籠の底
三日が経った。
蓮の帳面の升目は三枚に増えていた。斜めに傾けた格子。菱形に潰した格子。縦だけを詰めた格子。
百十二。全部、零だった。
フィールは何も言わなかった。朝は誰よりも早く木剣を振り、夜は誰よりも遅くまで第四部隊の壁の前にいた。
目の下に、薄い影ができていた。
ゼノも何も言わなかった。桶の上で、あるいは卓の端で、ただ帳面の零を眺めていた。
四十年閉じられなかった陣は、三日では閉じなかった。
その夜も、第四部隊に灯りが残っていた。
卓の上に紙が散らばっていた。ミラが描いた格子。ベルが描き直した格子。フィールが途中で止めた格子。
ベルは卓に突っ伏していた。
「……もう、指が動かない」
「今日は、ここまでにしよう」
蓮が言った。
フィールは壁の前から動かなかった。
扉が開いた。ロイだった。後ろにヴァイス。
ロイは、大きな籠を抱えていた。
「差し入れだ」
籠が卓の真ん中に置かれた。布をめくると焼きたての丸いパンが山になっていた。
「市場の端のパン屋が、まだ開いてた。籠ごと買わされた」
「神か」
リアムが言った。
ベルの顔が卓から上がった。
パンはあっという間に減った。研究者たちまで寄ってきた。
ロイは自分の分を一つだけ取って壁際に座った。ヴァイスがその隣に立った。
「……俺たちにできるのは、これくらいだ」
ロイが言った。蓮にだけ聞こえる声だった。
「線が出ないからな。俺も、こいつも」
ヴァイスは何も言わずにパンを齧っていた。
蓮は答える言葉を探した。見つかる前に。
「……六つ」
ミラの声がした。
ミラは空になった籠を逆さにして持っていた。灯りにかざして、その底を見ていた。
「ミラ?」
「六つ、ある」
ミラは籠の底を卓に伏せて置いた。蓮はそれを覗き込んだ。
蔓を編んだ丸い底だった。縦と横、ではなかった。蔓は三つの向きに走っていた。右上がり。左上がり。それから、横。
三つの向きが重なる所に、小さな目が開いていた。六つの角を持つ目だった。
蓮は数えた。向きが三つ。目の角が六つ。一つの目の周りに三角が六つ。
「……ロイ」
蓮は言った。
「この籠、なんでこう編んであるんだ」
「あ?」
ロイはパンを口に入れたまま顔を上げた。
「パン屋の婆さんが言ってた。縦と横だけで編むと底が四角くなるんだと。四角い底からは、丸い籠は立ち上がらない。丸くしたけりゃ、三方から編む」
部屋が、静かになった。
卓の端で老人が目を開けていた。いつから起きていたのか、分からなかった。
「貸せ」
皺だらけの手が籠を掴んだ。老人は底を灯りに近づけた。指が蔓を一本ずつなぞった。右上がり。左上がり。横。
「……道が、八本」
老人は呟いた。
「八本は、四方に釣り合う。前と後ろ。右と左。だから、縦と横の格子が閉じる」
指が六つの角を持つ目の上で止まった。
「六本は、四方には釣り合わん。六方だ。……六方に釣り合う格子は、縦と横では、ない」
老人は籠を卓に置いた。手が少し震えていた。
「四十年だぞ」
誰にともなく言った。
「四十年、パン籠の底に、描いてあった」
ミラはもう小枝を持っていた。床の砂埃の上に陣を描いた。
外の輪。内の輪。結ぶ線を六本。真ん中に、三つの向きの線。それぞれ、三本ずつ。線は一本も震えていなかった。
蓮は帳面の新しい頁に升目を引いた。三つの向きに、二本ずつ。三本ずつ。四本ずつ。道の置き方が、三通り。
九つ。
「ベル」
フィールが言った。
ベルはもう立ち上がっていた。
「指が動かないって言ったの、誰よ」
焦げた壁へ、右手を向けた。
一つ目。三本ずつ。道は格子に揃える。
結んだ。何も、来なかった。
「零」
二つ目。三本ずつ。道を半分ずらす。
ベルの指が動いた。外の輪。内の輪。六本の道。右上がりに三本。左上がりに三本。横に三本。
最後の一本。
結んだ。
光が。
ほどけなかった。
陣の真ん中から、光が湧いた。ふわりと、膜が広がった。青白い、硝子のような光。
小さかった。手のひらを二つ並べたほどしかなかった。
それは、四角くなかった。
角が、六つあった。
誰も、声を出さなかった。
ベルが自分の手の前に浮かぶ六角の膜を、目を丸くして見ていた。
「……出た」
膜がふっと消えた。
ベルは振り返った。
「出たわよ!? 今、出たわよね!?」
「出た」
蓮は言って、升目に書いた。百十四番目の升目に、初めて、零ではない字を書いた。
一。
研究者の誰かが椅子を倒した。ヘルガが両手で口を押さえていた。リアムが、ロイの背中を何度も叩いていた。
「お前、お前なあ!!」
「痛い。俺は籠を買ってきただけだ」
ベルがフィールの前に立った。
「はい」
顎で壁を指した。
「次は、あんた」
「……私?」
「あんたの壁でしょ。あんたが埋めなさいよ」
フィールは長い間、砂埃の上の陣を見下ろしていた。それから、壁へ左手を向けた。
指が動いた。遅かった。外の輪。内の輪。唇が、数を数えていた。六本の道。三つの向きの線。一本。また一本。
七つ。八つ。
九つ数えた時。
結んだ。
六角の膜がフィールの手の前に生まれた。小さな青白い盾だった。
フィールは、それを見ていた。何も言わなかった。ただ、膜が消えるまで、瞬きをしなかった。
ミラが白い紙に陣を描いた。設計図だった。
老人がそれを受け取って、隅を指で叩いた。
「見つけた者の名を書け。壁の紙は、皆そうしてある」
ミラはペンをフィールに渡した。
フィールは少しだけ考えて、ロイを見た。
「ロイ」
「やめろ。俺は」
「ロイが籠を持って来なければ、まだ零だった」
ロイは口を開けて閉じた。
フィールは紙の隅にペンを走らせた。一人の名前ではなかった。
――特務班。
それだけ書いて、壁の前に立った。右から三つ目の列。六本の段。紙一枚分の何もない石の地肌。
そこに紙を当てた。ヴァイスが黙って釘を打った。
壁の空白は十六になった。
ロイは壁際に立ったまま、その紙を見上げていた。
線の出ない手が、体の横で小さく握られていた。
「硬さは」
老人が言った。
「明日、確かめる。紙のような膜かもしれん」
それから、鼻を鳴らした。
「だが、今夜は言わせろ」
老人は、壁の新しい紙を見上げた。
「在った」




