げずに冷徹な声で応じると、扉がゆっくりと開かれた。


「やぁ、フィオーネくん。ちょっとベラ君がいなくなってから、僕の事務仕事が回ってなくてね。ネロくんの手を借りてもいいかな?」


そこに立っていたのは、汚れ一つない純白のスーツを着こなしたルカ・グラディ管理官だった。綺麗に整えられた金髪と、慈愛に満ちた温和な笑みは、いつも通り完璧に顔に張り付けられている。


「ご随意に」


フィオーネが短く許可を出すと、ネロは椅子から立ち上がり、模範的な好青年の笑顔を作ってルカへと向き直った。


「いやぁ、助かるよホント。じゃぁネロくん、この資料なんだけどさ、今週中にアロンゾ主席に提出しないといけないんだけど、頼めるかな?」


「はい、お任せください」


ネロは両手で丁寧に書類を受け取る。


だが、ルカはそのまま執務室を出ていくことはなく、バイオレットの瞳をスッと細めてネロの顔を覗き込んだ。


「…ベラ君の事、残念だったね?」


(……っ!)


ネロの心臓が不快な音を立てて跳ね上がる。


ルカは表向きの管理官であると同時に、ヴィクセドにおいてはネロたちを束ねる『調律官』の顔を持つ男だ。純粋な善意からの心配か、それともただの興味本位か。


「………なんのことでしょう?」


ネロは一切の感情を顔に出さず、ただ不思議そうな笑みを浮かべてみせた。


だが、ルカは飄々とした態度のまま肩をすくめる。


「…あはは、しらばっくれても無駄さぁ。キミ、彼女と仲良かっただろ。僕にはいつかキミとベラくんが付き合うんじゃないかと気が気でならなくてねぇ」


無神経に響くその軽口。


地下の冷たい解剖台に横たわっていた、ベラの無残な肉塊。この男はそんな真実を知る由もなく、ただの下世話な興味本位で彼女の不在を茶化しているだけなのだ。


ネロは愛想の良い笑みを顔に貼り付けたまま、デスクの下で自分の太ももを掴む指が、白くなるほどにギリギリと力を込めていた。


無知ゆえの平穏さが、今のネロには吐き気がするほど耳障りだった。


「…あはは…そんなことありませんよ。現にベラは故郷に帰ってますし…」


「…そっかぁ…いやぁ、もしキミがベラくんに興味があったら、内密に彼女の電話番号を調べさせようと思ってたけど…」


ネロの背中に冷たい汗が流れる。


悪気のない言葉であっても、局内の人間を誰一人として信じるなというカルロの警告が、脳裏に重く響き渡る。


「…必要ありませんよ…」


ネロの声の温度が僅かに下がりかけたその時。


見かねたフィオーネが静かに、しかし絶対零度の威圧感を込めて割って入った。


「…ルカ管理官。ネロが困っておりますので、その辺で」


「失礼…じゃぁ、よろしく頼むよ」


フィオーネの介入を受け、ルカは特に気を悪くした様子もなく、機嫌よく微笑んだまま部屋を出ていった。


重厚な扉が閉まり、完全に二人の空間になったことを確認した瞬間。


ネロはどっと疲労を感じて椅子に深く沈み込み、重い溜息を吐き出した。


「……ハァ…何も知らないってのは気楽でいいな…」


「そうだな……今回の事件は極秘案件だ。知らないほうが普通だ…」


フィオーネは視線を書類に戻し、ペンを走らせながら淡々と同意した。


だが、その平穏な沈黙を切り裂くように、ネロの私用端末に暗号化されたコール音が鳴り響いた。


発信元は、ヴィクセドの凄腕ハンドラーであるアロンゾ主席総括官だ。


「はい、ネロです」


通信に出たネロの耳に、アロンゾの神経質で抑揚のない声が届く。


その内容は、辺境の村の近くでまた『変異した死体』が見つかったため、ネロに調査へ向かえという極秘の指令だった。


「…わかりました…その現場、フィオーネとモーディも連れていってもいいでしょうか?」


だが、ネロは指令をそのまま受諾せず、強引な要求を突きつけた。


先日の検死室で、アロンゾは今回の情報漏洩のスパイ容疑者の一人として、フィオーネの名前を挙げていた。


だからこそ、この調査は彼女には絶対内密に進めるべき極秘任務のはずだ。


案の定、通信機越しにアロンゾの困ったような声が上がり、なぜ容疑者である彼女に話を漏らし、あろうことか同行までさせるのかと問い質す気配が伝わってくる。


「…はい…申し訳ありませんが、義姉には既に話を通してあります…」


少し声を潜め、ネロは事もなげに事実を告げた。


彼は昨夜のうちに、上層部の意向を完全に無視して、最も信頼する義姉に事件の全容と局内にスパイが潜んでいることをすべて打ち明けていたのだ。


容疑者に情報を漏らすなど言語道断の命令違反であり、アロンゾは通信機越しに絶句して激しく難色を示しているようだったが、ネロの決意は揺るがなかった。


「…本当にすいません…ですが、彼女は俺の家族なんです…ここに一人で置いておくほうが不安です…」


ネロの視線は、無言で書類に向かうフィオーネの細い背中をじっと捉えていた。


局内にスパイが潜んでいるかもしれないこの状況。もし自分が都市を離れた隙に、彼女がベラと同じようにテロ組織の標的にされたら。


背中に重なる無残な肉塊の幻影が、ネロの理性をひどく急き立てていた。


ネロの異常なまでの執着と切実な声に根負けしたのか、通信機の向こうでアロンゾは渋々といった様子で同行を承認した。


だが同時に、これから向かう辺境の現場も決して安全とは言えないのだぞ、と危惧するような忠告が添えられる。


「……その時は、俺の手の届く範囲に彼女を置いておきたいので…はい……ありがとうございます」


万が一の事態になろうとも、絶対に自分の視界の中で護り抜く。


ネロはそうはっきりと覚悟を口にし、アロンゾから目的地を聞き出すと深く息を吐き出して通話を切った。


一部始終を聞いていたフィオーネが、万年筆を置いて静かに問いかける。


「…任務か?」


「…あぁ…辺境の村の近くでまた変異した死体が見つかったそうだ…それで俺に調査依頼が…」


自分が連れて行かれる理由も、ネロがアロンゾに語った不器用なほどの過保護さも、フィオーネは痛いほどに理解していた。


彼女の瞳から氷の分析官としての冷徹さがスッと溶け、ただ愛する弟を案じる義姉の顔が浮かぶ。


「…なるほど、話は見えた。デポから私の装備と、モーディの魔核エネルギーのストックを用意させよう」


彼女は一切の文句を言わず、すぐさま自らの暗号端末を操作し、戦闘の準備に取り掛かった。


どんな危険な戦場であろうと、彼が望むならその背中を護る。それが彼女の誓いだからだ。


「…あぁ…行こうか…フィオーネ」


ネロは立ち上がり、漆黒の瞳に都市の暗部で生きる執行官としての冷酷な光を宿した。


そうして、二人はスリープモードから起動した多脚機・モーディを連れて、中央塔の地下にある秘匿出撃口へと向かった。


重装甲の軍用車に乗り込み、魔導機関の低い駆動音を響かせながら、彼らは新たな惨劇の舞台である辺境の村へと向かって発車したのだった。

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