第二十三話:悲哀の夜と、震える体温
冷たい解剖台の上に横たわっていた、異形の肉塊。
ほんの数日前まで、屈託なく笑っていた同僚の顔。
アトラス家のリビングでは、フィオーネが腕によりをかけて作った夕食が、手つかずのまま完全に冷めきっていた。
ネロは自室の暗いベッドの上に力なく座り込み、窓から差し込む青白いマナ・ランプの光を、ただ焦点の合わない目で眺めている。
「……」
どれほど時間が経ったのか。
部屋の隅で、足元の多脚機が心配そうにモノアイを揺らし、おずおずと電子音を響かせた。
『マスタァ、今日はどうされました? フィオーネ様が作ってくれたご飯に手をつけないなんて……』
「……ちょっと、色々あってな……」
罪悪感に喉を塞がれ、ネロの口からひどく乾いた擦れ声が漏れる。
その時。
トントン、と遠慮がちなノックの音が響き、扉がゆっくりと開かれた。
「……入るぞ、ネロ」
「……フィオ姉……なんか用?」
ネロが緩慢な動作で視線を向ける。
扉の前に立つフィオーネは、虚ろで生気のない義弟の漆黒の瞳を見て短く息を呑み、ひどく心配そうな表情で歩み寄った。
「……何があった」
「……」
ネロは答えられない。
ベッドのシーツを掴む彼の手が、白くなるほどにギリギリと握り込まれる。
自分が都市の暗部にいなければ。
自分の秘密が漏れなければ。
彼女は、あんな死に方をしなくて済んだのだ。
その確かな自責の念が、彼の呼吸を浅く、不規則にさせていた。
理由を語れず、ただ俯いて肩を震わせる義弟。
フィオーネはそれ以上何も問わず、迷いなくベッドの傍らへ膝をつくと、その頭を自らの柔らかな胸元へと真っ直ぐに抱き寄せた。
「大丈夫か? ネロ」
頬に触れる、豊満な胸の柔らかさと微かに甘い香り。
その絶対的な安心感に包まれ、ネロの極限まで強張っていた心の糸が悲鳴を上げた。
「……俺が……」
「……お前が、どうした?」
「……俺が、この街にいるから……ベラが……」
フィオーネの腕の中で、絞り出すような後悔と嗚咽がこぼれ落ちる。
「…………そうか」
フィオーネは、震えるネロの背中へと腕を回し、外界のすべてから彼を護るように、さらに強くその身体を抱きしめた。
「……話せない事なら、無理に話さなくていい……。だが、私はお前の傍にずっといる」
その不器用で、ひどく真っ直ぐな体温に、ネロの張り詰めていた感情が決壊しかける。
重苦しくも親密な二人の空気を察知し、部屋の隅にいたモーディがガシャガシャと金属の脚を鳴らした。
『……マスター、僕、急に廊下で寝たい気分なんで。部屋の外でちょっと電源落として寝てますねぇ』
普段は空気を読まない最新鋭のAIだが、今はそそくさと器用に部屋を出ていく。
パタン、と。
扉が静かに閉まる音が響いた。
「……モーディのやつ……相変わらず変なとこで気が利くな……」
義姉の温もりにすがりつくように、ネロがフィオーネの細い背中をゆっくりと抱き返した。
「……ベラが……」
「……話せ」
フィオーネの静かな促しに背中を押され、ネロはぽつりぽつりと、今日地下の検死室で目の当たりにした惨劇を語り始めた。
ベラが情報を流すスパイに仕立て上げられ、非人道的な実験の果てに異形へと変貌させられていたこと。
凄惨な事実を、フィオーネはただ黙って受け止めていた。
「……そうか……そんな事が……」
「フィオーネ。……局内にスパイがいるかもしれない……何かあれば、すぐに俺に言ってくれ」
ネロは顔を上げ、フィオーネの瞳を真っ直ぐに見据えた。
局内の誰かがテロ組織に情報を流している。
その見えない悪意から、最も信頼する『家族』を護るために、ネロは強く念を押す。
その真っ直ぐな瞳を見つめ返し、フィオーネは小さく息を呑んだ。
「……わかった。何かあればすぐにお前に言おう」
深く頷いた彼女は、やがて氷の調停者の顔を完全に溶かし、愛おしそうに、ひどく優しく微笑んだ。
「……しかし、お前は本当に私の事を信じてくれているな……」
自分もまた、容疑者の一人として疑われてもおかしくない立場にいる。
だというのに、ネロの瞳には微塵の疑念もなく、ただ純粋に彼女の身を案じる色だけが浮かんでいた。
「俺がフィオーネの事を信用しないなんて、この先もあり得ないよ」
「……そうか……ありがとう、ネロ……」
揺るぎない信頼に、フィオーネは嬉しそうに目を伏せた。
夜も更け、冷たい風が窓を叩く。
ネロは重い空気を少しでも払拭しようと、小さく息を吐き出して身を離そうとした。
「……さぁ、今日はもう寝ようか……」
「……今日は、一緒に寝てもいいか……?」
「……なに言ってん……」
ネロは驚いて動きを止めた。
かつて、魔獣ウイルスの反動で熱を出した時は「添い寝だ」と強引にベッドに潜り込んできた彼女だが、今の声は全く違った。
ネロの背中に回されたフィオーネの指先が、彼のシャツの生地をギュッと掴んだまま、微かに震えていたのだ。
「……お前が傍に居てくれる事で、私も……少し弱くなったのかもな……」
消え入りそうな声。
彼女の瞳の奥には、局内に潜むスパイの影や、ネロの命が狙われているという事実によって、ようやく手にした『家族』を再び喪ってしまうかもしれないという、隠しきれない怯えが揺らいでいた。
「……大丈夫だ。フィオーネが弱くなった分、俺がその分強くなるから」
そう言って、ネロは震えるフィオーネの肩を引き寄せ、今度は自分から彼女を優しく抱きしめた。
かつて辺境の村で助けられたあの日から、今度は自分が、彼女の不器用な心を守る番なのだと誓うように。
「……ありがとう……ネロ」
冷たい風が窓を叩く中、二人はお互いの体温だけを確かな拠り所にするように、同じベッドで静かに身を寄せ合った。
* * *
そして、その頃。
扉を隔てた暗い廊下では。
『……なんだか、キナ臭い事になってきましたねぇ……』
電源を落として寝ると宣言していたはずのモーディが、多指向性センサーを全開にし、扉越しに二人の会話を全て受信していた。
鈍色の機械は、都市の暗部で蠢く底知れぬ悪意を静かに演算し、暗闇の中でモノアイを冷たく光らせていた。




