別の陣
朝の稽古を終えて第四部隊へ着くと、建物の前に荷馬車が一台止まっていた。
荷台に麻袋が山と積まれていた。袋の口から灰色の石が覗いていた。魔物の核だった。
大物の核は全部第四部隊へ回せ。キネシスがそう命じてから、外周の監視塔という監視塔から、こうして核が届くようになっていた。
蓮はミラと並んでその荷馬車を見上げていた。後ろにフィールとベル。
四人ともヘルガに呼ばれていた。盾の陣のことで話がある、と。
「……ねえ」
ベルが蓮の袖を引いた。
「袋の上。何か乗ってる」
乗っていた。
袋の山のてっぺんに、砂色の外套にくるまった何かが丸くなっていた。外套の端から白い髭がはみ出していた。髭が規則正しく上下していた。
「……寝てる」
ミラが言った。
御者台から若い従士が降りてきた。げっそりした顔をしていた。
「南の外れの監視塔から、ずっとこうです」
従士は袋の山を恨めしそうに見上げた。
「核を持っていくなら自分も持っていけ、と。核と一緒でなければ梃子でも動かん、と。……四日、袋の上から降りてくれませんでした」
「誰なの、あれ」
「知りません。塔の兵は皆、爺さんとしか」
ベルが荷台の縁に足をかけた。
「ベル」
フィールが止めるより早く、ベルは袋の山をよじ登って、外套の塊を指でつついた。
「おじいさん。着いたわよ」
髭が止まった。外套の下から皺だらけの顔が出てきた。目だけが妙に澄んでいた。
その目は、ベルの顔を見なかった。つついた指を見た。それから、手のひらを。
「……編む手だな」
嗄れた声だった。
「指の腹が焼けておる。毎日撃たねば、そうはならん」
ベルがぱっと手を引っ込めた。
老人は袋の山から降りてきた。降りきるまでに百を数えるほどかかった。地面に立つと背丈はミラとほとんど変わらなかった。
老人は腰を叩きながら、四人の前を端から歩いた。
ミラの前で止まった。
「弓の手。……いや、鑿も握るな。刻む手だ」
フィールの前で止まった。
「剣の手。それと、同じ所ばかり何かを握り込んでおる。石か」
フィールの手が腰の袋に触れた。
蓮の前で止まった。
「書く手だ。剣だこの上にペンのたこがある。妙な従士だな」
四人とも顔は一度も見られなかった。
蓮の頭の奥で、古い声がした。
建物の扉が開いた。ヘルガだった。片手に鑿、もう片方の手に紙を一枚持っていた。
その鑿が手から落ちた。
「……先生」
老人は振り返らなかった。荷台の袋を一つ、ぽんぽんと叩いていた。
「ゼノ先生!? なんで、塔は、観測は」
「核を取り上げたのはお前だろう、ヘルガ」
老人は言った。
「わしの飯の種を根こそぎ持っていきおって。何を始めたのか、見に来ただけだ」
「ゼノ?」
ベルが首を傾げて、それから、目を丸くした。
「ゼノって、あのゼノ? お養父様の書庫の、陣の本の」
老人が初めて顔を上げて、ベルの顔を見た。
「……読んだのか。あれを」
「読んだっていうか、全部覚えたけど」
老人はしばらく黙っていた。
「十四の館に送って、四十年になる」
ぼそりと言った。
「読んだという者に会うたのは、初めてだ」
ベルは口を開けて、閉じた。
「……ひ、暇だったのよ」
扉の奥から研究者たちが次々に顔を出していた。
「大魔法使いだ」
「本物か」
「生きてたのか」
「その呼び方はやめい」
老人は顔をしかめた。
「大きな魔法など、生まれてこのかた一度も撃ったことがない」
ヘルガが落とした鑿を拾いながら、四人に小さな声で言った。
「魔物の真似を学問にした人よ。壁の設計図の、あの並べ方を決めた人」
女は少しだけ言葉を切った。
「私に陣を教えた人。……私がイライザに教えたことは、全部、この人から教わったこと」
蓮は老人の背中を見た。小さな背中だった。
あの人の剣のその先の先に、この背中があったのだ。
「で」
老人がヘルガに手を出した。
「何を始めた」
ヘルガは前掛けの隠しから、灰色の陣が埋まった下級の石を一つ出して、老人の手のひらに載せた。
「壁に向けて、握ってください」
老人は長い間、石を朝の日にかざして眺めていた。それから、建物の焦げた石壁に拳を向けた。
握った。
ぼっ。
小さな火が壁に当たって散った。焦げ跡が一つ増えた。
老人は動かなかった。自分の拳を見下ろしていた。
「……三つ」
ようやく、言った。
「六十年、三つ数えてきた。編んで、三つ。どれだけ指を鍛えても、三つより先へは行けなんだ」
拳が、開いた。石は、そのままそこにあった。
「それを、握るだけか」
ヘルガが話した。悪魔の核の中の陣。引かれる砂。溝に詰めた粉。
老人は一度も口を挟まなかった。聞き終えて、石の表面を親指でなぞった。
「刻んだのは」
ミラが小さく手を上げた。
「いい線だ。迷いがない」
ミラは何も言わなかった。ただ、自分の指先をじっと見ていた。
「先生」
ヘルガが手に持っていた紙を広げた。シールドの陣だった。
円が二つ。結ぶ線が八本。内側に、縦に五本、横に五本の格子。
「これが、下級の石に入らないんです。格子が詰まりすぎて、線がくっつく。減らせば盾じゃなくなる。……上級の石は、一つしかありません」
フィールが半歩前に出ていた。
老人は紙を見た。
「格子は縦に五本、横に五本。誰が決めた」
「誰って。……写した魔物が、そう編んでいたから」
「魔物は、石に刻むために編んでおらん」
ヘルガが黙った。
「お前は昔から、写す目は一流だった」
老人は紙を返した。
「読む目は、三流だ」
研究者の誰かが吹き出しかけて口を押さえた。ヘルガは何も言い返さなかった。耳だけが赤かった。
老人は焦げた壁へ左手を向けた。指が動いた。遅かった。ベルの半分の速さもなかった。
外の円。内の円。交わる点と、そこから伸びる三本。それから、二つの円を結ぶ線。
一本。
二本。
三本。
指が、止まった。
結んだ。
「あ、足りな――」
ベルが言い終わる前に。
ぼっ。
火が出た。
小さかった。蓮の粉の石の火の、さらに半分ほど。それでも、火だった。
「……嘘」
ベルが呟いた。
「一本でも足りなかったら、陣は閉じないのに」
「六本の陣から三本抜けば、閉じん」
老人は手を下ろした。
「だが今のは、初めから三本の陣だ。輪を等しく三つに割って置いた。釣り合っておれば、陣は閉じる」
老人はベルの手のひらをちらりと見た。
「欠けた陣と、少ない陣は、違う」
ベルは自分の指を見下ろしていた。書庫で覚えた何十もの陣を、頭の中でなぞり直している顔だった。
「一本でも狂えば、別の陣になる」
老人が言った。
「そう教えたのはわしだ、ヘルガ」
「……はい」
「別の陣が、何の陣になるのか。お前は一度も訊かなんだな」
ヘルガは手の中の盾の設計図を見下ろしていた。縦に五本。横に五本。その線を、初めて見るもののように見ていた。
「書く手」
老人が蓮を見た。今度は、顔を。
「火の陣は、覚えておるか」
「円が二つ。線が六本。交わる点が一つ。そこから伸びる線が三本」
「数で覚えておるな」
老人は頷いた。
「では訊く。その六本は、何をしておる線だ」
蓮は答えられなかった。
数えられるものは覚えられる。だが、数えただけの線は、六本とも同じ顔をしていた。
ベルも黙っていた。フィールも。
「明日から、それを教える」
老人は当たり前のことのように言った。
フィールの手が腰の袋を握りしめていた。一つしかない、盾の石。その目が、ヘルガの手の中の設計図から離れなかった。
「その前に」
老人は通りの向こうを見た。屋根の連なりの先に、「移動」の館が見えていた。
「当主様に取り次いでくれ。先代には、会うたびに頼んで、会うたびに断られた。……若い方なら、聞いてくださるやもしれん」
「何をですか」
蓮が訊いた。
「わしの目の前で、一度、跳んでいただきたい」
建物の前が静かになった。
「陣を編まずに出る魔法を、この目の黒いうちに、近くで見たい」
「先生!!」
ヘルガの声が裏返った。
「貴族様のお力を、魔法だなんて」
「口が過ぎるか」
老人は鼻を鳴らした。
「先代にも、そう言われた」
フィールの肩が強張っていた。
蓮は応接の間の夜を思い出していた。握るなよ、とキネシスは言った。貴族が撃てば、自分の魔素を使う。跳ぶ力を振るう分が、その日、減る。
同じ所から、出ている。火の玉も。跳ぶ力も。
なのに、片方には陣があって、片方には、ない。
老人は、荷台の核の袋に手を置いていた。皺だらけの、指の腹の焼けた手だった。
「六十年」
誰に言うでもなく、老人は言った。
「それだけが、分からん」




