閉じない陣
その夜、第四部隊の建物に灯りが一つだけ残っていた。
壁の前にフィールが立っていた。右から三つ目の列。六本の段。紙一枚分の、何もない石の地肌。
その前で、左手を上げていた。指が動いた。外の輪。内の輪。結ぶ線を六本。真ん中に、格子。
結んだ。
何も、来なかった。光の線が、ほどけて消えた。
フィールは手を下ろさなかった。もう一度、指が動いた。
蓮は卓の端からそれを見ていた。ヘルガに頼まれた写しの束を届けに来て、そのまま帰れなくなっていた。
数えていた。十二回。十二回とも、何も来なかった。
「フィール」
十三回目の前に蓮は言った。
「今のと、四つ前のは、同じ陣だ」
フィールの指が止まった。
「格子が縦に四本、横に三本。道の置き方も同じだった」
「……そう」
フィールは自分の手を見下ろした。
「覚えていなかった」
「七つ前と、二つ前も同じ」
フィールは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「蓮は、そういうのを全部数えているのね」
「数えるしか、できないから」
蓮は帳面を開いた。日本の会社にいた頃のことを思い出していた。
試して駄目だった案を誰も書き残していなかった。そのせいで、三人が順番に同じ穴へ落ちた。三人目が、蓮だった。
「失敗を、書こう」
蓮は言った。
「閉じなかった陣を、全部」
フィールが振り返った。
「格子の縦が、二本から五本。横も、二本から五本。組み合わせは十六」
ペンが紙の上に升目を引いた。
「道の置き方は、格子に揃えるか、半分ずらすか、三つに一つずらすか。三通り」
十六に、三を掛けた。
「四十八。これで、縦と横の格子は全部だ」
フィールは帳面の升目を見ていた。まだ何も書かれていない、四十八の空欄。
「……四十八回、失敗するの」
「うん」
蓮は頷いた。
「でも、四十九回目は要らない」
翌朝、稽古の後の中庭に七人がいた。それから、桶を逆さにして座っている老人が一人。
「あたしが編むの? 全部?」
ベルが言った。
「一番速いのは、ベルだから」
フィールが言った。
「それに、閉じない陣は」
「何も来ない。だから減らない」
ベルは口を尖らせた。
「分かってるわよ。……指は減るんだけど」
砂の上に、ミラが小枝で陣を描いた。
一つ目。格子は縦に二本、横に二本。道は格子に揃えて六本。線は、一本も震えていなかった。
ベルはそれを一度だけ見下ろして、土の壁へ右手を向けた。
初めての陣だった。いつもなら三つ数えるうちに終わる指が、五つ数えるまでかかった。
結んだ。
何も、来なかった。
「零」
蓮は、升目に書いた。
ミラが砂を均して、二つ目を描いた。ベルが編んだ。
「零」
三つ目。
「零」
リアムが水を汲んできた。ロイが、ミラの小枝が折れるたびに新しい枝を削った。ヴァイスは壁にもたれて、ベルの指を見ていた。
十を越えた。二十を越えた。
ベルの額に、汗が浮いていた。
「……ちょっと。指、つりそう」
「代わる?」
フィールが訊いた。
「代わらない」
ベルは手を振って指をほぐした。
「あんたが編んだら、日が暮れるでしょ」
三十を越えた。四十を越えた。
老人は桶の上から一度も動かなかった。一言も、口を挟まなかった。ただ、砂の上の陣と、ベルの指と、蓮の帳面を、順番に見ていた。
四十八。
ベルが最後の一本を結んだ。何も、来なかった。
ベルはその場にしゃがみ込んだ。
「零」
蓮は最後の升目に書いた。
四十八の升目が、全部埋まっていた。全部、同じ字だった。
フィールは、黙ってそれを見ていた。
老人が桶から立ち上がった。ゆっくりと歩いてきて、蓮の手から帳面を取った。長い間、見ていた。
「わしは、千は試した」
老人は言った。
「千のうち、幾つが同じ陣だったのか。わしは知らん」
皺だらけの指が、升目の上をなぞった。
「書かなんだ。成したものだけを壁に貼った。成さなんだものは、頭の中に置いたつもりで、端から忘れた」
指が、最後の升目で止まった。
「四十年かけて分からなんだことが、一朝で分かった」
「……何が、分かったんですか」
フィールが訊いた。声が、少しかすれていた。
「何も、閉じませんでした」
「閉じん、と分かった」
老人は言った。
「縦と横の格子は、六本の道では閉じん。四十八、全部だ。もう二度と、誰もここを試さんでいい」
帳面が、蓮の手に返ってきた。
「無いと分かるのは、在ると分かるのと、同じだけ重い」
フィールは頷かなかった。頷けずにいた。
空いた壁に手のひらを当てた昨日の自分を、思い出しているような顔だった。
「じゃあ、あそこは」
「縦と横にはな」
老人は言った。
フィールが、顔を上げた。
「先生」
回廊の方から声がした。ヘルガだった。
いつから見ていたのか、腕を組んで柱にもたれていた。口の端が少しだけ上がっていた。
「格子は縦と横だって、誰が決めたんです」
老人は口を開けて、閉じた。
「……写した魔物が、そう編んでおったからだ」
リアムが吹き出した。ベルがしゃがんだまま肩を震わせた。
老人は、鼻を鳴らした。
「わしも、写す目だったらしい」
それから、砂の上の最後の陣を見下ろした。縦に五本。横に五本。ミラの描いた、一本も震えていない格子。
「縦でも、横でもない格子」
老人は呟いた。
「そんなものを、わしは一度も考えなんだ」
それがどんな形なのか。まだ、誰にも分からなかった。
蓮は、帳面の升目の下に、一行書き足した。
四十八。零。
零も、数だった。
あの空いた壁に、昨日よりも少しだけ、近づいていた。




