空いた席
ある休みの日。
「今日、付き合え」
リアムが言った。
朝飯の後の宿舎で、ロイとヴァイスとミラと蓮の前に立って。
「どこに」
ロイが訊いた。
「酒場」
「昼間からか」
「夕方から。……いい店があるんだよ。安くて、うまくて、うるさくなくて」
リアムは、少しだけ言葉を切った。
「ユーリと、よく行ってた店」
部屋が、少しだけ静かになった。
ロイが、ヴァイスを見た。ヴァイスが、黙って頷いた。ミラが、小さく頷いた。
「蓮も来いよ」
「……いいのか」
「いいに決まってんだろ」
リアムはにっと笑った。
「隊長とちびっこには、内緒な。男だけ……あ、いや」
リアムはミラを見た。
「ミラは、来る」
ミラがこくりと頷いた。
「じゃあ、男だけじゃねえな。……まあいいや、とにかく内緒だ」
「移動」の国の首都の東の外れ。職人たちの住む通りの、さらに奥の路地に、その店はあった。看板もない、小さな店だった。
扉を開けると、煙と、焼いた肉と、麦酒の匂いがした。卓が五つ。客は、仕事帰りの職人らしい男たちが、二組だけ。
「おう、リアムじゃねえか」
奥の竈の前から、太った親父が顔を出した。
「久しぶりだな。相棒はどうした。あの、口をきかねえ槍の兄ちゃんは」
リアムはすぐには答えなかった。それから、いつもの調子で言った。
「死んだ。北の砂漠で」
親父の手が止まった。しばらくリアムの顔を見ていたが、やがて竈の方へ向き直った。
「……そうか」
それだけ言った。
「いつもの席、空いてるぞ」
店の一番奥。壁際の、窓のない卓。
リアムはそこに座った。壁を背にした席に。その隣の、壁際のもう一つの席を空けて。
ロイとヴァイスが、向かいに座った。蓮とミラが、その隣に。誰も、空いた席には座らなかった。
親父が、麦酒の杯を運んできた。五つ。
それから、もう一つ。空いた席の前に、黙って置いた。
リアムが親父を見上げた。
「……頼んでねえぞ」
「俺の奢りだ」
親父は背を向けた。
「あの兄ちゃんは、いつも一杯だけ飲んで、黙って帰った。……一杯くらい、置いてってやれ」
リアムは何も言えなかった。杯を見下ろしていた。
しばらくして、自分の杯を持ち上げた。
「……ユーリに」
ロイが杯を持ち上げた。ヴァイスが。蓮が。ミラは、果実水の杯を、両手で持ち上げた。
「ユーリに」
五つの杯が空いた席の前の杯に、こつんと当たった。
「あいつさ、ここで一回だけ、笑ったんだよ」
三杯目を空けた頃、リアムが言った。
「親父が、竈で肉を焦がしてさ。煙がぶわっと出て、親父が咳き込んで、慌てて水ぶっかけたら、今度は灰が舞い上がって、親父が真っ白になって」
リアムは竈の方を指差した。
「それ見て、ユーリが、ふって笑ったの。声は出さなかったけど。俺、あいつと五年組んでて、笑ったの見たの、あれ一回きり」
「……親父に、もう一回焦がしてもらうか」
ロイが言った。
「聞こえてるぞ」
竈の方から、親父の声が飛んできた。卓の皆が笑った。
ミラも果実水の杯を両手で持ったまま、少しだけ口元を緩めた。ロイがそれを横目で見ていた。
「……ミラが笑った」
「笑ってない」
ミラが杯で顔を隠した。
「笑ってた」
「笑ってない」
「養成所の頃から、ほとんど笑わなかったぞ、お前」
「……ロイが、うるさいから」
「何でだよ」
蓮は二人を見ていた。
養成所の一月半を一緒に過ごした二人だった。登用試験の後、ロイとミラは第三部隊に、蓮は第二部隊に分かれた。
「そういや、なんでお前らなんだ」
リアムが、杯を置いた。
「特務班。隊長が、第三部隊からわざわざ引っぱってきたんだろ」
「知らねえ」
ロイは肩をすくめた。
「急に呼ばれて、館に行ったら、もう決まってた」
ミラが蓮を見た。ロイも、つられて蓮を見た。
「……お前、その場にいたのか」
「いた」
蓮は杯を置いた。
キネシスの執務室で、フィールが特務班を引き受けた時。一つだけ願いがある、と言ったのだ。
「第三部隊は、国境の巡回が仕事だろ。二人とも、国境の地形にも、魔物の縄張りにも詳しい。悪魔の通り道を読むのにも、民を逃がすのにも、それが要る。……隊長は、そう言ってた」
「……なんだ。ちゃんとした理由じゃねえか」
ロイが少しだけ拍子抜けした顔をした。
「それと、もう一つ」
蓮は少しだけ言い淀んだ。
「……俺と、一番息が合うから、って。命を預け合うなら、それが一番大事だって」
ロイが杯を持ったまま固まった。ミラが瞬きをした。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
「……フィールがそんなこと言ったのか。当主様の前で」
「言った」
ロイは杯の中を覗き込んだ。それから急に顔をしかめて、麦酒を一気に呷った。
「……くそ。酒が回ってきた」
ミラが果実水の杯を両手で持ったまま、小さく言った。
「……養成所で、見てたから」
「何を」
「蓮が、夜、一人で素振りしてた時。ロイが横で、足の運びを教えてたのも。私が、水を持っていったのも」
ミラは杯の縁を指でなぞっていた。
「宿舎の窓に、フィールがいた。……毎晩。私、目はいいから」
蓮は知らなかった。
あの夜の中庭を、フィールが見ていたことを。監督役として仕方なく、と言いながら、あの一月半、ずっと。
蓮は、ヴァイスを見た。
ヴァイスはずっと黙っていた。杯を、手の中で回していた。
「ヴァイスは」
蓮が言った。
「国境の夜を、生き延びたんだよな」
ヴァイスの手が、止まった。
「……ああ」
短く答えた。
「第二部隊。隊長の小隊で、ダインと一緒だった」
蓮の胸が、小さく痛んだ。
ダイン。この世界に来て、第二部隊に入った初日に、最初に声をかけてくれた先輩。国境の集落の外れの森で、悪魔に殺された。
「お前も、いたんだよな。あの夜」
ヴァイスが言った。蓮を見ていた。
「……いた」
「俺は、あの夜のこと、よく覚えてねえんだ」
ヴァイスは杯を見下ろした。
「ダインが死んだのは、覚えてる。悪魔が来て、皆、やられた。……でも、その後のことが、霧がかかったみたいで。どうやって生き延びたのか、思い出そうとすると、頭の奥が、ぼやっとする」
蓮は何も言えなかった。
知っていた。あの夜、自分の剣が、悪魔の殻を破って傷を負わせたこと。その記憶が、エスクーダの後に、どこかで書き換えられたのかもしれないこと。
フィールも、時々、同じ顔をしていた。何かを思い出しかけて、掴めない顔。
「……ダインさんは」
蓮はようやく言った。
「最後まで、皆を逃がそうとしてた」
ヴァイスが顔を上げた。
「俺は、それは、覚えてる」
ヴァイスはしばらく蓮の顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうか」
杯を持ち上げた。
「ダインに」
五つの杯が、また当たった。空いた席の前の、六つ目の杯にも。
店を出たのは、夜半近くだった。
リアムは、店の前で、親父に深く頭を下げていた。
「また来いよ」
親父が言った。
「次は、その兄ちゃんたち全員でな」
路地を、五人で歩いた。
ロイとリアムが、肩を組んで何か歌っていた。調子が外れていた。
ヴァイスが、その後ろを、黙って歩いていた。いつもより少しだけ、足取りが軽かった。
ミラが蓮の隣を歩いていた。
「……楽しかった」
ミラが、ぽつりと言った。
「うん」
「……また、来る」
「うん」
ミラはそれきり黙った。でも、その口元は、まだ少しだけ緩んでいた。
同じ頃、館の厨房でベルが竈の前に立っていた。
客間の侍女にもう一度頼み込んで、厨房を借りていた。
小麦の粉。卵。蜂蜜。この前より、塩を少なく。
焼き上がったパンは、四つとも、ほとんど同じ丸い形をしていた。
ベルはそのうち一つを布で包んで、厨房を出た。
宿舎の、隊長の部屋の前で、足を止めた。扉を叩こうとして、手を上げて。下ろして。また上げて。
コン、と一度だけ叩いた。
扉が開いた。フィールが寝間着の上に外套を羽織って立っていた。
ベルの顔を見て、それから、ベルの手の中の包みを見た。
「……何」
「これ」
ベルは包みを突き出した。顔は、横を向いていた。
「この前、渡しそびれたから。……あれは古くなっちゃったから、焼き直した」
フィールは、包みを受け取って、布を開いた。丸いパンが、一つ。まだ、少し温かかった。
「……甘いもの、好き?」
ベルが横を向いたまま訊いた。
フィールはしばらくパンを見下ろしていた。
「……嫌いじゃない」
「そう」
「……ありがとう」
ベルの肩がぴくりと跳ねた。
「べ、別に。余ったから、持ってきただけだし」
そう言って、ベルはくるりと背を向け、廊下を早足で歩いていった。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
フィールはまだ扉の前に立って、パンを見下ろしていた。
その口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
ベルは慌てて前を向いて、角を曲がった。
誰もいない廊下で、小さく、拳を握りしめた。




