第十七話:白き上司の探求と、噂好きの火種
午前十一時。
聖都ルメンティアの中心にそびえる白亜の巨塔、アウレリア魔獣災害対策院(A.D.R.I.)。
分厚いガラス越しに冷たい陽光が差し込む情報分析課のフロアでは、今日も書類の山と無機質なタイピング音が響いていた。
フィオーネの補佐官として事務仕事に忙殺されていたネロに、ふと声が掛かった。
「やぁ、ネロ補佐官。ちょっと良いかな」
キーボードを叩く手を止め、見上げると、そこには汚れ一つない純白のスーツを着こなしたルカ・グラディが立っていた。
綺麗に整えられた金髪と、慈愛に満ちた温和な笑みが、殺伐としたフロアの中で異彩を放っている。
「ルカ管理官……フィオーネに離席の許可を取ってきますので、少々お待ちを」
「それには及ばないよ。彼女の許可は既に取ってあるからね」
「そうですか……わかりました」
ネロは愛想の良い事務員の仮面を貼り付けたまま立ち上がり、大理石の床を歩くルカの真っ白な背中を追って、彼の執務室へと案内された。
防音の施された重厚な扉が閉まると、ルカは自身のデスクに寄りかかり、親しげなトーンで口を開いた。
「昨日の勤務、ご苦労だったね」
そう言って、ルカは胸元から一通の厚みのある封筒を取り出し、ネロへ手渡した。
「……これは?」
「特別ボーナスってやつさ。もちろん、僕からのポケットマネーだよ」
「い、いただけませんよ」
ネロは反射的に封筒を突き返そうとした。
しかし、ルカはそれを受け取ろうとせず、優しい眼差しのまま首を横に振る。
「いやいや、気にせず受け取ってくれたまえ。キミが活躍してくれたおかげで、僕の上からの評価が上がったのは事実なんだからさ」
微塵の裏も感じさせない、人の良い完璧な笑顔で押し付けられ、ネロはしぶしぶ封筒を自身の懐へとしまった。
「そ、そうですか……ありがとうございます」
「ところで……地下で何を見たんだい?」
唐突な問いだった。
ルカの声色は優しいままだったが、空気が一変する。
純白のスーツに包まれた彼の底知れない圧力が、じんわりとネロの肌を撫でた。
ネロは背筋に微かな緊張を走らせながらも、表情だけは平坦に保つ。
「あ……報告書にあった通りです。大型の魔獣と、それに連なる女らしき人物を見かけました」
「……ふむ。女らしき人物、ね? 結局、どっちなんだい?」
ルカは興味深そうに身を乗り出し、バイオレットの瞳でネロの目の奥を覗き込む。
「……女の形を取った人外……でしょうか」
「……人外か。ふむ……」
ルカは顎に手を当て、思案するように目を伏せた。
その隙のない横顔から、彼が何を考えているのかを読み取ることは不可能に近い。
「……管理官?」
「ああ、すまないね。たまに報告に上がる、辺境の村の変異事件と関係があるのかな……と。いやぁ、ただの僕の推察なんだけどね」
あっさりと引いたルカは、再び温和な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「すまないね、仕事中に引き留めてしまって。まだ疲れも残っているだろうし、無理はしないようにね」
「あ、いえいえ……お気遣いありがとうございます。では、失礼致します」
ネロは深く一礼し、一片の淀みもない笑顔で見送るルカの執務室を後にした。
扉が閉まった瞬間、ネロはわずかに強張っていた息を静かに吐き出す。
大理石が敷き詰められたフロアに戻ってくると、通路の陰から一人の女性がひょっこりと顔を出した。
少し派手めのメイクに、制服を意図的に着崩した明るいボブヘアの女性局員――ベラ・コンティだ。
情報分析課きってのゴシップ通である彼女は、面白そうな獲物を見つけた猫のようにニヤニヤと笑いながら近づいてくる。
「ネロくん、管理官に呼びだされてたけど、なんかしたのぉ?」
「……ベラさん。別に何にもしてませんよ。ちょっと報告書が読みやすかったって褒められたくらいです」
ネロは面倒くさそうに片手を振り、適当な嘘で話を切り上げようとする。
だが、空気を読むのが致命的に下手なベラは、さらに距離を詰めてきた。
「わぉ……それって結構凄い事なんじゃない? ルカ管理官から直々に褒められるなんてさぁ」
「……かもね。フィオーネの日々の教えの賜物だよ」
「え〜? そうなのぉ?」
ベラは疑わしげに目を細め、指先で自分のボブヘアをクルクルと弄り始める。
「フィオーネ上官が仕事できるのは、みんな知ってる事だろ」
「……まぁねぇ。でも、あの人が『教えるのが上手い』って話は聞いたことがないなぁ」
「何が言いたいんだよ。まさか俺が事務仕事が得意とか思ってないだろうな」
ネロが呆れ顔でため息をつくと、ベラは周囲を見回してから、声を潜めるようにして身を乗り出した。
「いやぁ、どうかなぁ? フィオーネ先輩って、絶対ネロくんの事を、ただの『義弟』だとは思ってないんじゃないかなぁ。……日々ネロくんを見るあの熱〜い視線の事は、私の目はごまかせないぞぉ?」
――スッ、と。
周囲の温度が、物理的に数度下がった。
「……誰が、誰を熱い視線で見ているって?」
いつの間にか、ベラの背後にフィオーネが立っていた。
タイトなダークスーツに身を包んだ彼女の姿は、絶対零度の威圧感を放ち、通路の空気を完全に支配している。
「ひっ!? ……そ、それは……」
カチコチに凍りついたベラを見て、ネロは深く溜息をつき、頭を抱えた。
「……ほら、さっさと謝っちゃいなさいよ……」
「私が義弟の事を大事に思って、何が悪いというのだ?」
謝罪を促すネロの言葉を遮り、フィオーネは悪びれる様子もなく、豊かな胸を張って堂々と言い放った。
「……おい」
一切の疑念を持たない義姉を、ネロは呆れたように見つめる。
その斜め後ろで、恐怖から解放されたのか、ベラが再びニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ始めた。
「……おぉ! やっぱり」
「……ちょっと来い、フィオーネ」
これ以上の騒ぎを避けるため、ネロは強引に事態の収拾に動いた。
「おいネロ。職場では『フィオーネ上官』と言えと何度言えば……」
「いいからっ!」
ネロは文句を言いかけるフィオーネの腕を掴み、有無を言わさず引っ張って歩き出した。
「……ひゃぁ、昼間っからお盛んなことで」
背後から飛んできたベラの冷やかしに、ネロはピタリと足を止める。
振り返らず、肩越しに鋭い視線だけを投げた。
中性的な好青年の顔から一転、漆黒の瞳に、一瞬だけ都市の暗部に生きる執行官としての冷酷な光が宿る。
「……変な事言いふらしたら、どうなるかわかってますよねぇ?」
「い、言いふらさないけど……もし言いふらしたらどうなるの……?」
「……消しますよ?」
冗談とも本気ともつかない、ギリギリのトーン。
その眼光の鋭さに、ベラは血の気を引かせて後ずさる。
「言いません言いませんっ!」
「……ったく……」
ベラが青ざめて脱兎のごとく逃げ出すのを見届けてから、ネロは再びフィオーネの腕を引き、専用執務室へと連行した。
その道中、遠くで「やっぱ姉弟だと怖いとこも似るなぁ……」とベラが小言を漏らしていたのを、ネロはしっかりと耳に挟んでいた。
* * *
二人の専用執務室。
重い扉が閉まった直後、部屋の隅でスリープモードに入っていた多脚機のモーディが、ピコピコとモノアイを点滅させ、駆動音を鳴らして起動した。
『おやぁ……珍しい事もあるもんですねぇ。マスター自らフィオーネ様を強制連行するなんて。生体センサーの心拍数が急上昇してますよぉ!』
「フィオーネ、職場で堂々とああいうことは言うなと何度言えばわかるんだ」
モーディの茶化すような電子音を完全に無視し、ネロは腕を組んで義姉に説教を始めた。
「……仕方ないだろ。お前と私の仲をからかう奴が悪い」
フィオーネは不満げに唇を尖らせ、反省の色を微塵も見せずにそっぽを向く。
「……はぁ……ああいうのは放っておけばいいんだよ……」
「良くないっ! 良くないぞネロ! ああいうのはガツンと言ってやらないと!」
「はぁ……そうやって変に過剰反応するから、周りが面白がって噂にするんだよ……」
「……そういうものなのか?」
「そういうものです」
納得がいかない様子で小首を傾げるフィオーネ。
その足元で、モーディがガシャガシャと脚を鳴らしながら無邪気な追撃を仕掛ける。
『演算──まぁ、フィオーネ様がマスターを熱い視線で見ているのはボクの生体データログでも常時記録してますけどねぇ。そもそも、普段のフィオーネ様って周囲からすれば近寄りがたい存在なんですよぉ。そんな方がムキになって反応しちゃう時点で、周りは「何かあるぞ」って思いますよねぇ?』
「おい、ぽんこつ。誰が近寄りがたいって? あぁ? ネロはこんなにも私と接近できてるじゃないか」
フィオーネは容赦のない事実を突きつける機械へ向き直り、氷のような鋭い視線で見下ろした。
『ひぇっ……そういうとこですよぉぉぉぉ』
「……はぁ。そりゃぁ、俺がフィオーネと距離取る意味がないからでしょうよ……」
ネロが呆れ半分で零した言葉。
その何気ない一言を聞いた直後、フィオーネの強張っていた表情が、嘘のようにわずかに和らいだ。
「……ふむ。この際だから、お前は私の事をどう思っているのか聞いておき――」
「おら、いいから仕事片付けんぞ」
ドンッ!
ネロは容赦なく、フィオーネのデスクの上に未処理の書類の山を積み上げた。
「……ぐぬぬ……」
口を尖らせて抗議しようとする義姉を無視し、ネロは自分のデスクに座って端末に向かった。
「……とりあえず、昼飯になったら、また昨日のカフェテリアに行こうか。昨日は緊急出動でゆっくりできなかったし」
「……よかろう」
フィオーネは小さく息を吐き、大人しく書類の山に向き直った。
カタカタと響くタイピング音と、紙をめくる音。
二人の間には、昨日までの死闘が嘘のような、珍しく穏やかな時間が流れていた。




