立つ粉
「無駄だ、と」
ゼノが言った。
「先代は、それしか言わなんだ。何十年、会うたびに」
キネシスの執務室だった。机の向こうにキネシス。手前に老人とヘルガ。壁際に蓮とフィール。
ヘルガは部屋に入ってから一度も顔を上げていなかった。キネシスは、机の上で手を組んでいた。
「先代らしい」
青年は言った。
「跳んで見せたところで、何が分かる」
「分からん」
老人は即座に答えた。
「分からんから、見たい」
「先生、もう少し言い方を」
ヘルガが小声で言った。老人は聞いていなかった。
キネシスはしばらく老人の顔を見ていた。
「一度跳ぶだけなら、惜しむほどの力ではない」
青年は言った。
「先代が惜しんだのは、力ではなかったのだろう。……貴族の力は、王より授かったものだ。魔物の真似と並べて語られるのを、先代は好まなかった。私も、好みはしない」
フィールが小さく頷いた。
「だが」
キネシスは懐から帳面を出した。
「確かめたことのないことを、確かめる。それは、私の家の決まりに反しない」
ヘルガが顔を上げた。
「条件が三つある」
キネシスは指を立てた。
「一つ。見たものは全て紙に書け。写しは私が預かる」
「書こう」
「二つ。館の外で、貴族の力を魔法と呼ぶな」
老人は少しだけ口を曲げた。
「……呼ばん」
「三つ」
キネシスは蓮を見た。
「蓮を隣に置く。お前の目が見たものを、もう一人の目に数えさせる」
老人は振り返って、蓮の顔ではなく、手を見た。
「書く手か。構わん。わしの目は、近頃あてにならん」
館の中庭の焦げ跡だらけの土の壁の前に、老人が座り込んでいた。
膝の上に、木の枠に張った白い紙。その上に、小さな袋から灰色の粉を振っていた。薄く。紙の端から端まで。
タイタンが指で砕いた、サンドワームの核の粉だった。
「粉も、陣に引かれるの」
ヘルガが蓮に言った。
「悪魔の砂より、ずっと鈍いけど」
「まず、知っておる方からだ」
老人は枠の下に左手を入れた。紙の下で、指が動き始めた。淡い光が透けた。外の円。内の円。最後の一本の手前で、指が止まった。
粉は、すぐには動かなかった。
三つ数えた頃、ようやく粒が這い始めた。十を数えた頃、紙の上に、ぼやけた灰色の輪が二つ浮かんでいた。
「これが陣だ」
老人は言った。
「魔素は線の上を走る。だから粉は、線に寄る」
指がほどけた。光が消えた。
老人は枠を軽く揺すって、粉を均した。立ち上がるのに、また少しかかった。
「あたしも跳びたい」
ベルが言った。
「遊びではない」
キネシスが言った。
ベルは唇を尖らせて、回廊の柱にもたれた。
中庭の真ん中に、キネシスが立った。その右に、老人。枠を両手で、水平に捧げ持っていた。その向かいに、蓮。三人とも、手を伸ばせば届く近さだった。
キネシスは館の見張り塔を見上げた。
「塔の上へ跳ぶ。風がある。紙を飛ばされるな」
「いつでも」
「数えろ、蓮」
蓮は紙だけを見ていた。灰色の粉が、薄く寝ていた。
跳んだ。
足の下の砂が、石に変わる。その境目で。
粉が、立った。
一粒残らず。紙の端から端まで。寝ていた灰色の粒が、毛を逆立てるように、一斉に。
輪には、ならなかった。線にも、ならなかった。どこへも、寄らなかった。
ただその場で、立った。
風が顔に吹きつけた。見張り塔の上だった。
粉は、もう寝ていた。老人が、外套の裾で枠を覆っていた。覆ったまま、動かなかった。
「……見たか、書く手」
「見ました」
「寄ったか」
「寄りませんでした。立ちました。全部」
「どこから」
蓮は見たものを頭の中でなぞり直した。
「どこからでもなく。端も真ん中も、同時でした」
老人は長い間、目を閉じていた。
「もう一度」
「一度と言った」
キネシスが言った。
「帰りがあるだろう、当主様」
老人は目を開けた。
「この足で、塔の階段を降りろと?」
キネシスは小さく息を吐いて、眼下の中庭を見下ろした。ベルがこちらに向かって両手を振っていた。
跳んだ。
粉が、立った。
同じだった。端から端まで。どこへも寄らずに。足の下が砂に戻った時には、もう寝ていた。
二度とも、同じ。蓮は、それを数えた。
老人はその場に座り込んで、枠を膝の上に置いた。ヘルガが駆け寄った。
「先生」
「線がない」
老人は言った。粉を見下ろしたまま。
「陣は、線だ。魔素は線の上しか走らん。走った跡が、火になり、盾になる。六十年、わしはその線を数えてきた」
皺だらけの指が、紙の縁をなぞった。
「今のは、一本も引いておらん。引かずに、場ごと満たした。当主様の周りを、丸ごと」
「でも、粉は」
「立った」
老人は頷いた。
「この粉が動くのは、魔素にだけだ」
老人はキネシスを見上げた。
「同じものを、使っておられる。……書き方が、違う」
「書き方」
キネシスが繰り返した。
「わしらは、線で書く。当主様のお力は、線ではない何かで書かれておる。それが何かは」
老人は首を振った。
「分からん」
それから、喉の奥で笑った。
「分からんことが、一つ増えただけだ。先代の言うた通り、無駄だったかもしれんな」
キネシスは自分の手のひらを見下ろしていた。
「私は、陣を編んだことがない」
青年は言った。
「跳ぶ先を見る。それだけだ。どう書かれているのかは、私も知らない。……継いだ時にはもう、刻まれていた」
刻まれていた。
ヘルガの目が、前掛けの隠しの上で止まった。そこに、陣を刻んだ石が入っていた。
女は何も言わなかった。
「無駄ではない」
キネシスは帳面を開いて、立ったままペンを走らせた。蓮の位置から、その字が見えた。
――跳ぶ時、傍らの核の粉は、一粒残らず立つ。線にも輪にも寄らぬ。
――移動のキネシス、第四部隊ゼノの手にて、二度、自ら確かむ。
「確かめた事実だけを書く」
青年は帳面を閉じた。
「分からないことは、分からないと分かった所までを書く。それで足りる」
老人はしばらくキネシスの顔を見ていた。今度は、手ではなく。
「……先代とは、違う方だな」
「よく言われる」
キネシスは背を向けて、回廊の方へ歩いていった。
その先の柱の陰にギードが立っていた。腕を組んで、見張り塔を見上げていた。当主が跳んだ先を、まだ目で追っているように見えた。
フィールが蓮の隣に来て、老人の膝の上の粉を見下ろしていた。
「……不敬だと思った」
小さな声だった。
「貴族様のお力を、粉で測るなんて」
「うん」
「でも、キネシス様が書いた」
フィールは少しだけ黙った。
「なら、それは事実よ」
老人が枠を抱えて立ち上がった。今度は、ミラが黙って肘を支えていた。
「明日は、線の話だ」
老人は言った。
「六本が、何をしておるか。……分かる方から、片づける」
その夜、宿舎の裏の井戸のそばで、蓮は帳面を開いた。
今日の数を書いた。二発。
その下に、もう一行。
粉は立った。二度。線は、なかった。
ペンを置こうとして、手が止まった。
北の砂漠の窪地。窓のない悪魔の殻を、この手が貫いた時。
陣は、編まなかった。線は、一本も引かなかった。
蓮は、自分の手のひらを見下ろした。剣だこと、ペンのたこ。それだけの手だった。
その先を、帳面には書かなかった。確かめた事実では、なかったから。




