第十九話:約束の休日
休日の朝。
中級居住区のアトラス家。
リビングで待っていたネロは、普段着の黒シャツの上に茶色のレザージャケットというラフな装いで、義姉の準備が終わるのを待っていた。
やがて、寝室の扉が開く。
そこに現れたフィオーネの姿に、ネロは息を呑んで硬直した。
彼女は普段から愛用している黒色のレザージャケットを羽織っていたが、問題はその下だった。
タイトな真っ白のセーターが彼女の女性らしい柔らかな曲線を否応なく際立たせ、下半身には、歩くたびに尻が出ない程度のギリギリの長さのプリーツスカート。
普段の隙のない面影はどこにもなく、あまりにも無防備で扇情的なその出で立ちに、ネロの視線はどうしようもなく釘付けになる。
「…なんだ、あまりじろじろ見るな。恥ずかしい」
頬を朱に染め、居心地悪そうにプリーツスカートの裾を少しだけ引っ張るフィオーネ。
「…なんか…その…」
あまりの破壊力に言葉を失うネロの足元で、多脚機のモーディがモノアイを点滅させながら無機質な電子音を響かせた。
『馬子にも衣裳ですね…』
「…ポンコツ…貴様、意味がわかって言ってるんだろうな…」
カチン、と。
一瞬で照れが殺意へと反転し、フィオーネから放たれた氷のような眼光が足元の機械を射抜く。
「…モーディ…その勇気が凄いよホント…」
『いえ、すいません、なんと言えばいいのかと思いまして…その…狙い過ぎでは? 一応、貴女、義理とはいえ姉なのですよ。そんなオスを誘うような恰好で一緒に出掛けるとか、周りの目を少しは気にしたほうがいいかと…』
普段はおどけて空気を読まない発言ばかりのモーディから飛び出した、信じられないほどまともで倫理観を問うようなド正論。
その言葉に、ネロとフィオーネは揃って完全に凍り付いた。
「…モーディ…お前、そういう思考回路持ってたんだな…てっきりふざけたことしか言えないもんかと…」
『いえね、普段は楽しそうなお二人の邪魔するのもどうかと思ってたんですけど、フィオーネ様が余りにも余りにも…ですね』
「…………」
最新鋭のAIから容赦のない「狙いすぎ」という評価を下され、フィオーネは反論すらできず、恥ずかしさのあまり石像のように固まってしまった。
顔だけでなく、首筋から耳の裏までがみるみるうちに真っ赤に茹で上がっていく。
「…フィオ姉も女らしさあったんだなぁ…」
「…黙れネロ、こういう恰好をすると男は喜ぶとサイトに書いてあったから買ったまでだ…」
『…素直過ぎませんかねぇ…いえ、献身的? いや、でもお姉さまですし…』
「…なるほどね。いや、俺の為にそこまで気合入れてくれたのは、ホントに嬉しいよ」
ネロはわざとらしくウンウンと頷きながら、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて義姉の真っ赤な顔を覗き込んだ。
「でもさ、普段からそんな恰好してたら、引く手数多で変な蟲が寄ってきて俺が安心できないから……逆に、普段の無愛想なフィオ姉でいてくれて助かったよ」
献身への素直な喜びと、少しのからかい。
その悪戯な笑顔と真っ直ぐな言葉に当てられ、フィオーネは限界を超えた羞恥心をごまかすように、バンッと強く床を踏み鳴らした。
「~~~っ!! さっさと行くぞ!」
「…へいへ~い」
『可愛い所もあるもんですねぇ』
真っ赤な顔で足早に玄関へ向かう義姉の背中を、ネロとモーディは楽しげな足取りで追いかけた。
* * *
澄み切った青空の下、聖都ルメンティアの大通り。
ネロたちは、隣を歩くフィオーネの危うい姿に道行く男たちが釘付けになるのを軽くあしらいながら、楽しそうに予約を取った映画館へと足を運んでいた。
だが、その穏やかな休日の空気は、突如として断ち切られる。
行き交う人々で賑わっていた大通りに、突如として割り込んできたのは、無機質な軍靴の足音。
一切の感情を持たない精鋭たち――特務局執行班『ヴィクセド』第二部隊が、音もなくネロたちを完全に包囲していたのだ。
紺色のコートを着た男が声をあげた。
「人払いをしろ!」
そう言うと、何事かと思って集まった野次馬たちを、冷徹な執行部隊が強引に追い払っていく。
騒然とする通りの中で、フィオーネは即座に義姉の顔から執行官の顔へと切り替わり、紺色のスーツの上にコートを羽織った部隊の指揮官へと鋭い声をかけた。
「なんのつもりだ、シオン」
シオンと呼ばれた男。
清潔感のある青髪に、感情の起伏を一切読み取らせない冷徹で分析的な眼差し。
彼は、警戒を露わにするフィオーネを無感動な瞳で見据えた。
「…誰かと思えば、お前か、フィオーネ」
ネロは眉をひそめ、足元の多脚機に小声で尋ねる。
「…どちら様で…?」
『…検索…シオン・エスポジト…フィオーネ様と同じくガロ総監直轄の一人であり、フィオーネ様の数少ない同期ですが、実力はフィオーネ様より遥かに上です…主な任務は……組織に仇なす可能性のある者の「掃除」…』
「…「掃除」って…誰を始末しようってんだよ……」
自分自身の出自――魔獣ウイルスの適合者であることを自覚しているネロは、それが自分の事かもしれないと思いながら低く唸った。
シオンの前に立ちはだかるフィオーネ。
彼女はネロを背に庇うように、タイトなセーター越しに両腕を広げた。
「どけ、フィオーネ。お前の義弟とやらに用がある」
「退く気はない」
「お前の義弟は、ウイルス感染者の可能性が高い。その身柄を拘束する。大人しく義弟を渡せ」
「…退く気もないし、渡す気もないという事がわからんか、貴様」
「…いいだろう、ならば…」
そう言って、シオンは懐から対になっている双剣を取り出した。
特殊な導魔ワイヤーで連結された一対の小剣――専用兵装『魔核連結双剣』。
「…本気か、貴様…!」
「…私を侮るなよ、フィオーネ」
そう言って剣を振りかぶるシオン。
一切の躊躇もない、明確な殺意を伴った一撃。
「っ!?」
フィオーネは両手を交差させ、防御の体勢のままシオンに体当たりしようとした。
致命傷を避けるための、彼女なりの決死の抵抗。
だが、その覚悟は、背後から伸びてきた腕によって遮られる。
高速で振り下ろされるシオンの腕を、ネロは咄嗟に横から掴み止めていた。
「…お前…俺のもんになにしようとしてくれてんだよ…!」
シオンの手首を万力のように締め上げるネロ。
その漆黒の瞳の奥に、理性を削り取るウイルスの兆候――不吉な灰光がチロチロと揺らいだ。
「…やはり私の目に狂いはなかったな」
ネロの異常な膂力に表情ひとつ変えず、シオンはネロの手を滑らせるように振り払い、咄嗟に後方へと距離を取る。
「やめろ、ネロ! 相手にするなっ!」
しかし、ネロは羽織っていたレザージャケットを乱暴に脱ぎ捨てると、引き締まった黒シャツ姿で臨戦態勢に移行した。
「下がってろ、フィオーネ」
「ネロッ!」
「…お前ほどの奴が、義弟に護られるとはな…にわかには信じられん」
シオンも体勢を低く落とし、双剣を構えた。
ネロは首を鳴らし、両手の拳をボキボキと鳴らすと、獣のような殺気を放ってシオンを睨み据えた。
「…お前、俺のもんに傷をつけようとしたんだ、どうなるかわかってんだろうな」
周囲の空気が重く沈み込むような、異様な圧力をかけていくネロ。
「…ふっ…面白い。素手で私とやり合おうとでも?」
シオンが冷ややかに挑発する。
「素手だろうが関係ねぇ!」
そう言い、弾かれたようにシオンへと距離を詰めるネロ。
シオンは低い位置から右の剣を鋭く振り上げるが、ネロはそれを左手で正確に叩き落とす。
驚愕の反射神経から、間髪入れずに繰り出されるネロの破壊的な右ストレート。
シオンはそれをギリギリの体捌きで躱し、再び距離を取ろうと後方へ飛ぶが、ネロはそれを許さない。追撃の蹴りが空気を裂いて放たれる。
空中で逃げ場を失い、思わず双剣の腹で受け止めてしまうシオン。
刀身にマナの膜を張って衝撃を滑らせようとしたものの、ネロの異常な脚力はその防御ごと彼を吹き飛ばす。
シオンの身体が宙を舞うが、彼は地面に付く寸前に体勢を立て直し、靴底を擦らせながら片膝で立ち上がった。
「…化け物がっ!」
「器用な野郎だ…」
ネロは再び腰を落とし、隙のない戦闘態勢に入る。
「………街中で使うまいとは思っていたがやむを得んな…」
そう言うと、シオンは手に持っていた双剣の柄に内蔵された魔核を起動させた。
刀身が極薄のマナの膜を纏い、あらゆる物質の摩擦係数をゼロにして滑るように切り裂く、必殺の刃へと変貌する。
「…仕方ねぇな」
ネロは右腕に渾身の力を入れて、自身の中のウイルスの力を必要最小限引き出そうとした。
それに呼応して、黒シャツの下で右腕の筋肉密度が異様なまでに跳ね上がっていく。
皮膚の下を何かが蠢くような、禍々しい変異の予兆。
シオンの背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
目の前に立つのは人間ではない。
まるで都市の防壁を粉砕する災害指定種の魔獣が、人間の皮を被って立っているかのような、生物的な絶対的恐怖。
「やめろ!! これ以上はネロがっ!!!!!!」
「黙っていろ!!!!!!!!」
「……………」
シオンは恐怖を精神力でねじ伏せ、体勢を更に低くした。
冷酷な眼差しが、ネロの背後に立つフィオーネを捉える。
「最後の警告だ、大人しく投降しろ……投降しなければ、後ろの女を巻き込むことになるぞ」
それを聞いてフィオーネは叫ぶ。
「…っ…! 貴様!」
「…いいから、さっさとかかってこい。こっちは映画の予約の時間が迫ってんだよ」
「…っ!?…後悔するなよっ!」
シオンは疾風の勢いでネロに突進した。
一瞬で間合いを詰めるシオン。
摩擦をゼロにする必殺の右の双剣が、ネロの肩口へ向けて音もなく振り下ろされる。
だが、刃が肉を断つ感触はなかった。
ガキンッ、と。
刃を防ぐのではなく、振り下ろされる手首そのものを掴み止める――およそ人間業とは思えない芸当。
ネロはその瞬間、驚異的な反応速度で左手を伸ばし、シオンの右手首を万力のように拘束していた。
(ばか……な。今の踏み込みに、反応しただと……?)
シオンは戦慄した。
全身の体重を乗せた必殺の突進が、ただの片腕一本で、巨大な岩壁に激突したかのように完全に停止させられている。
それでも彼は、長年鍛え上げた剣士の反射で、空いている左手の双剣をネロの首筋に狙いを付けて振るう。
しかし――その瞬間。
シオンの視界を、圧倒的な「暴力の塊」が覆い尽くした。
ネロの右拳。
それはもはや人間の打撃ではなく、大気を押し潰す災害そのものだった。
双剣が届くよりも早く、空気がひしゃげる音と共に、シオンの視界は一瞬にして暗転した。
「…グボッ…!?」
一体何が起きたのか。
気が付けば、シオンは石畳の地面に這いつくばっていた。
ネロとの距離が十メートル近くも開いている。
肺の空気がすべて弾き出され、内臓が破裂せんばかりの激痛が全身を駆け巡った。
「……ハァッ…ハァッ…ネロッ……!」
殴られた鳩尾を押さえつつ、忌々しくネロを見上げるシオン。
「……ちっ…骨折しないぎりぎりのラインで殴ったせいか、意識まで刈り取れなかったか」
(手加減……されただと……!?)
完全に加減されていたことに気付き、シオンは屈辱と恐怖から歯を食いしばり起きようとする。
だが、凄まじい衝撃に神経が麻痺し、身体が全く言う事を聞かない。
「……総員……抜剣せよっ!」
シオンは這い蹲ったまま、ネロたちを取り囲んでいる部下の執行官たちに指令を出した。
無表情で、一斉に制式魔導剣『レガリア』を抜き始めた第二部隊の執行官たち。
「…貴様らっ! いい加減に」
フィオーネが声を荒げたが、シオンの冷酷な指示がそれを上回る。
「…義弟のほうは抑えられると思うな、フィオーネを人質にしろ!!」
「なっ…!?」
執行官たちの殺意が、一斉にネロから背後のフィオーネへと向く。
その瞬間。ネロの顔から、人間らしい感情の一切が抜け落ちた。
「………モーディ」
ネロはそう低く呟くと、足元の多脚機・モーディはネロの右腕目掛けて跳躍した。
『──疑似人格モジュール、凍結します。対話プロトコルを破棄』
おどけた高い声がノイズと共に完全に途切れ、感情の温度を一切感じさせない、冷徹な機械音声へと切り替わる。
『アーキコード・アクセス承認。形態再構築──対装甲戦棍』
空中でタコ型のフレームが複雑な金属音を立てて解体され、複数の魔導回路が直結していく。
重厚な駆動音と共に組み替わった漆黒の鉄塊が、ネロの右手に握り締められる。
『対象の物理的粉砕、および完全な蹂躙を推奨します』
「ネロ!?」
背後でフィオーネが息を呑むが、ネロの黒い瞳には、義姉を害そうとする者への絶対的な殺意だけが宿っていた。
「こいつら全員吹き飛ばす」
『了解……広域空間制圧プロトコル、スタンバイ。魔導回路01~06、多重並列連結を確立』
無機質なシステム音声と共に、戦棍の内部で六本の魔導回路が同時に繋がれる。
それは目の前の敵を殴り倒すためのものではない。
前方一帯の空間そのものを、跡形もなく消し飛ばす「理外の範囲殲滅」への絶望的なカウントダウン。
「…貴様…こんな街中でそんなものを…」
地面に伏せたシオンが、顔色を失って呻く。
長年死線を潜り抜けてきた彼の研ぎ澄まされた本能が、これから放たれる一撃が防御など不可能な災害レベルの広域攻撃であることを悟っていた。
「ネロ!? やめてくれ!! 早まるなっ!」
『エネルギー分配パターン:拡散。──当該座標における物理的構造の固定を解除』
「総員! 防御態勢!!」
シオンの絶叫と同時に、執行官たちが一斉に抜き放った『レガリア』を構え、防御の体勢をとる。
しかし、そんな刃の壁が何の意味もなさないほどの異常なマナの圧力が、戦棍の周囲の空気を陽炎のように歪ませた。
『地形維持プロトコルを強制遮断します』
白昼の大通りの中央で、振り上げられた無骨な戦棍からは、異常な高熱の蒸気と、周囲のすべてを塵に変えるような圧倒的な殺意が溢れ出していた。




