十の問い
白い封筒だった。
キネシスの机の上に、それは置かれていた。封蝋の紋を蓮は覚えていた。「洗脳」の家の紋だった。
今度の手紙は祝いではなかった。
――例年のとおり、巡回に伺います。
――十日後の昼、「移動」の国の都の広場にて、民の皆様にお言葉を。
――ご当主様にも、その折にご挨拶を。
――メンタル
「年に一度の巡回だ」
キネシスは言った。机の向こうで手を組んでいた。
「王の定められた、古くからのしきたりだ。断る理由は、どの貴族にもない。断った貴族も、一人もいない」
フィールは封筒から目を離さなかった。
「都の広場に、民が集められるのですね」
「都の者はほとんど全員だ。近くの町や村からも来る。皆、楽しみにしている」
「楽しみに」
「心が軽くなる日だ、と言う。私も、継ぐ前はそう思っていた」
キネシスは自分の手のひらを見下ろした。
「何が軽くなったのかは、覚えていない」
執務室が静かになった。
「特務班は、今度も外へ出す」
キネシスは言った。
「東の外れの村々の見回りだ。明日発て。十日では戻れない道のりにしてある。窓を伝えた他の従士も、とうに外れの村にいる」
フィールは頷いた。それから、蓮を見た。訊く前から答えを知っている顔だった。
「蓮は」
「残る」
蓮は言った。
「三度、消されなかった。四度目も確かめる」
「あの方は、蓮の名前を覚えたわ」
フィールの声は硬かった。
「帰り際にわざわざ訊いていった。二度、目を止めた。……前と同じではないのよ」
「だから、今度は隣には置かない」
キネシスが言った。
「広場の民の中に立たせる。何千人の中の一人だ。当主の隣にいるより、よほど目につかない」
「キネシス様の隣では、誰が数えるのですか」
「ギードを置く。窓は知らない。消されるものがない」
フィールは黙った。納得した顔ではなかった。だが、それ以上の手がないことも分かっている顔だった。
「一つ、いいですか」
蓮は言った。キネシスが目を上げた。
「巡回で、何が消されるのか。知っていますか」
「……いや」
キネシスはゆっくり首を振った。
「サナトス殿の帳簿に、消えた後の跡が残っていただけだ。何が、どれだけ、どう書き換えられるのか。今まで、誰も知らない」
「覚えていられる人が、いなかったから」
「そうだ」
「今年は、います」
蓮は懐から帳面を出して、新しい頁を開いた。
「巡回の前に、同じ問いを十人に訊きます。巡回の後に、同じ十人に、同じ問いをもう一度訊きます」
ペンが紙の上に升目を引いた。
「答えが変わった所が、消された所です」
キネシスはその升目を見ていた。四十八の零を書いた時の升目と、同じ形だった。
「……前と後を、比べるのか」
「前にいた所で、よくやりました。何かを変える前と後で、同じものを測っておく。そうしないと、何が変わったのか誰にも分からなくなるので」
キネシスの口の端がわずかに上がった。
「紙は、洗脳されない」
青年は言った。
「やれ。問いは、お前が決めろ。訊く相手は、窓を知らない者だけにしろ」
「はい」
「それから」
キネシスは封筒を指で叩いた。
「私の手だ。手首も、左手の怪我も、もう使えない。次の巡回の頃には治っているだろうと、あの方に先に言われた」
フィールが息を呑んだ。
「十日ある。考えておけ。私も考える」
その日の午後、蓮は市場の端のパン屋の前にいた。ロイが籠ごとパンを買わされた店だった。
店番の老婆は蓮の従士の服を見て、にこにこと笑った。
「巡回かい。ああ、楽しみだねえ。あたしは毎年、いちばん前で聞くんだよ」
「去年は、どんなお言葉でしたか」
「去年?」
老婆は首を傾げた。
「さあ。いいお言葉だったよ。胸のつかえが、すうっと取れるような」
「何と、仰っていましたか」
「何と、って」
老婆は少し考えた。考えて、笑った。
「忘れちまったよ。年だねえ。でも、いいお言葉だった。それは覚えてる」
蓮は書いた。
問い一。去年の巡回の言葉。答え、覚えていない。
「悪魔は、怖いですか」
老婆の笑顔が少し曇った。
「怖いよ。カルの村の話は聞いたかい。夜中に来て、人を攫っていくんだと。うちの孫が東の開拓地にいてね。毎晩、篝火の方を見ちまう」
問い二。悪魔。答え、怖い。カルの村を知っている。
蓮はその下に小さく書き足した。巡回の後に、もう一度訊く。
問いは、十あった。去年の巡回のこと。悪魔のこと。先代の当主のこと。王のこと。
老婆はどれにも気さくに答えた。王のことだけは、短かった。
「王様? そりゃあ、お城においでだよ」
「お姿を、見たことは」
「あるもんかね。あたしらが見ていいお方じゃない」
それで、終わりだった。
蓮は九つ目まで書いた。十番目の問いは決めていなかった。
何か一つ、どうでもいいことを訊くつもりだった。消されるはずのない、当たり前のこと。比べるための、動かない目盛りとして。
蓮は店の奥の壁を見た。古い絵が掛かっていた。砂色の大地と、その向こうの、青い帯。
「あの絵は」
「ああ、海だよ」
老婆は言った。
「外の砂漠の、ずっと向こうさ。死んだ亭主が、若い頃に描いたんだ」
「ご主人は、海を見たんですか」
「見るもんかね。あんな所まで、誰も行きゃしないよ」
老婆は笑った。
「でも、海さ。青くて、広くて。誰だって知ってるだろう」
「誰か、見た人を知っていますか」
「さあねえ」
老婆はまた首を傾げた。困った様子はなかった。
「でも、海だよ」
蓮は絵を見ていた。
青い帯。誰も見たことのない、誰もが知っている青。
ペンが少しの間止まっていた。それから書いた。
問い十。砂漠の向こうには、何がある。
答え、海。
見た者、零。
その夜、蓮は宿舎の裏の井戸のそばで帳面を開いていた。
十の問い。一人目の答え。明日からあと九人、同じことを訊く。
その隣の頁に、蓮は別のことを書いていた。自分のことだった。
なぜ、俺だけ消されないのか。
その下に、思いつくだけ並べた。
別の世界から来たから。
体の中に何かがあるから。
あの力が俺の所まで届いていないから。
届いているのに、効いていないから。
蓮は最後の二行を見比べた。
届いていないのか。届いて、効かないのか。その二つは、違うことだった。
井戸の縁に、木の枠が立てかけてあった。白い紙を張った枠。その横に、灰色の粉の小さな袋。
――分からんことが出たら、撒いてみろ。粉は、嘘をつかん。
キネシスが跳んだ時、粉は立った。貴族の力に、粉は立つ。
なら、十日後の広場で、この枠を持って立っていれば。
蓮は枠を手に取った。軽かった。
「……また、ここにいる」
後ろで砂を踏む音がした。軽い足音。小さな歩幅。
ベルは蓮の隣に座らなかった。立ったまま、蓮を見下ろしていた。
「また、残るんでしょ」
「うん」
「あたしは、また行かされるんでしょ」
「うん」
ベルは唇を噛んだ。長い間、何も言わなかった。
「……前は、ニナがいたから行ったの」
小さな声だった。
「今度は、誰もいないわよ」
「ベル」
「分かってる。行くわよ。行けばいいんでしょ」
ベルは背を向けた。宿舎の角まで歩いて、止まった。
「レン」
「うん」
「海って、見たことある?」
蓮は顔を上げた。
「……なんで」
「別に」
ベルは振り返らなかった。
「あたし、ないのよ。一回も。お養父様の国、水の国なのに。……変よね」
それだけ言って、角を曲がっていった。
蓮はしばらくその角を見ていた。それから、膝の上の帳面に目を落とした。
問い十。
見た者、零。
蓮は、この世界に来る前に、海を見ていた。落ちていく機体の窓の下に、青い海面が広がっていた。
目を開けた時、そこは砂の上だった。
この世界に来てから。
蓮はまだ一度も、海を見ていなかった。




