第十話:擬態の日常、あるいは静かなる独占欲
ネロが聖都ルメンティアの土を踏んでから、四年の月日が流れた。
情報分析課の執務室。
白亜の天井から降り注ぐ冷たい魔導照明の下で、今日も単調なタイピング音が響いている。
デスクに向かうネロの背丈は高く伸び、中性的な顔立ちには大人の青年の輪郭が備わっていた。
仕立ての良い対策局の制服の下には、都市の暗部で血に塗れる任務によって鍛え上げられた鋼のような筋肉が隠されているが、丸められたその背中からは、どこにでもいる線の細い優男の気配しか感じられない。
山積みの書類に囲まれた前方のデスクから、不意に、氷のように冷たい声が響いた。
「ネロ補佐官。頼んでいた報告書類の進捗はどうなっている。まだ出来ていないのか?」
声の主は、二十二歳となったフィオーネだ。
タイトなダークスーツの隙間から、女性らしいしなやかな曲線美が否応なく浮かび上がっている。
だが、隙ひとつなく真っ直ぐに下ろされた艶やかな黒髪と、感情の温度を一切感じさせない冷徹な眼差しが、周囲の人間を完全に遠ざけていた。
機械のように正確で容赦のない仕事ぶりから、一般局員たちは彼女を「氷の分析官」と恐れ、誰も不用意には近づかない。
「……あ、す、すみませんっ! 今、急いで作成中ですぅ……。あと一時間、いや四十分もあれば終わりますので。出来次第、すぐに上官のデスクにお持ち致しますぅぅ……!」
ネロは情けない声を作り、大げさに顔を引きつらせてキーボードを叩き始めた。
周囲の局員たちが、いつものやり取りに微かな笑い声を漏らす。
かつて辺境の村で復讐の炎だけを燃やしていた少年の面影はそこにはない。
今や彼は、誰からも親しまれる『人当たりの良い、少し頼りない青年』として、この平和な執務室の空気にすっかり溶け込んでいた。
* * *
一時間後。
ネロは姿勢を正し、事務的な足取りで上官のデスクへと向かった。
「フィオーネ上官。ご指示の書類、作成完了いたしました。こちらに置いておきます」
「……ご苦労。そこに置いておけ」
視線すら手元の書類から外さず、フィオーネが短く返す。
その直後、正午を告げるベルが無機質な室内に鳴り響いた。
「……チッ、もう昼食の時間か」
残された未決書類の山を睨みつけ、フィオーネが苛立たしげに舌打ちを漏らす。
周囲から他の局員たちが足早に退室していくのを確認すると、ネロはスッと肩の力を抜き、いつもの気さくな笑みを浮かべた。
「フィオ姉、ご飯行こうよ! フィオ姉なら、そんな仕事は飯食った後に五分で片付くでしょ?」
「……職場では『フィオーネ上官』と呼べと、何度言えば。お前はわざとやっているのか?」
「今は休憩時間ですよ。お給金が発生しない間は、ただの可愛い弟に戻らせてもらいます」
ネロがデスクに手をついてニヤリと笑うと、フィオーネは小さく息を吐き、渋々といった様子で万年筆を置いた。
「……はぁ。わかった。なら、昼食を摂りに行こうか」
「ちょっといい感じのカフェテリアを見つけたんだ。今日はそこに行かない?」
「……お前が行きたい場所なら、私はどこでも構わん。付いていくだけだ」
「相変わらずだなぁ。フィオ姉、本当にもう少し女っ気ってものを磨いた方がいいよ。せっかく綺麗なんだからさ」
「……変な本の影響を受けすぎだ、まったく」
文句を言いながらも、フィオーネは立ち上がり、ダークスーツのシワを伸ばしてネロの背後にピタリと続く。
魔導照明が白く照らす廊下に出たところだった。
不意に、小動物のように肩を縮め、もじもじと上目遣いでこちらを窺っている少女が視界に入る。
「あ、あの……ネロくん! あのっ、もしよかったら、お昼……いっしょに……」
少し童顔で、栗色のふわふわとした髪を揺らすアリアだ。
同じ情報分析課の事務員であり、いつも気さくで優しいネロに淡い好意を寄せている彼女は、頬を染めながら小さな声で誘いをかけてきた。
だが、その健気な言葉は、続く声によって完全に凍りつくことになった。
「――私の義弟に、何か用か?」
ネロの背後から、一切の感情を削ぎ落とした、絶対零度の声が放たれる。
アリアが息を呑んで顔を上げると、そこには人を殺すほどの暗く冷徹な眼光で彼女を見下ろすフィオーネの姿があった。
「ひっ……!! ふぃ、フィオーネ上官!? す、すいませんっ! 失礼致しましたぁぁ!!」
物理的な重圧すら伴う視線に射抜かれ、アリアは血の気を引かせて脱兎のごとく角の向こうへ走り去ってしまった。
「……あぁ。俺の貴重な青春の欠片が、また一つ遠ざかっていく……」
バタバタと遠ざかる足音を聞きながら、ネロは大げさに両手を広げて天を仰いだ。
「何をふざけたことを……。お前には、私がいれば十分だろう」
「……フィオ姉。さも当然のように言ってますけど、その台詞、普通の義姉弟ならだいぶ問題ですよ?」
呆れ顔で振り返るネロ。
その視線を受けたフィオーネは、ハッとしたように口を噤み、ふっと気まずそうに顔を背けた。
白磁のような耳朶が、微かに赤く染まっている。
「……よし、今の失言は聞かなかったことにしよう! さあ行くぞ、我が義姉上!」
「………………」
「ほら、行くよ、フィオーネ」
返事に詰まる彼女の手首を、ネロは笑いながら強引に引いた。
「……うむ」
つい先ほどまで周囲を震え上がらせていた冷徹な上官は、引かれる手に抵抗する素振りも見せず、どこか安堵したように大人しく歩き出す。
二人が角を曲がろうとした廊下の隅。
魔導配管の陰でスリープモードに入っていた多脚機のモーディが、ピコピコとモノアイを点滅させて起動した。
『マスター、マスター! 待って下さいよぉ! ボクは寝ていたわけじゃありませんっ! 充電しながら周囲の電脳ログを監視する、とっても高度な隠密業務に従事していただけなんですよぉ! 本当ですよぉ?』
「……お前、単に寝てただけだろ」
『ピピッ! マスター、フィオーネ様のストレス値が先程の女性局員との接触時に急上昇し、マスターに手を引かれた瞬間に急降下しましたよぉ! これは見事な独占欲のグラフですねぇ!』
「……その記録、すぐに削除しろ。マジで」
ネロは深く息を吐き、ガチャガチャと金属音を鳴らして騒ぐ相棒を連れて歩き出す。
背後には、引かれる手を見つめ、微かに口元を緩めた義姉の気配。
それは、都市の暗部で血塗られた任務をこなす彼らが、束の間だけ過ごす騒がしくも穏やかな日常だった。




