在るはずの陣
第九十三話 在るはずの陣
第四部隊の長い卓に、紙が三枚並んでいた。ゼノが壁から剥がしてきた設計図だった。火の陣。氷の陣。盾の陣。
卓を囲んでいたのは、フィールと蓮とベル。ミラとリアム。それからヘルガ。
ロイとヴァイスは中庭に残っていた。線の話は任せた、とヴァイスは言った。それきり木剣を振っていた。
「同じ所を言え」
老人が言った。
蓮は三枚を見比べた。
「円が二つ。三枚とも」
「他には」
「二つの円を結ぶ線。火と氷は六本。盾は八本」
「違う所は」
「真ん中」
ベルが言った。
「火は三本が一点で交わってる。氷は三本が三角に閉じてる。盾は格子」
「そうだ」
老人は火の陣の外側の円に指を置いた。
「これは、汲む輪だ。器から魔素を汲む口。どの陣にも必ずある」
指が内側へ滑った。
「結ぶ線は、道だ。汲んだものを中へ運ぶ。内の輪は、溜めだ。運ばれたものがここに溜まる」
指が真ん中で止まった。
「溜まったものが何に成るかは、ここが決める。わしは紋と呼んでおる」
汲む。運ぶ。溜める。成す。
蓮は頭の中で四つ数えた。六本とも同じ顔をしていた線が、初めて別々のものに見えた。
「見ておれ」
老人は焦げた壁へ左手を向けた。
指が動いた。外の輪。内の輪。結ぶ線を六本。ここまでは、火の陣と同じだった。
真ん中で、指が違う動きをした。三本を交わらせずに、三角に閉じた。
結んだ。
白い礫が飛んだ。壁の焦げ跡の上に、霜の花が咲いた。
「道も、輪も、何一つ変えておらん」
老人は手を下ろした。
「紋だけを変えた。火が氷に成った」
「……おい」
リアムが身を乗り出した。
「じゃあ真ん中を好きに描けば、好きな魔法が出るのか」
「出ん」
老人はあっさり言った。
「好きに描いた紋は、まず閉じん。閉じても、何も成さん。わしは千は試した。成したのは、魔物が編んでおった紋だけだ」
「千」
「紋を一から作った人間は、まだおらん」
「でも、昨日の三本の火は」
蓮が言った。
「六本の陣にはなかった陣でした」
「あれは、道を減らしただけだ」
老人は火の陣の結ぶ線を指でなぞった。
「紋は火のまま。だから、火にしか成らん。汲む口が細くなった分、小さく、弱くなる。……それだけのことだ」
指が、真ん中の三本の上で止まった。
「道を減らすのと、紋を作るのとは、別物だ。道は、釣り合いさえ取れれば減らせる。減らしても、火は火、盾は盾のままだ。……紋を変えれば、成るものが変わる。新しい魔法とは、新しい紋のことだ」
蓮は頭の中で二つに分けた。
道を減らせば、同じものが弱く出る。紋を変えれば、別のものが出る。
フィールがその言葉を口の中で繰り返していた。声には出さずに。
蓮はもう一つ別のものを数えていた。
老人が朝から編んだ数。小さな火が四つ。氷が三つ。七つ。息一つ、乱れていなかった。
「ねえ、おじいさん」
ベルも同じことに気づいていたらしかった。
「一日に何発撃てるの」
「数えたことがない」
「先生は昔から、人の倍は撃てたの」
ヘルガが言った。
「生まれつき、器が」
「増えるのよ」
ベルが言った。
「撃ってれば」
老人の手が、止まった。
「……増えるのか」
「あたしは増えたわ。二年で」
老人は自分の左の手のひらを見下ろした。指の腹の焼けた、皺だらけの手だった。
「若い頃は、四つで目が回った」
ぼそりと言った。
「気のせいだと思うておった。器は生まれつきだと、人に教えた手前な。……数えるのが、怖かった」
ヘルガは何も言えずにいた。
「お前に嘘を教えた、ヘルガ」
「……先生」
「すまん」
それだけ言って、老人は何事もなかったように蓮の方を向いた。
「書く手。壁を見ろ」
蓮は壁を見た。何百枚もの設計図。初めてここへ来た日から、何度も見上げてきた壁だった。
「何か、数えられるか」
蓮は端から見ていった。
左の端の列。上から下まで、真ん中の形が同じだった。三本が一点で交わっている。火の紋だった。
その隣の列。三角。氷の紋。その隣。その隣。
今度は、横に見ていった。
一番上の段。結ぶ線が三本。次の段。四本。その下。六本。その下。八本。
「……列が、紋です」
蓮は言った。
「縦に見ると、紋が同じ。横に見ると、道の数が同じ。上から下へ、道が増えていきます」
ヘルガが、壁を振り返った。口が、小さく開いていた。
「……毎日、見てたのに」
「訊かなんだからな」
老人は言った。
研究者の誰かがまた口を押さえた。
「他には」
蓮はもう一度壁を見た。
紙と紙の間に、ところどころ、紙一枚分の隙間があった。釘の跡もない、石の地肌。
「空いている所があります」
数えた。
「十七」
「あれ、剥がれたんじゃなかったのか」
リアムが言った。
「私も、そう思ってた」
ヘルガが小さく言った。
「剥がれたのではない」
老人は壁の前まで歩いていって、隙間の一つに手のひらを当てた。
「この紋で、この道の数。釣り合うはずの陣が、ここに在る。在るはずだが、編んでおる魔物を、まだ誰も見ておらん」
老人は少し離れた所の紙を一枚、指で叩いた。他より新しい、白い紙だった。
「ここも、昔は空いておった。十二年前に、南の砂漠で新しい魔物が見つかった。尾から雷を撃つやつだ」
誰も、何も言わなかった。
まだ誰も見ていない陣を、先に描く。それは、写すことではなかった。
フィールが、壁の前に立っていた。
右から三つ目の列。真ん中に、格子の紋が並ぶ列だった。八本の段に、盾の陣。その上の、六本の段。
空いていた。
「……ここは」
「四十年、空いておる」
老人は言った。
「道が六本の盾だ。汲む量が減る。格子も、五本ずつは要らんはずだ。陣は小さくなる」
小さくなる。
フィールの手が、腰の袋に触れた。
「だが、格子の紋は気難しい。道を減らすと、釣り合わん。わしには、閉じられなんだ」
「硬さは」
「分からん。紙のような膜かもしれん。そうでないかもしれん。編めた者にしか、分からん」
フィールは、石の地肌を見ていた。紙一枚分の、何もない壁。
「……人間に、埋められますか」
「魔物に編めて、人に編めん陣はない」
老人は言った。
「在るならな」
フィールは空いた壁に手のひらを当てた。さっき老人が、そうしたように。
冷たい石だった。その手は、長い間、そこから離れなかった。




