休みの日
特務班に、休みの日ができた。
カルの村から戻って十日。東の篝火は、一度も燃えていなかった。
「五日に一度は、稽古を休め」
キネシスが言った。
「魔法も、剣も。体を休めるのも、仕事のうちだ」
フィールは少しだけ渋い顔をしたが、何も言い返さなかった。
その最初の休みの日、夜が明けてすぐに、宿舎の扉が叩かれた。
コン。コン。コンコンコン。
「……誰だ」
ロイが寝台の上で唸った。
蓮が扉を開けると、ベルが立っていた。
いつもの稽古着ではなかった。淡い水色の裾の長い服。髪の二本の束に、細い白いリボンが結ばれていた。その手に布の包みを提げていた。
「おはよ、レン」
「……おはよう」
「出かけるわよ」
「どこに」
「街」
ベルは当たり前のことのように言った。
「休みの日でしょ。二人で、街に行くの」
蓮の背後で、リアムが寝台から転げ落ちる音がした。
「……ここ、従士の宿舎だぞ」
ロイが毛布をかぶったまま言った。
「客間の人は、入ってきちゃいけないんじゃなかったか」
「入ってないわよ。扉の前に立ってるだけ」
ベルは敷居の外側でつま先立ちになっていた。確かに、一歩も入っていなかった。
「それに、早く起きないと、フィールに見つかるもん」
「見つかったらまずいのか」
「まずくない。でも、見つからない方がいい」
ベルは蓮の袖を掴んで、敷居越しにぐいと引っぱった。
「ほら、早く。着替えて。三つ数えるうちに」
「三つは無理だ」
「じゃあ、十」
蓮は扉を閉めた。閉まった扉の向こうで、ベルが「いーち、にーい」と数え始めた。
ロイが毛布の中で肩を震わせていた。ヴァイスが天井を見上げていた。リアムが床に転がったまま、親指を立てていた。
「……行ってこいよ」
「お前らも行こう」
「……一人で行け、俺らは秘密の用事がある」
バレバレな嘘を吐かれた。
「移動」の国の首都は、館を囲むように広がる、石造りの大きな街だった。
朝の市場は、もう人でごった返していた。野菜を積んだ荷車。焼いた肉の匂い。布を広げた露店。遠い国の香辛料。どこかで、笛を吹いている者がいた。
ベルはその真ん中を、蓮の腕を掴んだまま歩いていた。掴んだまま、というより、抱え込んでいた。
「……ベル、歩きにくい」
「はぐれたら困るでしょ」
「はぐれない」
「困るの」
ベルは腕を離さなかった。
すれ違う人々が、ちらちらとこちらを見ていった。淡い水色の服の、明らかに身なりの良い美少女と、従士の平服の男。蓮は、なるべく目を合わせないようにして歩いた。
「ねえ、あれ何?」
ベルが露店の一つを指差した。串に刺した何かを、炭火で焼いていた。
「コースートの串焼きだと思う」
「食べたい」
ベルは蓮の腕を引っぱって、露店の前に立った。懐から小さな袋を取り出すと、中から出てきたのは、銀貨だった。
露店の親父の目が、丸くなった。
「お嬢さん、それじゃ釣りが出せねえよ」
「え」
ベルは銀貨を見下ろして、それから、蓮を見上げた。
「……レン」
「……」
「釣りって、何?」
蓮は黙って自分の懐から銅貨を二枚出して、親父に渡した。串が二本、手渡された。
ベルは一本を受け取って、しばらくそれを見つめていた。それから、もう一本を蓮から取り上げた。
「はい」
ベルは蓮の口元に串を突き出した。
「……自分で食べられる」
「あーん、して」
「しない」
「するの」
串の先が蓮の唇に押し当てられた。周りの人々が足を止めて見ていた。露店の親父がにやにやしていた。
蓮は観念して口を開けた。
ベルが満面の笑みを浮かべた。それから、自分の串にかぶりついて、熱さに涙目になった。
昼過ぎ、市場の外れの小さな広場の石段に、二人で座っていた。
ベルが膝の上で布の包みを開いた。中に、丸いパンのようなものが三つ入っていた。
形が全部違っていた。一つは平べったく、一つはやけに大きく、一つは端が焦げていた。
「……作ったの」
ベルが包みを見下ろしたまま言った。
「客間の侍女さんに厨房、貸してもらって。……初めてだから、変な形だけど」
蓮は、焦げていない、平べったいのを一つ手に取って、かじった。
甘かった。少しだけ、塩が多かった。
「……おいしい」
「ほんと?」
「ほんと」
ベルは、ぱっと顔を上げた。それから、すぐに顔を背けた。耳まで、赤かった。
「……べ、別に。休みの日だから、暇だっただけだし」
蓮は二つ目を手に取った。焦げた方を。
「あ、それは駄目、それ失敗――」
「失敗じゃない」
蓮はかじった。苦かった。それでも、全部食べた。
ベルはそれをじっと見ていた。何も言わなかった。ただ、膝を抱えて、蓮の横顔を見ていた。
その時、広場の向こうの路地から、二つの人影が出てきた。
一人は、背の低い、細い少女。背中に、弓。ミラだった。矢を買いに来たのだろう。腕に、新しい矢の束を抱えていた。
その隣に、フィールがいた。
フィールは、石段に並んで座る二人を見て、足を止めた。ほんの一瞬。それから、何事もなかったように、歩いてきた。
「……休みの日は、休みなさいって言われたでしょう」
フィールは蓮の前で立ち止まった。
「休んでるよ」
「そうね」
フィールの目がベルの膝の上の包みを見た。変な形のパンを。それから、蓮の手の中の焦げたパンの、最後のひとかけらを見た。
「……フィールも来る?」
ベルが言った。包みを、少しだけフィールの方へ差し出していた。
「一つ、残ってるけど」
フィールは包みを見下ろした。大きいのが、一つ。
少しだけ、黙った。
「いいわ。用事があるから」
フィールは言った。
「ミラの矢を、運ぶのを手伝ってるの」
ミラがフィールを見上げた。矢の束は、ミラ一人で十分に抱えられる大きさだった。
ミラは何も言わなかった。
「……行きましょう、ミラ」
フィールは背を向けて広場を横切り、館の方へ歩いていった。
足音は、いつもと同じだった。
いつもと、同じだった。
ミラが一度だけ振り返った。蓮を見た。それから、ベルを見た。それから、前を行くフィールの背中を見た。
小さく首を傾げて、フィールの後を追っていった。
ベルは包みを膝の上に戻して、大きいパンを手に取った。しばらく、それを見ていた。
「……あの人、甘いもの好きかな」
ぽつりと言った。
「さあ」
「今度、聞いといて」
「なんで俺が」
「あたしが聞いたら、絶対いらないって言うもん」
ベルは大きいパンを、布で丁寧に包み直した。食べなかった。
翌朝の稽古の号令は、いつもより少しだけ厳しかった。
「素振り、三百」
フィールが言った。
ロイが、目を剥いた。
「三百!? いつもは二百――」
「昨日、休んだでしょう」
「休めって言ったのはキネシス様で――」
「三百」
ロイは黙って木剣を構えた。
「蓮は、四百」
「なんで」
「昨日、市場で、パンを二つ食べてたから」
中庭の皆が、一斉に蓮を見た。リアムが吹き出しかけて、ロイに口を塞がれた。
蓮は何も言い返さずに木剣を構えた。
フィールはもう蓮の方を見ていなかった。
その夜、蓮は、稽古の後に中庭の柱の脇に片方の手袋を置き忘れていた。ギードとの打ち合いで、親指の付け根が擦り切れて、穴が開きかけていた手袋だった。
探しに戻った時には、もう、なかった。
翌朝、宿舎の扉の前に、その手袋が置かれていた。
穴は塞がれていた。細かい、きっちりとした縫い目で。一針も、乱れていなかった。
誰が縫ったのか、蓮には分かった。稽古着の袖口の綻びを、こんな縫い目で繕う人を一人だけ知っていた。
蓮は手袋をはめた。親指の付け根が、少しだけ硬かった。
中庭に出ると、フィールがもう木剣を手に立っていた。蓮を見て、手袋を見て、何も言わなかった。
「……ありがとう」
蓮は言った。
「何が」
フィールは木剣を構えた。
「素振り、二百。……今日は、いつも通りよ」
その横顔が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
回廊の柱の陰で、ベルが、それを見ていた。唇を、小さく尖らせて。
それから、懐に入れたままだった布の包みを、そっと握りしめた。
大きいパンが、一つ。まだ、渡せずにいた。




