第十六話:甘い香りと特効薬、あるいは過剰な添い寝
静寂に包まれた中級居住区。
赤レンガ造りのアトラス家の玄関扉が、荒々しい音を立てて開け放たれた。
「ネロ! 今戻ったぞ!」
息を弾ませて駆け込んできたフィオーネは、純白の防護外套『白百合』を脱ぐのももどかしくリビングを見渡す。
だが、そこに義弟の姿はない。
代わりに、複数のパワーアームを器用に伸ばして濡れタオルを掴んだ鈍色の多脚機・モーディが、寝室へ向かおうとしているところだった。
『おかえりなさいませぇ、フィオーネ様! マスターなら、自室で横になってますよぉ』
「……そうか」
フィオーネは靴を脱ぎ捨てるなり、ノックもせずにネロの自室の扉を開け放った。
「入るぞ!」
「……貴女、ノックくらいしなさいよ……。俺が全裸だったら、どうする気だったんだよ」
青年へと成長した引き締まった上半身を晒したまま、ベッドの上で身を起こして呆れたように軽口を叩くネロ。
だが、その顔色は土気色に淀み、額にはびっしりと脂汗が滲んでいる。
極大負荷による反動――体内に眠るウイルスの活性化が、未だに彼の神経を内側から焼き焦がしているのだ。
「まだ冗談を言うだけの気力はあるか」
フィオーネの強張っていた表情が、わずかに緩む。
彼女はクローゼットから適当なシャツを取り出し、ネロへ手渡した。
「とりあえず、何か食べられそうか?」
「……あんまり、固形物は食べたくないかな……」
「肉や魚は嫌か。……ふむ、なら……」
フィオーネは真剣な顔で少し考え込むと、「待ってろ。すぐに作ってやるから」とだけ言い残し、足早に部屋を出ていった。
しばらくすると、キッチンからバターと砂糖が焼ける、ひどく甘くて嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきた。
「入るぞ」
やがて盆を持って戻ってきたフィオーネの皿に乗っていたのは、こんがりと狐色に焼かれた手作りのパンケーキだった。
「これなら食べられそうか? ……昔は、よく食べただろう」
四年前、ネロが保護されて間もない頃、「子供はこういうものが好きだと聞いたから」と、彼女が見よう見まねで焼いてくれたものだった。
今でも大切に覚えていてくれた味に、ネロの目元がわずかに和らぐ。
「……貰おうかな……」
全身の疼きで食欲など微塵も湧かなかったが、ネロはその優しく甘い香りに誘われるようにフォークを手に取り、小さく切り分けて口へ運ぶ。
舌の上で溶ける濃厚なバターと砂糖の甘さが、熱で強張っていた胃の腑をゆっくりと解していった。
「……昔は、よく作ってくれたよな」
「なんだ、別に今でも食べたいなら言ってくれ。いつでも作ってやるぞ」
義弟が食事を口にしてくれたことに、フィオーネが安堵と満足の入り混じった微笑みを浮かべる。
その足元で、ピコピコとモノアイを光らせたモーディが電子音を弾ませた。
『そうですよぉ、マスター! フィオーネ様はマスターがいつリクエストしてもいいように、常に最高級の材料を備蓄なさって――』
「……黙れポンコツ。スクラップにするぞ」
『ひぇっ!』
背後の空気が急激に冷え込む。
フィオーネから放たれた氷のような殺気に、モーディは金属の脚をすくませてあっさりと沈黙した。
「……別に恥ずかしがる事じゃないだろ。家族なんだから……」
「……そうだな」
真っ赤になった耳朶を隠すように視線を逸らすフィオーネを横目に、ネロは殺伐とした裏の顔から、少しだけ確かな体温のある日常へと戻っていた。
†
だが、その日の夜。
ネロはベッドの上で、未だにウイルスの反動に苦しんでいた。
「……ハァ……ハァ……っ」
皮膚の下を無数の虫が這い回るような不快な熱。
理性の楔が削られ、狂暴な本能がせり上がってくる感覚を、ネロはシーツを強く握りしめ、必死に歯を食いしばって抑え込んでいた。
『……マスター、大丈夫ですかぁ? バイタルが不安定ですよぉ』
「……ハァ……大丈夫だ……。明日には、きっと収まってる……はずだ」
『……だといいんですがねぇ……』
心配そうにモノアイを揺らす相棒に、ネロはひび割れた乾いた唇を無理やり動かす。
「……モーディ、悪いけど……水を持ってきてくれないか?」
『はーい、ただいまお持ちしますねぇ!』
モーディが部屋から出ていく。
少しして、カチャリと部屋のドアが開いた。
「……悪いな、モーディ……」
そう言ってネロが濁った眼差しを上げると、そこにいたのは多脚機ではなく、氷の入ったグラスと水のボトルを持ったフィオーネだった。
「……なんだよ、フィオ姉。……心配性だな、ホント」
「モーディから聞いたぞ。未だに体調が良くないみたいじゃないか」
「大丈夫だって……明日にはよくなってるよ……」
「明日にも治らないなら、ヴィクセドの医療班ではなく国立の総合病院に連れていくからな」
「……はぁ……わかったわかった……」
ネロは深い溜息をつきながら、彼女の細い手からグラスを受け取り、冷たい水を一気に喉の奥へと流し込んだ。
「ありがとよ。さて、俺は寝るわ」
「そうだな」
フィオーネは空になったグラスを受け取ってサイドテーブルに置くと、なぜかそのまま、一切の躊躇いもなくごく自然な動作でネロのベッドのシーツを捲り、彼の隣へと滑り込んできた。
「……おい……なんのつもりだ……」
「なんのつもりって、見てわからんか? 添い寝だ、添い寝」
「お前……添い寝って……」
ネロの視線が、至近距離に横たわる彼女の無防備な姿へと吸い寄せられる。
薄手の寝巻き越しに伝わる柔らかな体温と、ほのかに漂う甘い香り。
先程までのウイルスの熱病とは全く違う動揺が、ネロの心臓を激しく跳ねさせた。
「何を恥ずかしがっている。昔、風呂で隅々まで洗ってやったのを忘れたか」
表情一つ変えずに平然と言い放つフィオーネ。
四年前の風呂場での惨劇――不甲斐なくも激しい生理現象を起こし、彼女にまじまじと観察されてしまった己の姿――を思い出し、ネロは真っ赤になって頭を抱え込んだ。
「……恥ずかしいに決まってんだろ……! 何考えてんだよ、ホント……」
「はぁ……全く、お前というやつは……」
呆れたように溜息をつくと、フィオーネは強引にネロの肩を引き寄せ、彼を無理やり自分の柔らかな胸元へと抱き込んだ。
「んぐっ!?」
柔らかな体温と確かな重みに顔を埋められ、ネロは息を呑んで言葉を失った。
「こういう時くらい、私を頼れ」
「こ、こういう時って、どういう……っ」
ネロが窒息しそうになりながら身をよじって反論しようとした、その時だった。
彼を包み込むフィオーネの柔らかな体温と、至近距離で一定のリズムを刻む心音。
そして彼女から漂うかすかに甘い香りが、ささくれ立っていたネロの神経を魔法のように鎮めていく。
身体の奥底でどす黒く疼いていた闘争衝動が、まるで彼女の『体温』という特効薬を打たれたかのように、スッと波を引いて静まっていったのだ。
「…………」
「どうした? 急に黙り込んで」
「……いや。なんだか、落ち着いてきたな、と……」
ネロの正直な呟きに、フィオーネは暗闇の中でわずかに得意げな、それでいてひどく優しい微笑みを浮かべた。
「……そうか。それは良かった」
フィオーネの細い腕が、さらに強くネロの背中を抱きしめる。
理性を繋ぎ止める、たった一つの確かな『家族の温もり』。
その絶対的な安心感に包まれ、青年の身じろぎはやがて静かな寝息へと変わり、彼は深い眠りへと落ちていった。
†
翌朝。
ネロが目を覚ますと、すぐ目の前にはスヤスヤと穏やかな寝息を立てるフィオーネの顔があった。
(……昨日まであった違和感がない……)
ネロは自らの手のひらを開閉し、驚きに目を見開いた。
ウイルスの侵食による不快な熱は完全に鳴りを潜め、全身の筋肉は元の軽やかな状態を取り戻していたのだ。
「……ん……。調子はどうだ、ネロ?」
彼が動いた気配で身じろぎしたフィオーネもゆっくりと目を覚まし、艶やかな黒髪を散らしたまま、微睡んだ目でネロを見つめた。
「……おかげさまで……」
ネロの返答に、フィオーネはクスッと小さく笑みをこぼす。
「……そうか。それは良かった」
ふと部屋の隅に気配を感じて視線を向けると、いつの間にか戻ってきていたモーディが、モノアイをピコピコと点滅させながら二人の様子を窺っていた。
『いやぁ、本当にバイタルも安定してるようで安心しましたぁ。これが母性というものなんでしょうかねぇ』
「……母性ってお前な……」
「ふふ……存外、この身体も役に立つものだな」
フィオーネは薄手の寝巻きからこぼれそうな自身の胸元を、誇らしげにポンと叩いた。
「……もう、こんな事はやめてくれよ……恥ずかしい」
「何を言うか。この程度でお前が助かるというなら、何度でもしてやる」
再び堂々と男らしい口調で言い切るフィオーネ。
その暴力的なまでの無自覚な色気に、ネロは深々と額を押さえた。
『……父性のほうでしたかぁ……』
「……はぁ……本当に頼りになる義姉だことで……」
ネロが深い溜息を吐き出すと、フィオーネは名残惜しさなど微塵も見せずにベッドから抜け出し、いつもの隙のない氷の上官の顔に戻って言い放った。
「ほら、体調が戻ったらさっさとシャワーを浴びて出る準備をしろ」
「……あ……今日も仕事か……」
『組織人は辛いですねぇ、マスタ~』
こうして、特効薬という名の過剰なスキンシップを経て、血と灰に塗れた任務から束の間の日常へと帰還した二人と一体は、足早に出勤の準備を済ませ、中級居住区の静かな「家」を後にするのだった。




