第二十二話:消えた同僚と、浮上する裏切り者
大通りでのシオンとの衝突と、その後の映画デートの誤魔化しから二日後。
アウレリア魔獣災害対策院(A.D.R.I.)の中央塔。
その中層に位置する情報分析課のフロアには、今日も平和で無機質なタイピング音が響いていた。
未決書類の束を抱え、フィオーネの執務室へと足を運んでいたネロの背中に、軽い調子の声が掛けられた。
「よぉ、ネロ。聞いたか?」
「…ん? エリオか。何の事だ?」
振り返ると、ひょろりとした長身に、いつものように寝癖をつけたままの茶髪の同僚事務員――エリオが立っていた。
ゴシップ通である彼は、どこか物足りなさそうな顔で肩をすくめる。
「ベラちゃんの事だよ。なんか急に、故郷に帰ることになってなぁ」
「そうなのか…。じゃあ、今度送別会でも開いてやらないとな」
いつも明るいボブヘアを揺らしてネロたちをからかっていた女性局員、ベラ・コンティ。
彼女が急に退職するという話に、ネロは少し驚きながらも、人当たりの良い好青年の顔で微笑んだ。
「いや、それがなんだか急ぎの用ってことで、もう仕事やめて帰っちゃったみたいでさ」
「…そうか。…仕方ないな」
少し残念そうに笑い合う二人。
そんな時だった。
急にネロの背後から静かな声がかけられた。
「ネロくん、ちょっといいかな」
「アロンゾ主席。…どうされました?」
そこに立っていたのは、情報分析課のトップである痩せ型の男――アロンゾ・ベラルディだった。
カチャリ、と細い指で眼鏡のブリッジを押し上げる。
そのレンズの奥の瞳には、普段の温厚な事務官の顔は微塵もなく、都市の暗部を生きる者特有の冷徹な光が宿っていた。
「少しキミに見てもらいたいものがあるんだ。あとでここに来るように」
アロンゾは周囲の一般局員たちの目から完全に死角となる極めて自然な動作で、ネロへ一枚の書類を手渡した。
それを見ていたエリオが、横から口を挟む。
「…なんだぁ、ネロ。物流倉庫なんかに呼ばれて…」
「…ははは、なんか重いモノでも運んでほしいのかねぇ」
エリオへ向けて、ネロは適当な苦笑いを返した。
しかし、その瞳の奥からは既に「好青年」の温度が消え失せている。
手渡されたのは一見ただの業務指示書だが、特定の文字列を拾うと、ガロ総監の部下にしか知らされていない暗号が浮かび上がる仕組みになっていた。
その内容は――。
【至急、検死室に来るように】
背筋を冷たい風が撫でるような嫌な感覚。
ネロは悪い予感を胸に、一般局員の立ち入りが厳しく制限された地下の検死室へと向かった。
* * *
重厚な防音扉を開けると、消毒薬の鼻を突く匂いと、霊安室特有の凍てつくような冷気がネロを包み込んだ。
検死室の中央には無機質な解剖台が置かれ、その周囲にはアロンゾと、腕を組んで目を伏せるカルロ、そして壁際で忌々しげに舌打ちをするシオンが居た。
「失礼します…。どうしてここに先生と…なんでお前が!?」
「よぉ、来たかネロ」
「…チッ…」
ネロの姿を認め、シオンは露骨に視線を逸らす。
つい二日前、大通りでネロの圧倒的な暴力を受けて地に這いつくばったばかりだが、その冷徹な横顔には、あの時以上の苛立ちと後悔の色が濃く滲んでいた。
「…シオン第二隊長は、彼女と面識があったそうだからね…」
アロンゾが眼鏡の中央を押し上げながら、静かに告げる。
「…彼女…?」
「…ネロ…。今から見せるものに動揺するんじゃねぇぞ」
カルロはいつもの陽気な笑みを完全に消し去り、解剖台の横に立つと、遺体に被せられていた白いカバーをゆっくりと外した。
「……!? …これは人の…異形の死体…ですか?」
カバーの下から現れたのは、もはや人間の原型を留めていない凄惨な肉塊だった。
無理やり繋ぎ合わされたような筋肉組織。
硬質な殻が皮膚を突き破り、幾つもの動物の部位が雑に縫い合わされたかのような、冒涜的なキメラ。
ただ魔獣に襲われて死んだのではなく、明確な悪意と狂気を持った何者かの手によって「改造」された痕跡がそこにあった。
「…そうだ」
「…昨日、川で浮かんでるのを一般市民が発見してな。…人らしきものが浮かんでると」
重苦しい空気の中、シオンが淡々と経緯を口にする。
「…なるほど…可哀そうに。…………嘘…だ…ろ…」
ネロは惨状に目を細めた。
だが、異形の頭部付近にわずかに残された、明るい色に染められたボブヘアの髪の束と、見覚えのある制服の切れ端に気づき、言葉を失った。
「…気付いたかね…」
「……ベラ……」
その異形が、ほんの数日前まで自分たちを笑顔でからかっていた同僚のベラだとわかった瞬間。
ネロの顔から血の気が引き、だらりと下げた拳がわなわなと震え始めた。
「…口封じついでに実験体にされたんだろうな…」
「…どういう意味だ…!」
シオンの冷徹な推測に、ネロが怒気を孕んで噛み付く。
シオンは逃げることなく、ネロの漆黒の瞳を真っ直ぐに見据え返した。
「…お前の身体の情報を私に教えてきたのは彼女だ」
「…そんな…。俺の秘密を知ってるのなんて、ガロ総監に先生にアロンゾ主席と義姉のフィオーネ、モーディくらいのはず…」
ネロが魔獣ウイルスの適合者であるという事実は、局内でも最高機密だ。
一介の事務員であるベラが知るはずのない情報だった。
「…俺も、ちと気になって、あのあとシオンを問い詰めて彼女の裏を探っていたんだがな…。隠れるのが上手いようで何も出て来ちゃこねぇ…」
カルロが頭を掻きながら、重々しい声で補足する。
ベラは何者かに唆され、あるいは情報を掴まされて、シオンへとネロの情報を流す役割を担わされていた。
そして用済みとなった後、名も知れぬ狂気を孕んだ何者かによる非人道的な人体実験の素材として解体され、川へ捨てられたのだ。
ネロはゆっくりと解剖台に歩み寄り、冷たく硬直したベラの異形の手を両手で包み込むように握った。
「…ごめんな…ベラ。………巻き込んじまって……」
噂好きで少しお節介なだけだった、普通の女の子。
彼女がこんな地獄のような苦痛を味わって死ななければならなかった理由が、自分にあるという事実が、ネロの胸を深く抉り取る。
「…ネロ、今後局内の人間にスパイがいると思え。どこで話を聞いてるかわかったもんじゃねぇ」
「………」
カルロの厳しい忠告に、ネロはただ沈黙したままベラの手を握りしめていた。
すると、壁際に立っていたシオンが音もなく歩み寄り、ネロの背後で立ち止まった。
「………私が……情報源を疑わなかったから、こんな事に…。すまなかった」
私情を挟まず、他者に頭を下げることなど絶対にないはずの冷徹な執行官。
そのシオンが、ネロに対して深々と、屈辱と後悔を込めて頭を下げていた。
己の独断と直情が、結果として無関係な一般局員を惨たらしい死へ追いやったという事実を、彼は重く受け止めていたのだ。
シオンの謝罪を背中で聞きながら、カルロが思考を巡らせる。
「シオンの直情的なクソ真面目な性格をよく把握してるやつか…」
「……今や技術局長になったレイン君と…フィオーネ君くらいか…」
アロンゾが眼鏡を押し上げ、局内でシオンのことをよく知っている人間として、二つの名前を静かに挙げた。
「義姉さんがこんな事に加担するわけないだろっ!!」
ネロが弾かれたように振り返り、激しい怒声でアロンゾを睨みつける。
彼女がどれほど不器用で、どれほど自分という「家族」を愛してくれているかを、ネロは誰よりも知っている。
「じゃぁ、レインだって言いたいのか?」
「…くっ…それは………」
カルロの反問に、ネロは言葉に詰まった。
飄々として掴みどころのない技術局長のレイン。
彼がテロ組織と通じているという明確な証拠はないが、否定しきれるだけの材料もネロにはなかった。
「…犯人の狙いはなんなんだろうね……」
「私とネロをぶつけさせる…。ネロの実力を把握した上で私にぶつけるなら、局の戦力を削りたい…?」
アロンゾの疑問に、シオンが自身の分析を述べる。
「…とりあえず、今考えてもわかんねぇよ。ひとまず、今後何かあったら全員一旦ガロのおっさんに報告するように」
「…わかりました………」
「…了解」
「私の方でも何か部内で変わったことがあればすぐに報告しよう」
これ以上議論しても答えは出ないと判断したカルロがその場を締めくくると、シオンとアロンゾも短く同意した。
重い沈黙が検死室に降り下りる中、ネロは再びベラの無惨な遺体の前にひざまずいた。
「………本当にごめんよ。………仇は……必ずっ…!!!」
握りしめた彼女の手を自らの額に当て、ネロは静かに、けれど絶対の殺意を込めて誓いの言葉を吐き出した。
拳を力の限り、ギリギリと骨が鳴るほどに握り込むネロ。
その右腕の皮膚の下。
極度の怒りと憎悪に呼応するように、理性を喰らい尽くすウイルスの力がどす黒く脈打ち、異常な筋肉の隆起として浮き出ていることに、室内にいた三人の誰もが気付いていた。
だが、その哀しくも凄絶な復讐の決意を、彼らは止めることができなかった。




