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青くて、広い

 夜明けの館の門の前に馬車が一台止まっていた。特務班の六人が荷を積んでいた。

 ベルは一度も蓮の方を見なかった。荷台の隅で膝を抱えて東の空ばかり見ていた。


 フィールが蓮の前に来た。


「十日よ」


「うん」


「一つでも忘れていたら」


「許さない、だろ」


 フィールは少しだけ笑った。


 蓮は懐の帳面に手を当てた。訊くなら、今しかなかった。


「フィール。一つだけ訊いていいか」


「何」


「砂漠の向こうには、何がある」


 フィールは瞬きをした。


「海よ」


「見たことは」


「あるわ」


 あっさりと言った。


「去年の外周調査で。あなたを拾ったあの遠征。いちばん外れの砂丘の上から、皆で見たわ」


 知っていた。砂漠で拾われた夜、焚き火の向こうでフィールは同じことを言った。海よ、と。


 あの時は、聞き流していた。


 蓮は、息を止めた。


「どんな、だった」


「青くて、広かった」


 フィールは言った。懐かしむような顔をしていた。


「匂いは」


「匂い?」


「潮の匂いがしただろ。それから、波の音」


 フィールは少し考えた。眉が、わずかに寄った。


「……覚えていない。遠かったから」


「風は。海の方から吹いてくる風は、湿ってなかったか」


「蓮」


 フィールが蓮の顔を覗き込んだ。


「どうしたの。なぜ、そんなことを訊くの」


「目盛りなんだ」


 蓮は言った。


「巡回の前と後で比べるための。消されるはずのない、動かない問いを一つ入れておきたくて」


「それが、海?」


「誰でも知ってるだろ。海は」


「そうね」


 フィールは頷いた。疑う様子は、なかった。


「青くて、広いわ。帰ってきたら、また訊いて」


 フィールは右の拳を左の胸に当てた。蓮も、同じ礼を返した。


 馬車が動き出した。荷台の隅で、ベルが初めてこっちを見ていた。

 蓮ではなくフィールを見ていた。何か、言いたそうな顔だった。


 言わないまま、馬車は角を曲がった。






 それから三日で、蓮は残りの九人を回った。

 館の門番。料理番。侍女。馬丁の老人。市場の鍛冶屋。宿屋の主人。第三部隊の若い兵。荷運びの女。それから、宿屋の十歳になる息子。


 升目は、少しずつ埋まっていった。


 去年の巡回の言葉。十人とも、覚えていなかった。十人とも、いいお言葉だったと言った。

 悪魔。十人とも、怖いと言った。カルの村の名を、八人が口にした。


 王。

 十人とも、お城においでだと言った。そこで話が終わった。誰もその先を続けなかった。

 お姿は。お声は。お歳は。何をなさっているのか。訊けば、皆、困ったように笑った。あたしらが知っていいことじゃない、と。


 蓮はこの館に初めて来た日のことを思い出していた。王の肖像がどこにもなかった。当主の館は驚くほど質素だった。

 あの時の引っかかりは、一年経っても消えていなかった。消えないまま、升目の中に並んでいた。


 そして、十番目の問い。


 砂漠の向こうには、何がある。

 海。十人とも、そう答えた。

 見たことは。

 ない。十人とも、そう答えた。


 どんな海か。蓮は、その欄を上から順に読んだ。


 青くて、広い。

 青くて、広い。

 青くて、広いよ。

 青くて、広いんだと。


 十人のうち九人が同じ言葉で答えていた。残りの一人は、宿屋の息子だった。


「しょっぱい匂いがするんだ!!」


 少年は胸を張って言った。


「嗅いだことがあるのか」


「ない!!」


「誰に聞いた」


「知らない!! でも、するんだ!!」


 蓮はそれも書いた。書きながら、少しだけ笑った。

 笑った後で、笑えなくなった。


 フィールは見たと言った。

 見た者が同じ言葉を使っていた。見たことのない者たちと、一字も違わない言葉を。






 その夕方、キネシスは蓮の帳面を黙って読んだ。十人ぶんの升目を端から端まで。


「海か」


 青年は言った。


「妙な所に目盛りを置いたな」


「キネシス様は、見たことがありますか」


「ない」


 キネシスは帳面から目を上げなかった。


「私が跳べるのは、見える所までだ。外周の端まで行く用は、当主にはない。だが、海はある」


 机の引き出しを開けた。古い紙の束が出てきた。


「第二部隊の外周調査の報告だ。十年ごとに一冊ある」


 蓮はいちばん上の一冊を受け取った。去年のものだった。第二部隊長の字、フィールの字だった。

 日付。道のり。魔物の数。水の残り。最後の頁に、一行。


 ――外周の端にて、海を確認。青く、広し。異常なし。


「紙は、洗脳されない」


 キネシスは言った。


「見た者が見たままを書いた。海は在る。お前の目盛りは、動かない」


 蓮は頷いた。頷いて、その下の一冊を手に取った。

 十年前。字が違った。別の隊長だった。最後の頁。


 ――外周の端にて、海を確認。青く、広し。異常なし。


 その下。二十年前。また、字が違った。


 ――外周の端にて、海を確認。青く、広し。異常なし。


 蓮は三冊を机に並べた。

 キネシスがようやく目を上げた。並んだ三つの行を、長い間見ていた。


「……報告の書式だ」


 青年は言った。


「前の隊長の書き方を、次の隊長が真似る。そういうものだ」


「はい」


 蓮は言った。


「そうだと思います」


 二人ともそれ以上は言わなかった。

 キネシスは三冊を引き出しに戻さなかった。机の端に、並べたまま置いた。


「手の話だ」


 キネシスが言った。話を切り替える声だった。


「考えたか」


「一つだけ」


 蓮は言った。


「前にいた所で宴の席がよくありました。立ったまま大勢で飲み食いする席です。握手をしたくない相手が来ることも、ありました」


「どうした」


「先に、杯と皿を持たせるんです」


 キネシスの眉が、動いた。


「両手が塞がっている人とは、握手ができません。こっちの手を隠すより、向こうの手を塞ぐ方が早い」


「……あの方に、杯と皿を持たせるのか」


「紙の鳥です」


 蓮は帳面の端を一枚破って、折った。日本の施設にいた頃、年下の子たちに折ってやるために覚えた形だった。

 机の上に、小さな紙の鳥が立った。


「都の子どもたちに、これを折ってもらいます。広場で、一人ずつ、あの方に手渡す。伝書鳥は『移動』の国の印です。悪魔の恐怖を軽くしてくださる方への、子どもたちからの礼です」


 キネシスは紙の鳥をつまみ上げた。羽を、指で広げた。


「何羽だ」


「三十。一羽は軽いですが、三十あれば両腕が塞がります。何千人の前で、子どもの手から受け取った物をあの方は地面に置けません」


「供に渡すだろう。近頃は、継承候補のエスピリ殿が付いて回っていると聞く」


「渡しても次の子が来ます。三十人が終わる頃にはお言葉の刻限です。お言葉が終われば、門が開く。その順番を、こちらで先に決めて、先に手紙で知らせておきます」


 蓮は帳面に線を引いた。

 迎え。子どもたちの鳥。お言葉。見送り。隙間のない、一本の線。


「挨拶の時間を、作らない」


「はい。それでも触れられたら、その時は二呼吸です」


 キネシスは紙の鳥を机に戻した。しばらく、それを見ていた。


「お前のいた所は」


 青年は言った。


「よほど、握手をしたくない相手が多かったのだな」


「多かったです」


 蓮は正直に答えた。


 キネシスが短く笑った。久しぶりに聞く、笑い声だった。






 その夜、蓮は井戸のそばで紙を折っていた。一羽。二羽。明日、宿屋の息子に教える分だった。


 手を動かしながら、考えていた。


 落ちていく機体の窓から見た海。施設を出た年の夏に、一人で見に行った海。

 足の裏の砂が、波に持っていかれる感じ。べたつく風。鼻の奥に残る、潮の匂い。耳から離れない、波の音。


 蓮の知っている海は、青くて広いだけではなかった。


 この国の海には、色と、大きさしかなかった。

 十人に訊いても。見た者に訊いても。三十年分の紙を読んでも。


 三羽目の鳥が、指の中で出来上がった。


 巡回まで、あと六日だった。


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